最終話 誓い
濃緑の長衣は、首もとや肩口、袖に金糸で繊細な刺繍が施されていた。 やや薄い色の外套にも見事な紋様が金糸で描かれて、籃玉の外套留めからは菫青石がついた飾り紐が垂れ下がり、ルトヴィアスの肩から背中までを彩っている。
「……すごく素敵」
アデラインは感嘆の呟きをこぼす。
濃緑の正装は、ルトヴィアスのためにあると言っても過言ではないだろう。それほど彼によく似合っていた。ともすれば着る人間が負けてしまうだろう豪奢な衣装なのに、ルトヴィアスは難なく着こなしている。
「すごく素敵よ、ルト」
思わず繰り返したアデラインに、ルトヴィアスが返したのは顰めっ面と衣装への文句だった。
「……重い」
「仕方ございません。王太子の儀式用の正装でございますから」
ルトヴィアスの外套を直しながら、女官長が言う。
確かにルトヴィアスの着る長衣も外套も、しっかりとした生地をしている上にルトヴィアスの背丈よりかなり長く、歩くには引きずる他はない。外套は毛皮の縁飾りもついているから、王子という身分の割に普段軽装を好むルトヴィアスには、きっと相当重いはずだ。
「花帽がないだけ男性は幸せでございますよ。あれは華やかであればあるだけ重くなりますから。その点、どんな花帽でも文句も言わず良い姿勢を保っていらっしゃるアデラインお嬢様はご立派です」
「…へぇ」
ルトヴィアスが送って寄越す尊敬の眼差しに、アデラインは慌てふためいた。
「わ、私はそもそもそんなに華やかな花帽はかぶらないから…」
「そういえば、お前はよく花帽を風にとばされてたな」
意地悪く笑うルトヴィアスを、アデラインは赤くなって睨み付けた。
「か、風が…強かったんだもの」
「わかった。そういうことにしておこう」
「もう!」
「ははっ」
アデラインが頬を膨らますと、ルトヴィアスは肩を揺らして笑う。完全にアデラインで遊んでいる。
―…失礼なんだから!
ルトヴィアスに腹をたてながら、けれどアデラインは安心した。今朝、 長い間抱えていた苦しみを吐き出したルトヴィアスは、子供のように泣いていた。立太子式に響きはしまいかとアデラインは心配したが、ひとしきり泣いた後のルトヴィアスの目は、見違えるほどに穏やかだった。
その目に、これまでの彼が綱渡りのようなギリギリの精神状態だったのだと、アデラインは気付かされた。アデラインは気休めしかルトヴィアスに言ってあげられない。けれどその気休めこそを、ルトヴィアスはずっと必要としていたのかもしれない。
「本当に、ご立派になられたこと…前王陛下に見せてさしあげたい…」
ルトヴィアスを眩しそうに見上げて、ぽつりと女官長が呟いた。
「女官長?」
「殿下にとっては厳しいお祖父様でしたでしょうが…前王陛下は本当に殿下がお可愛くて仕方なかったのでございますよ。殿下がお生まれになった時は本当に大喜びで…それに『これでリヒャイルドに無理をさせなくてすむ』と…安心なさっていました」
「え?」
ルトヴィアスは、驚いたように目を丸くした。アデラインも驚いた。前王はリヒャイルドを蔑ろにしていたと、人からはそう聞いていたからだ。
「あの…前王陛下はそんなことを?」
アデラインが尋ねると、女官長は珍しいことに柔らかに微笑んだ。
「国王の激務がリヒャイルド陛下のお命を縮めてしまいはしないかと、大変心配していらっしゃいました。ですからリヒャイルド陛下には公務や政務を与えず、御前会議や貴族議会にも出席させず…蔑ろにしているように周囲には見えたでしょうが、本当はリヒャイルド陛下のお体を思いやってのことでした。激しいご気性のせいで、上手くリヒャイルド陛下にお優しくは出来なかったようですが…リヒャイルド陛下はその点はよくご理解していらっしゃるようでしたね。ただ、お年をめされてからは一段と気難しくなられてしまって…。きっとご自分に残された時間が少ないことで焦って、苛立っておられたのでしょうね。体の弱いリヒャイルド陛下とまだ幼い殿下の行く末が心配で…」
