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ヴェリタスの最終定理Ⅲ 野狐の偽証  作者: 王牌リウ
●第18章:混沌の街

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真理5:破滅を与える者たち!

アキラ・トバリの身体が、冷たいコンクリートの床に崩れ落ちた。

その乾いた破裂音は、地下アジトの淀んだ空気を震わせ、そして、アスナ・クライフォルトの脳の最深部に強固に施されていた、ある物理的かつ魔導的なプロテクトを完全に粉砕した。

彼女の黒髪が、一瞬だけ重力を失ったかのようにふわりと舞い上がり、黒縁眼鏡の奥の瞳孔が、限界まで収縮と拡大を激しく繰り返した。

アスナの記憶は、今、すべて復元された。


アスナ・クライフォルト。

記憶喪失の竜人であり、探偵の助手。それは、彼女の真なる姿を隠蔽するための、極めて精巧に作られた仮初めの姿に過ぎなかった。アキラの死。あるいは、彼女自身の魔力が完全に限界突破を果たすこと。そのいずれかの重大事態が観測された時のみ解除されるよう設定されていた記憶の封印が、今、アキラの呆気ない死というトリガーによって、解き放たれたのである。

脳髄を焼き尽くすような圧倒的な情報量の奔流。

アスナの網膜の裏側に、かつて自らが天空を覆い尽くすほどの巨大な翼を広げ、崩壊しゆく世界をその身を挺して抱き留めた光景がフラッシュバックする。

彼女は、ただの竜人ではない。かつてこの狂った世界を文字通り「復活」させた、飛竜そのものであった。世界を再構築した代償として、彼女は自らの力の大半を失い、少女の脆弱な姿に魂を圧縮して封じ込めることを余儀なくされた。そして、彼女が完全に力を取り戻すまでの間の絶対的な護衛として彼女の傍に配置されていたのが、他ならぬ、アキラ・トバリであったのだ。彼はアスナの味方であり、この世界の存続を願う者たちの最後の砦を守るという、最も過酷で孤独な使命を帯びた男だった。そのアキラが、マフィアという偽りの顔を被らされたまま、狂気の中で犬死にした。その事実が、アスナの記憶の復元を完了させたのである。


記憶の濁流の中で、アスナの心は最も愛おしく、そして最も残酷な一つの像を結んだ。銀色の髪。冷たい研究室の空気の中で、常に彼女を優しく包み込んでくれた白衣の匂い。ゼランディアの大賢者であり、この世界における魔導技術と論理の最高到達点。

エラーラ・ヴェリタス。

彼女は、アスナが永遠の愛を誓い合った、妻であった。

かつての王都において、エラーラ・ヴェリタスという存在は、単なる一人の優れた魔道士ではなかった。彼女は、この世界に渦巻く無限の悪意や、種族間の果てしない憎悪、権力者たちの腐敗した欲望を、その圧倒的な知力と絶対的な魔力によって押さえつける、世界の調停役であった。エラーラという名の巨大な重石が存在していたからこそ、人々はかりそめの平和を享受できていたのだ。しかし、その絶対的なシステム管理者は、突如としてこの世界から永遠に失われた。公式の記録においては、エラーラ・ヴェリタスは行方不明とされている。大賢者の不在は、社会のタガを完全に外した。彼女が抑え込んでいた悪意が間欠泉のように噴出し、ついに新王都は未曾有の混乱のディストピアへと転落していったのである。

だが、記憶を取り戻したアスナは、真実を知っていた。エラーラは行方不明などではない。彼女は殺害されたのだ。世界に致命的な厄災を撒き散らし、最愛の妻であるエラーラの命を奪った張本人。……それが、今、目の前で銃口を下ろし、冷徹な視線をアキラの死体に投げかけているマフィア組織ニルヴァーナのボス、ヴィルゴ・ライ・リーアであった。


ヴィルゴの真の名は、ヘレナ・ヴェリタス。

エラーラ・ヴェリタスの、実の生き別れの妹である。

なぜ、エラーラの妹が、姉を殺害し、世界を破滅へと導くような真似をしたのか。なぜ彼女は、先刻の襲撃でアスナを庇い、現在に至るまで彼女を自分の手元に置いているのか。膨大な記憶のアーカイブが、そのすべての問いに対する冷酷な解答をアスナの論理回路に提示した。


かつて、ヘレナは過酷なスラムに捨てられた名も無き孤児だった。死を待つだけだった彼女の人生を救い上げたのは、アスナの父にあたる人物、狂気の天才哲学者、シュピーゲル博士であった。シュピーゲル博士は彼女にとっての絶対的な恩師であった。

しかし、そのシュピーゲル博士は、究極の平和を実現するためには、人類を一度極限の絶望へと叩き落とす必要があるという狂信的な思想に取り憑かれていた。彼は世界を破滅に導くための大規模な戦争を計画し、さらにもう一度世界大戦を引き起こそうと、気象衛星から王都を爆撃をするという、恐るべきテロリズムを開始した。

