真理4:神経ガスを撒け!そして射殺される相棒!
新王都政府が正式に認可した地域自警団ナンバーレス・ヴェンジェンスによる密告制度は、この街の病理を加速させるための最も効率的なシステムとして、恐るべき成果を上げ続けていた。
昨日まで親しく言葉を交わし、同じ釜の飯を食っていたはずの隣人が、今日は冷酷な監視者へと変貌する。罪もない人々が、ゼランディアの同調者あるいは潜在的な反逆者という根拠のないレッテルを貼られ、次々と王都中央警察署の地下牢へと連行されていった。
指定暴力団ニルヴァーナの隠しアジトの一つである、廃工場の地下室。
調査から戻ったニーアは、怒りのままに声を荒げた。
「どうなっているのよこの街は!ほんの数時間の間に、情報屋が三人もしょっぴかれたわ。これじゃあ、これからどうするか、計画を立てるどころの話じゃないわよ!」
彼女は知らなかった。
「これからどうするか」という命題自体が、すでに、過去の遺物となっていたという事実を。
真実は、既に、完了していたのである。
あの日、作家ギルガがその命を絶つ原因となった魔獣襲来の幻影放送事件。あの忌まわしい放送の裏側で、すでに、世界はデルドゥーロ・ドクトアの手によって、完全に終わっていたのだ。
すべては、デルドゥーロの狂気に満ちた執念の産物であった。デルドゥーロの目的は、よくある「世界征服」でもなければ、「世界の破滅」でもない。
ただ、純粋に、純粋に歪んだ愛と正義のために、ゼランディア人をこの世界から一匹残らず「駆逐してあげて」、徹底的に「迫害してあげる」こと。その一点のみに彼の全存在は集約されていた。彼はその悍ましい目的を達成するために、皮肉にも、彼自身が深く憎悪するゼランディアの技術を徹底的に解析し、悪用することを選択した。
かつて、ゼランディアが誇る大賢者エラーラ・ヴェリタスを苦しめた二つの絶望的な魔導技術があった。
一つは、他者の精神に強制的に干渉し、絶望や苦痛といった同じ感覚を強制的に共有させて精神を破滅へと導く魔法である「魂の共鳴」。
もう一つは、人体というシステムを物理的かつ魔導的に極限まで解体し尽くす殺人技術である「最適化」。
エラーラ・ヴェリタスは最終的に、それらの技術を打破することに成功したが、彼女のような超越的な存在でさえ、一度は明確な敗北を味わわせたほどの、恐るべき力であった。
さらに、エラーラ・ヴェリタスが人類の脅威である思考蟲の群れと激突した際、彼女の高度な思想と深淵なる魔導の知識は、思考蟲のネットワークにコピーされ、蓄積されていた。
デルドゥーロは、その事実に目をつけたのだ。
彼は莫大な資金とあらゆる非合法な手段を用いて、一匹の思考蟲を生け捕りにした。そして、その思考蟲の内部に蓄積されたエラーラ・ヴェリタスの知識を抽出し、魂の共鳴と最適化の理論を融合させたのである。
完成したそれは、「並列化」と呼ばれる全く新しい魔法の概念であった。並列化は、思考蟲の持つネットワーク構築能力を利用し、対象者の脳の基幹OSを強制的に書き換える。その書き換えられたOSに組み込まれる唯一の絶対的な命令規則は、ゼランディア人を無条件に憎悪し、殺害せよというものであった。
魔獣襲来の放送が行われたあの日、魔導通信網である地脈Wi-Fiを通じて、並列化の魔法の種は新王都中に、いや、全世界の魔導端末に向けて不可視のデータとして、「すでに」、放出されていたのである。
新王都の市民たちは、空に浮かぶ恐怖の幻影を見上げながら、無意識のうちにその種を脳内に深く植え付けられていた。世界は、デルドゥーロが手元の魔導端末のスレートで起動のトリガーを引くだけの、巨大な時限爆弾へと変貌していたのだ。誰も、その事実に気がついていない。もうすでに、世界はデルドゥーロの手のひらの上にあった。
