今更の話
婚約後の話です。
「は〜ぁー…………」
「………………」
今日も今日とて伯爵邸である婚約者の家に朝から入り浸る少女は、長いため息を吐いた。
それを目の前で聞かされた男だが、あえて彼は何も言わない。
それに気づいた少女も不満げに口の先を尖らせながら、口を開く。
「わたしばっかり旦那様が好きでたまりません」
「今更だろ」
あえて不満を隠さず口にしても、目の前の騎士は知らん顔でこちらを振り向くこともない。
今、彼は珍しく読書をしていた。
脳筋、と周囲の人間から認知される彼が読書をしている光景は、もはや異次元のような感覚を催す。
しかも見た目がおとぎ話の王子様然としたものなので、妙に読書する姿は背景に溶け込み本当に不思議な光景だった。
しかし、よくよく見ればその手に持つ本のタイトルは「さらなる研鑽、培う力の先」というなんとも脳筋らしい題目なのが確認できる。
(この方、まだ強くなられる気かしら?)
すでに騎士団長と並びつつある強さを持っているというのに、更に鍛錬を行うのだとすれば一体どこまでの高みに登るつもりだと疑いたくなる。
普段は剣を片手にしている彼が、今や本を片手に携えているのだから、その珍しさのあまりずっと眺めていた彼女も流石に信じられない気持ちになる。
そして普段自分が読んでいる書物といえば貴族令嬢らしい創作の夢物語の話や、魅力的な女性に一歩でも近づけるための教本だ。
あまりに眼の前の男と種類の違う種目だと思えば、なんだか寂しさを感じてしまう。
彼が読んでいるのだから、とこれまで全く興味の示さなかったその系統の本もいつか読んでみようかしらと考えたところで少女は気がついた。
自分ばかりが彼に合わせている、と。
そして今もたとえ読書中だとはいえ、婚約者にこのあしらいである。
自分であったなら旦那様が話しかけてくれただけで本の内容も忘れ彼と向き合って話をしようと心を弾ませるところであるが、やはりと言ってか彼はそうではない。
「…………わたしばかりが、貴方を好きでたまらない」
「………………」
そして無視である。
まるで恋物語のセリフのような言葉を口にしても、相手は気にもしない。まるで聞こえていないかのように続けて読書にふける彼に、少女は「いつものこと」と自身に心の中で言い聞かせ肩を落とした。
それでもしょんぼりとした感情は元には戻らず、先程まではいつまでも見つめ続けられるとさえ思っていた珍しい騎士の読書姿ももう直視できる気になれず、彼女は背を向けた。
(もういっそ、今日は帰ろうかしら)
諦めにも似た気持ちで少女がそれまで彼の隣りに座っていたソファから立ち上がり、肩を落としたままそのそばを離れようとすれば────。
グイッ!
突然後ろから腕を引っ張られ、その弾みで再度ソファに乗り上げさせられる。
突然の衝撃に目を回す彼女は、自身が乗り上げされられたのがソファではなく男の膝の上だとは気づかない。
「…………おい」
危うく目を回したまま視界の暗転に気が飛びそうになる少女に、男は声をかける、
条件反射といってかそれに少女が振り返れば、それと同時に蟀谷に何かを押し当てられた。
チュ、とわざとらしい小さなリップ音を残して。
「これで満足してろ」
そう一言口にすれば、男は用が済んだとでも言うようにまた読みかけの本に目を向けた。
事態を理解したと同時に顔を真っ赤に染め上げた一人打ち震える少女を残して。
「………………〜っ!!もぅっ!……もうっ!!」
これまで大人しくしていたとは思えないほど幼い反応を見せる彼女に興味を見せることもなく、男は読書を続ける。
そんな彼の膝に乗り上げた状態のまま、少女もまたその肩をポンポンと優しく叩く。
騎士で日々鍛錬を欠かさない彼にか弱い令嬢である彼女の遠慮など不要だが、好きな人とその人が読書中であることを理由に少女も本気で殴れない。
どうせなら彼が読書に集中できないほど心を乱す魅力が自分にあれば、と口惜しい思いを感じながら彼女はそのまま彼の膝に居座る。
…………やっぱり、わたしばっかり好きなんだわ。
その確信を得ながら、彼女は仕方なく目を閉じた。
好きな人の膝の上に乗って寝れるほど、幼くもない彼女ではあったが永遠に続くとさえ思えた微睡みの時間に自然と瞼が重くなっていく。
船を漕ぎだした彼女が、ふと頭上に感じた温もりに完全に眠りに誘われるのはそれからすぐのことだった。
パラリと、何刻ぶりかの本のページをめくる音が部屋に響いた。
新妻ちゃん、毎日すくすく成長中。
普段読書しないのに、まともに読めるもんですかね。