飛竜として、そして世界を愛する者として、アスナには選択の余地がなかった。彼女は自らの手で、父のシュピーゲル博士を粉砕し、その野望を完全に断ち切ったのである。それは、大局的な視点から見れば、何十億という命を救うための最適化された行動であった。しかし、ヘレナにとっては、自分を救ってくれた唯一の光を理不尽に奪い去られた絶対的な絶望でしかなかった。

ヘレナは絶望の底でヴィルゴ・ライ・リーアという偽名の復讐鬼と化した。彼女の目的は、単にアスナを殺すことではない。記憶を失ったアスナを自分の手元に置き、彼女の記憶が戻るその瞬間を待ち続けること。そして、記憶を取り戻したアスナに、自分がどれほど取り返しのつかない罪を犯したのかを自覚させ、血の涙を流して懺悔させた上で、自らの手で最も残酷な方法で処刑する。先刻、リオンの襲撃からアスナを庇ったのも、アスナが記憶を取り戻す前に死なれては、完璧な復讐が成立しないからである。それが、ヴィルゴの人生のすべてを懸けた復讐のシナリオだったのである。


その復讐の物語の周辺には、さらに複雑な因果が絡み合っていた。先日のバルでアスナに襲いかかってきた狂人、リオン・ゴルドファング。彼もまた、無関係な通り魔などではなかった。彼はかつて、アスナと肩を並べて戦った元相棒であった。彼がなぜ正気を失い、アスナを標的としたのか、その完全な動機はアスナの演算能力をもってしても不明であった。だが、彼には一つの特筆すべき過去があった。リオンはかつて、シュピーゲル博士の右腕であったレクタ・ファルサスという凶悪な犯罪者を追い詰め、逮捕に導いた英雄だったのである。レクタ・ファルサスもまた、ヘレナの人生を救済した恩人の一人であった。ヴィルゴがリオンの襲撃を待っていたかのように迎え撃ち、彼を爆殺した際に喜んだのは、自らの恩人を破滅させた英雄への復讐の達成を意味していたのだ。


すべては、繋がっていた。

狂気のように見えた事象の羅列は、ヴィルゴという中心点に向けて収束する、完璧に計算された悲劇の数式であった。

記憶の復元が完了し、アスナは完全に自分が誰であり、今何をすべきかを自覚した。彼女の論理回路は、沸き上がる感情のノイズを完全に遮断し、ただ一つの究極の目的のために再構築された。


なぜ、アスナは、自らの殺害を狙っているであろうヴィルゴの正体に気づきながらも、彼女に接近したのか。それは、このエラーラを失い、崩壊へと向かう社会を救うための、最も冷酷で、最も人間的な計画のためであった。

新王都は、いや、この世界全体が、強大な絶対者による強制的な秩序の維持を必要としている。エラーラ・ヴェリタスと同じ魔力波動を持ち、同じ血を引き、極限の悪意と悲しみを経験したヴィルゴ・ライ・リーア、すなわちヘレナ・ヴェリタス。アスナは、このヘレナを、エラーラの妹として社会の表舞台に送り出すか、あるいは、死の淵から復活を果たしたエラーラ・ヴェリタスという究極の「嘘」の象徴として君臨させ、狂った社会を再び統治させることを狙っていたのである。

そのためには、ヴィルゴの底知れぬ憎悪と復讐心を、どこかで世界への責任へと昇華させなければならない。

アスナは、自分を憎悪し殺害しようと企むヴィルゴを、新たな世界の神へと仕立て上げなければならない。

アスナは、記憶が戻ったことを微塵も悟られないよう、いつもの無機質な、記憶喪失の竜人としての仮面を顔に張り付けた。彼女の青い瞳は、かつてないほどの深い悲壮と決意を宿していた…………。


それから、どれだけの時間が流れただろうか。狂気に沈む新王都の地下深く、ニルヴァーナのアジトは、アキラという絶対的な暴力を失い、奇妙な静寂と緊張感に包まれていた。

ある日のこと。アジトの重い鉄扉が開き、外部からの来訪者が引きずり込まれてきた。墓守教からの使者であった。それは、背中が丸く曲がり、手足の細い、貧相な身なりをした人間の老夫婦であった。彼らは新王都の狂気から逃れるようにして地下へと潜り込み、墓守教の使いとしてヴィルゴに何らかの重要な取引か、もしくは情報提供を持ちかけようとしていた。しかし、彼らの言葉が最後まで紡がれることはなかった。狂気に敏感になっているニルヴァーナの構成員たちは、彼らを即座にスパイとみなし、冷酷に拘束し、床に押さえつけた。


「ボス。ネズミです。処理しましょうか」


ヴィルゴは、玉座のような革張りの椅子に深く腰掛け、氷のような冷たい視線で老夫婦を見下ろした。彼女は数秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「アスナ。前へ」