そして今。
デルドゥーロは決断を下した。新王都を守るという彼なりの歪んだ「愛」と、ゼランディア人を迫害するという純粋な「正義」を行うため、彼は並列化の魔法を起動したのである。魔法が作用するのは、新王都人の識別番号を公的に持つ者に限定されていたのだ。
新王都の戸籍を持ち、社会の歯車として生きる善良な市民たちすべてが、その対象であった。デルドゥーロが魔法の起動ボタンを押したのと全く同じ時刻。新王都の目抜き通りである中央大通りに、異様な光景が出現した。
ゼランディア国の公式マスコットキャラクターであり、愛らしい大きな瞳と丸いフォルムを持つ「ゼラピィ」。その着ぐるみを着た者たちが、数十人規模で、突如として現れたのである。しかし、彼らはその愛らしい外見とは裏腹に、手に不釣り合いな金属製のスプレー缶を固く握りしめていた。着ぐるみの中にいるのは、もちろんゼランディア人ではない。デルドゥーロの密命を受けた、新王都人、ナンバーレス・ヴェンジェンスの過激派構成員たちであった。大量のゼラピィたちは、無言のまま、すれ違う新王都の市民たちに向けて次々とスプレーを噴射し始めた。それは、吸入すれば数秒で神経系を麻痺させ、激しい痙攣を引き起こした末に死に至らしめる、極めて強力な致死性の神経ガスであった。平和な休日の通りは、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
倒れ伏す人々。
泡を吹いて絶命する子供たち。
逃げ惑う群衆の悲鳴。
そして、その信じ難い光景を建物の窓から、あるいは、安全な距離から目撃していた無数の善良な市民たち。
ゼランディア国のマスコットが、無差別に新王都人を殺害している。
その強烈な「物語」が、魔法の引き金となったのだ。
善良な市民たちの瞳から、個人の意志や理性の光が急速に失われていく。彼らの脳のOSは完全に書き換えられ、ただ一つの命令のみを実行する生きた自律機械へと成り果てた。
ゼランディア人を、憎め。
ゼランディア人を、殺せ。
新王都の七割を占める新魔道士たち、そして魔力を持たない一般市民たちの心は、デルドゥーロの意図通りに完全に並列化され、一つの巨大な狂気の集合体となったのである。
計画は完璧であった。
ゼランディア人を滅ぼすための、狂気に満ちた歯車は完全に噛み合い、轟音を立てて回り始めた。王都魔導規制局・合同庁舎から少し離れた裏路地で、デルドゥーロはその惨劇の音を遠くに聞きながら、歓喜の喜びに打ち震えていた。彼の目の前には、誰もいない汚れたレンガの壁があるだけだったが、彼の脳内にはゼランディア人が悲鳴を上げて逃げ惑う美しい光景が鮮明に広がっていた。
「素晴らしい。これで、この世界から忌まわしい汚物が完全に消え去る。私は、新王都を真の平和へと導く究極の救世主となるのだ」
彼は懐から通信用のスレートを取り出し、次なる部隊への指示を出そうとした。
その時であった。
デルドゥーロの背後の暗い路地裏から、フラフラとした覚束ない足取りで一体のゼラピィの着ぐるみが歩いてきた。その着ぐるみの中の構成員は、神経ガスを人々に噴射する役割に異常に興奮しすぎたのか、はたまたガスの取り扱いを誤って自ら微量に吸い込んでしまったのか、極度のパニック状態に陥っていた。
「ああああっ!どこだ、どこにいる!もっとガスを浴びせてやる!」
着ぐるみは、スプレーを振り回しながら、デルドゥーロの真後ろへと迫った。デルドゥーロが背後の異常な気配に気がつき、振り返ろうとした瞬間。高濃度の神経ガスがデルドゥーロの顔面に直撃した。
「……は?」
デルドゥーロの口から漏れた最期の言葉は、あまりにも間抜けな、ただの疑問符であった。彼の優れた頭脳も、冷酷な計算も、この全くの偶然による凡ミスを予測することはできなかった。
