真理4:嘘が本当になる瞬間!
かつて、世界を愛し、その命を燃やし尽くした大賢者エラーラ・ヴェリタスも。
そして、彼女の遺した世界を導くために自らの感情を封殺した最強の飛竜アスナ・クライフォルトも。
長きにわたる戦いの中で、筆舌に尽くしがたい幾多の地獄を目撃してきた。
全ての存在から隔絶され、音も光も、時の流れすらも消失した絶対的な無の空間で、自らの狂気のみと向き合い、永遠にも等しい時間を彷徨い続ける地獄。
肉体を原形をとどめぬほどに破壊され、決して死を許されず、ついに希望の光が差し込む脱出の扉にあと一歩手が届くというその瞬間に、無情にも扉を閉ざされ、再び血濡れた解体台へと引きずり戻される地獄。
背中を預け合い、数々の死線を共に潜り抜けてきたはずの無二の親友たちから、いかなる予兆もなく突如として裏切りの刃を突き立てられ、絶望と共に灼熱の溶鉱炉へと突き落とされる地獄。
己の意志と肉体の制御を完全に他者に奪われ、愛してやまない我が子たちの命を、自らのこの両手で無惨に奪わされるという、魂の根源的な破壊を強要される地獄。
生まれ落ちたその瞬間から肉体を冷たい鎖に繋がれ、衆人環視の冷酷な檻の中で人間としての尊厳の全てを徹底的に蹂躙されながら、ただ新たな命を搾取するためだけの道具として、終わりなき苦痛の連鎖の中に押し込められ続ける無間地獄。
そして、己の全てを犠牲にして世界を滅びの運命から救い出したというのに、その救われたはずの世界の住人たちからありとあらゆる罪と憎悪を押し付けられ、歴史に汚名を残す大罪人として嘲笑と石を投げられながら、処刑台の露と消える地獄。
苦痛というものは常に主観的なものであり、これらの地獄のどれが最も残酷であるかなど、他者が天秤にかけて比較することなど、決してできない。誰の心にも、その者だけが耐え忍んでいる絶対的な地獄が存在する。
だが、今。
分厚い鋼鉄の防壁を抜け、死の大地へと足を踏み入れた狐獣人の少女、ニーアが直面していた絶望は、それら過去の英雄たちが味わったいかなる極限の地獄にも匹敵し、あるいは、それらを遥かに凌駕するほどの、圧倒的で絶対的な孤独という名の地獄であったに違いない。
ニーアの視線の先に広がっていたのは、見慣れた新王都の無惨な廃墟ですらなかった。
そこには、本当に、何もなかった。
空間破壊爆弾「ニヒリスティック・ヴァイオレンス」の直撃は、都市を構成していた高層ビル群も、複雑に入り組んでいた地下鉄の路線も、そして大地そのものの分厚い地殻をも空間ごと完全に削り取っていた。見渡す限りの視界に広がっていたのは、不気味なほどに滑らかで巨大な、すり鉢状のガラスの大地であった。
風の音すらない。
生命の息吹など、最初からこの星に存在していなかったかのような、鼓膜が痛くなるほどの完全な静寂が世界を支配していた。
ニーアは、震える足でその巨大なクレーターに、立った。彼女は祈るように両手を胸の前で強く組み、瞳を閉じ、自身の生命力そのものを極限まで燃焼させて、なけなしの微弱な魔力を限界のその先まで高めた。そして、地平線の彼方まで広がる、あらゆる生命体を感知するための波動を世界に向けて放った。
どうか、誰か。
誰でもいい。
ギデオンの死体でも、ヘレナの欠片でもいい。
アスナの鱗の一枚でもいい。
何か、何か……生きていた、証を!
しかし、ニーアのその悲痛な祈りに対する世界からの返答は、残酷なまでの「完全なるゼロ」であった。
新王都に住まう人間、エルフ、獣人といった種族はもちろんのこと、空を舞う鳥も、路地裏を這う野良猫も、川を泳ぐ小魚すらも。そして、つい数時間前までこの狂った世界を闊歩し、人々を恐怖に陥れていた凶悪な魔獣やキメラに至るまで。生命という概念そのものが、この広大な新王都の跡地からはただの一つも残らず、完全に消滅しているという、事実。それが、冷酷なデータとしてニーアの脳髄に鋭い刃のように突き刺さった。
ニーアの口から、乾いた、しかし血の滲むような嗚咽が漏れた。彼女は、ガラスの大地に両膝を突き、その場に崩れ落ちた。
彼女は、分かりたくなどなかった。
アスナがいない世界。
アスナの不器用な優しさも、珈琲の香りも、ドーナツを頬張る幸せそうな顔もない世界。
ニーアは、新王都という、巨大な墓標にたった一人取り残された、正真正銘、この大地における最後の命となってしまったのだ。
「うわあああああぁぁぁぁぁっ!わっ!うわああいああああッ!!!……はーっ!はーーーっ!はあっっっ!……うぐっ!…………があああああああっ!……ほあっ!あっ!くぐぐぐっ!きいっ!…………………………………………わあああああああああああああああああああああああッッッッッッッッ!!!アスナァァッ!!アスナァァァァァァッ!!!」
意味をなさない絶叫が、虚無の空間に吸い込まれていく。
こだますら返ってこない、完全な孤独。
死んだ世界は、二度と彼女に応えてはくれなかった。
それから、どれだけの時間が流れたのだろうか。
死の灰色の夜が全てを飲み込み、そして白々しく空虚な朝が来て、再び凍えるような絶望の夜が来る。
水もない。
食料もない。