アスナが、その声に反応して立ち上がった。


「指示を」


「殺せ。その二人を。我々の情報を外部に漏らされるわけにはいかない。お前がやれ」


ヴィルゴの命令は、極めて簡潔で、一切の感情を交えないものであった。しかし、アスナの高度な演算回路は、その瞬間に致命的なエラーを警告し始めた。

アスナは、床に押さえつけられ、恐怖に震える老夫婦の顔を捉えた。

床に転がっている人間の老夫婦。

それは、他でもない。

かつて、幼い竜人アスナを拾い、実の娘のように深い愛情を注いで育ててくれた養父母……ケンジ・クライフォルトと、アリア・クライフォルトであった。

アスナの脳内で、膨大な過去のデータが暴走を始める。

ケンジの不器用だが温かい手の感触。

アリアが作ってくれた、少し焦げたシチューの匂い。

竜人という異端の存在である自分を、周囲の迫害から必死に守り抜いてくれた、小さくも偉大な人間たち。

だが、床に這いつくばる老夫婦の瞳には、目の前に立つ黒髪の女が、かつて自分たちが愛した娘であるという認識は……一切なかった。彼らの目に映っているのは、今まさに自分たちを処刑しようとしている、血も涙もない殺し屋の姿だけであった。

ここでアスナが両親を殺せないと強く抵抗すれば、その不自然な感情の吐露は、ヴィルゴの鋭い観察眼によって瞬時に見抜かれるだろう。記憶喪失の探偵という仮面が剥がれ落ち、記憶が完全に復元していることが露見する。そうなれば、ヘレナを新たな調停役として君臨させるという、世界を救うための巨大な数式が完全に崩壊する。

数十億の命と、目の前の二つの命。

アスナは内面の崩壊を完璧に隠し去った。彼女は一切の感情を表に出さず、ただ、記憶喪失の少女として、極めて自然な、論理的な抵抗の形をとった。


「指示には従いかねる。私は探偵であり、殺し屋ではない。それに、非武装の老人を殺害するという非合理な行為は、ニルヴァーナの……」


それは、「親を殺したくない」という魂からの絶叫を、「人を殺したくない」という一般的な倫理観の皮を被せて偽装した、血を吐くような、最後の抵抗であった。

しかし、ヴィルゴは冷笑を浮かべた。


「やれ。」


ヴィルゴの桃色の魔力が、微かに部屋の空気を震わせる。その魔力は、かつてアスナが愛したエラーラと全く同じ波長であり、それゆえにアスナの心を……最も残酷に抉り取った。


逃げ道は、なかった。


アスナはゆっくりと歩み寄り、魔導拳銃を引き抜いた。銃口を、自分に無償の愛を与えてくれた父親、ケンジの頭部へと向ける。


「ひぃぃっ!や、やめてくれ!私たちはただ、情報を伝えに来ただけなんだ!」


ケンジの悲痛な叫び声。

アリアは隣で泣き崩れ、震える手で夫の背中にしがみつく。


ごめんなさい。


お父さん、お母さん。


声にならない絶叫が、アスナの魂の奥底で鳴り響いた。

引き金が、極めて滑らかに引かれた。

鼓膜を破るような乾いた銃声が連続して地下室に響き渡った。

魔導弾は正確に老夫婦の頭蓋を撃ち抜き、二つの命は、この世界から消去された。血の匂いが、アジトの空気を重く染め上げる。

アスナは銃を下ろし、無表情のまま、床に広がる血の海を見つめていた。


その凄惨な光景を、部屋の最も暗い隅から、ただ黙って見つめている者がいた。

狐の獣人、ニーア・ヴェリタス。

本名、ニーア・ヴェル・リータス。

彼女は、アスナの記憶の封印にも、ヴィルゴの復讐の怨念にも、エラーラの遺産にも、この世界の神話的な因果律のいかなる部分にも、一切関係のない存在であった。彼女は本当に、ただの探偵であり、たまたまこの場に居合わせ、たまたまこの狂気の渦に巻き込まれただけの、何者でもない第三者である。

しかし、その黄金の瞳は、目の前で繰り広げられた地獄の演劇を、一切の瞬きもせずに記録していた。


記憶を取り戻しながらも、愛する世界を救うために自らの両親を撃ち殺し、感情のすべてを殺して冷徹な仮面をかぶり続けるアスナ。


かつて恩師を殺された憎悪を胸に秘め、アスナが最も苦しむその瞬間を待ちわび、彼女を永遠の地獄へと突き落とそうと企むヴィルゴ。


そして、その壮絶な愛憎劇のすべてを何も知らないまま、しかし、すべてを見透かすような瞳で静観する、何者でもないニーア。


血に塗れた地下室の淀んだ空気の中で、三人の視線が交差することはなかった。運命の歯車は、静かに、そして確実に回り始めていた。

真の絶望と、真の救済のドラマが、ついに、幕を開けたのである。

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