神経ガスは瞬時に彼の呼吸器から脳へと到達し、中枢神経を完全に破壊した。白目を剥き、口から泡を吹いて、デルドゥーロは絶命した。自らが放った暴力の末端によって、彼は誰にも看取られることなく、そして自分の死の意味すら理解できないまま、路地裏のゴミのように死んだのである。
呆気ない死であった。
デルドゥーロ自身も、自分がなぜ死ぬのかを理解できず、驚愕のままに魂を散らした。
そして。
このデルドゥーロの完全なる凡ミスによって、世界は本当の絶望へと突き落とされた。並列化の魔法は、術者であるデルドゥーロの魔力波長と複雑にリンクしており、彼自身が正規の解除プロセスを踏まない限り、永遠に効力を発揮し続ける仕様になっていたのだ。術者が自らの愚かさで死んだ今、魔法を解く手段は完全に絶たれた。新王都の人々は、永遠にゼランディア人を憎み続ける狂気の機械となってしまったのである。
だが、この「善良な市民たち」の暴走という絶対的な絶望に染まった世界において、デルドゥーロの魔法の影響を全く受けなかった者たちがいた。
「善良ではない市民たち」である。
魔法の発動条件は、あくまで新王都人の識別番号を持つ者であった。ゆえに、戸籍を持たず、社会の影で生きるゼランディアのアウトローたち、すなわちニルヴァーナの構成員たちの脳内には、魔法は、作用しなかった。
そしてもう一つ、皮肉な例外が存在した。新王都人の識別番号を持ちながらも、脳に思考蟲を寄生させている宗教団体、墓守教の信者たちである。彼らの脳のOSは、すでに、思考蟲という別のシステムによって占拠されていたため、デルドゥーロの並列化の干渉を物理的に弾き返していたのだ。
ニルヴァーナのアジトにて。
突如として街の空気が一変し、外から聞こえる暴徒の叫び声が、単なる怒りから機械的な憎悪の合唱へと変わったのを、アキラ・トバリは敏感に察知した。
「街の匂いが、変わった……?」
アキラの赤瞳が、鋭い光を放つ。
アスナは魔導端末を操作し、街中の監視カメラの映像を猛烈な速度で解析していた。彼女の細縁黒眼鏡の奥で、膨大なデータが青い光となって反射している。
「行動パターンが、統一されている。何らかの魔導的干渉により、『識別番号を介して』強制的に狂気を固定された。……これは単なる暴動ではない」
その時だった。
アキラの身体が奇妙に痙攣した。彼の赤い瞳から意志の光が急速に失われ、濁った、底なしの憎悪の色が染み出してきた。彼は自身の頭を抱え、獣のような呻き声を上げた後、突然、ニーアとアスナの方を振り返った。
「俺が守るべきなのは、こんな汚らわしいゼランディアの寄生虫どもじゃない」
アキラの口から飛び出したのは、ゼランディア人に対する剥き出しのヘイトであった。
「奴らは新王都の平穏を脅かす悪だ。番号持ちの力を持つ奴らは、一匹残らず駆除しなければならない。そうだ、僕は、新王都人として、奴らを排除する義務がある……!」
ニーアは、信じられないものを見る目でアキラを見つめた。
「ア、アキラ……?何を言っているのよ……」
ヴィルゴが、冷徹な瞳でアキラを見つめた。彼女は、「魔法が効いている」という事実から、一つの、そして唯一の論理的な正解を導き出した。
ヴィルゴは、アキラに向けて静かに銃口を向けた。
「つまり、お前は識別番号を持つというわけだ。潜入捜査官か、あるいは……まあ、それはどうでもいい」
アキラは、ヴィルゴの言葉を理解していないようだった。
「さようなら」
銃声が、地下アジトに虚しく響き渡った。
ヴィルゴが放った魔導弾は、アキラの眉間を正確に貫いた。
アキラの身体は、何の抵抗も見せないまま、糸が切れた人形のようにアスファルトの床へと崩れ落ちた。