空腹と喉の渇きはニーアの肉体を確実に蝕み、極限の孤独と喪失感は彼女の精神を少しずつ、しかし、確実に狂気と死の淵へと引きずり込んでいた。かつて美しく輝いていた金色の毛並みは汚れ果て、極太の尻尾は力なく泥に引きずられている。黄金の瞳は焦点を失い、もはや自らが生きているのか死んでいるのかの境界すら、曖昧になっていた。
そして、いつかの朝。
ニーアは、かつて新王都の美しい港であったはずの、海岸線の縁に倒れ伏していた。空腹のあまり胃液を吐き散らし、指先一つ動かす力も残されてはいない。
薄れゆく意識の中で、彼女は東の空を見た。
希望に満ちたような、だが、しかし、何の温もりも孕んでいない、空っぽで無機質な朝陽が、水平線の向こうから眩しく昇り始めていた。
世界はこんなにも残酷に終わってしまったというのに、太陽は昨日と同じように、ただ、空を照らしている。
その、圧倒的な無関心さが、ニーアの胸を深く抉った。
その時である。
網膜を焼くような強烈な朝陽を背にして、水平線の彼方から複数の巨大な影が近づいてくるのが見えた。幻覚ではない。重低音の魔力機関の駆動音が、静寂の海を震わせて近づいてくる。それは、ゼランディア軍の最新鋭飛行艇の編隊であった。
彼らは、新王都の完全な消滅を確認し、同時に自らが放った究極兵器の成果と残留エネルギーの調査のために派遣された先遣隊であった。しかし、飛行艇の艦橋にいたゼランディア軍の兵士たちは、魔導レーダーの計器が示す信じがたい数値に、我が目を疑った。
空間と概念すらも粉砕する悪魔の兵器の、まさに爆心地。そこに、たった一つの微弱な生体反応が存在している。それは、いかなる常識をも根底から覆す、論理的に絶対あり得ない奇跡、あるいは呪いであった。
飛行艇は海岸線に静かに着陸し、完全武装の兵士たちが、まるで未知の神聖な生物にでも接するかのように、極度の緊張感を漂わせながらニーアを取り囲んだ。
軍人たちは、警戒しつつも軍の規則に従い、瀕死の状態で倒れ伏す金色の狐獣人の少女を保護するために近づいた。衛生兵が彼女の首筋に触れ、微弱な脈を確認する。そして、部隊長が彼女の泥だらけの衣服の中から身分証、IDカードをそっと手に取った。
そこには、血と泥に汚れながらも、明確な文字でこう刻まれていた。
『ニーア・ヴェリタス』
それはかつて、何者でもない路地裏の孤児であった「ニーア・ヴェル・リータス」という少女が、一人の気高き探偵として裏社会で生き抜くために、親友ギデオン・ヴァンツの手によって極めて精巧に偽造された、ただの、イカサマの、ペテンの……偽物のIDに過ぎなかった。
しかし、この、世界が完全に終わってしまった極限の状況において。その名前は、ゼランディア軍人たちの脳内で、全く異なる強烈な意味を持って連鎖的な爆発を引き起こした。
「まさか……」
部隊長が、恐怖と畏敬の念が入り混じった声で叫んだ。
究極兵器の爆心地において、ただ一人無傷で生き残っている存在。物理法則を無視したそんな神の如き奇跡を起こせる者がいるとすれば、それはゼランディアの歴史に燦然と輝き、世界を救った大賢者エラーラ・ヴェリタスか、あるいは裏社会を支配した最強の魔導士ヘレナ・ヴェリタスの直系の血脈を持つ者しかあり得ない。
エラーラもヘレナも、元を正せば誇り高きゼランディアの出身である。そして、目の前で息も絶え絶えになっている狐獣人の少女も、また、ゼランディアの種族である。軍人たちの頭の中で、希望的観測と畏怖がないまぜになった推論が、一つの揺るぎない確固たる「真実」として組み上がっていった。
「間違いない……。ゼランディアの魔導士の血脈が、この破壊から、彼女の命を守り抜いたのだ。我々は、ゼランディアの、真の、ヴェリタスの正統なる後継者を発見したのだ!」
部隊長の言葉に、周囲の兵士たちは一斉に武器を下ろし、ニーアに対して深い敬意を示すようにその場に膝をついた。彼らは、最も清潔な毛布をニーアの震える体に優しく掛け、携帯食料の温かいスープを彼女の口元に運んだ。
部隊長が、ニーアの虚ろな黄金の瞳を真摯に覗き込みながら、歴史的な瞬間に立ち会うような震える声で、静かに問いかけた。
「……貴女のお名前を、直接お聞かせ願えますか。貴女は、かの偉大な……」
意識の混濁の中で、ニーアはその言葉の意味をゆっくりと理解した。
偽りの名前。ヴェリタス。
エラーラが愛し、アスナが命を懸けて守ろうとした、この愚かで愛おしい世界。
ヘレナが絶望の果てに破壊し尽くした、この混沌とした世界。
その全ての因果と業が、今、何者でもない自分に、収束しようとしている。
路地裏の狐獣人の孤児は、世界の意思とも呼ぶべき残酷な状況と、時代のうねりと、奇跡的な偶然の連鎖によって、今この瞬間、正真正銘の「ヴェリタス」の継承者として祭り上げられようとしているのだ。
アスナの不器用な笑顔が、脳裏を過った。
ニーアの黄金の瞳から、大粒の熱い涙が溢れ出した。それは、失われたすべてへの深い絶望の涙であり……同時に、アスナたちが残した歴史をたった一人で背負って生きていくという、途方もない……覚悟の涙であった。
嘘が、本当になる瞬間。
ニーアは、乾ききった唇を微かに震わせ、ゼランディアの軍人たちに向かって、はっきりと答えた。
「あたしは……ニーア。……ニーア・ヴェリタス……!」