「……」
アデラインはルトヴィアスを盗み見た。ルトヴィアスは目を伏せ、何も言わない。厳しく恐ろしいとばかり思っていた前王の、隠された顔。もし過去の何かが一つでも違っていたら、今日この日を、アルバカーキ王とリーナ妃も一緒に迎えられたのかもしれない。
「…そうだな…」
ルトヴィアスが顔を上げた。
「…見てもらいたかったな。…お祖父様と母上にも」
その横顔に浮かぶ噛み締めるような微笑みが眩しくて、アデラインは思わず涙ぐむ。
「…何で泣いてるんだよ」
「だって…」
女官長や他の女官、侍官が、気を使ったのか黙ったまま部屋から出て行った。部屋にはアデラインとルトヴィアスだけだ。
重い衣装を引きずってアデラインに歩み寄ると、ルトヴィアスは親指の先で涙を拭いてくれた。
「アデライン?」
「…貴方は強いわ…ルト」
『見てもらいたかった』。どんな想いで、ルトヴィアスはそう言ったのだろう。たくさん、苦しんだはずだ。アデラインが想像出来ないほど、苦しんで悩んで、きっと恨みさえしただろう。それでもルトヴィアスは彼らを許した。いや、信じることにしたのだ。
「…俺が強いとしたら…お前がいてくれるからだ」
アデラインの額に、ルトヴィアスが額をあてる。
「お前がいるから、俺はここに立っていられる」
アデラインは目を閉じた。
たくさんのことがあった。
つらかった事、苦しかった事。それらに立ち向かえず、逃げ出し、投げ出したこともあった。
それでも、一日一日を、ひたすら生きた。これからも、そうやって毎日を歩いていくのだろう。けれど、もう、一人ではない。二人だ。二人で見る世界は、どれだけ美しいだろう。
コンコン、と扉が鳴る。
「お時間です」
オーリオの落ち着いた声が、立太子式の始まりを告げた。
アデラインは目をあける。
「緊張してる?」
碧の目が、木漏れ日のように微笑む。
「柄にもなくな」
緊張して当たり前だ。病弱なリヒャイルド王に代わり、ルトヴィアスは王太子として実質的に国を治めることになる。その重圧は、どれほどのものだろう。
アデラインはルトヴィアスから一度離れ、背後に回ると、広い背中に手をおいた。
「アデライン?」
―…どうか…私の手のぬくもりがルトに伝わりますように。
そして彼の勇気となりますように。彼の手のぬくもりがアデラインを安心させてくれるように。
アデラインは祈った。
そっと額を背に寄せると、ルトヴィアスの鼓動を感じることが出来た。
「…誰がなんと言おうと」
いつかの言葉をなぞる。
ルトヴィアスへの恋を自覚したあの日、アデラインにルトヴィアスがくれた言葉。
ルトヴィアスがそれに気付いたのか身じろぎするが、アデラインは振り向かせなかった。
「この先何がおころうと」
神官もいなければ、女神像もない。
「私は、貴方の妃です」
けれどまるでそれは、誓いの儀式のようだった。
ルトヴィアスが肩越しに笑う。そして真っ直ぐ歩き出す。
アデラインはその背を軽く押すようにして、ルトヴィアスを送り出した。
「ライル。まだ痛むでしょう?大丈夫?」
アデラインは、前を歩くライルに尋ねた。
「ご心配には及びません。この程度の怪我は怪我ではありませんから。お気遣いありがとうございます」
ライルは歩きながら軽く頭を下げる。その隣で、デオが顔をしかめた。
「何が怪我じゃないだ。血がドバーで、顔真っ白で、ぴくりともしないし。あ、こいつ死んだなって俺は思ったね」
「あのくらいで死ぬか、馬鹿」
「あれ?感謝は?血みどろになってお前を運んだ俺に感謝は?」
相変わらずの言い合いを始めた二人に、ミレーはげんなりとしてため息をはく。
「…まったく呆れてしまいます。死にかけたっていうのに…」
アデラインを守ろうとして肩を切られたライルは、出血が多く一時は命も危ぶまれたらしい。しかし、日頃体を鍛えていたからか回復も早く、まだ剣は振るえないものの、またアデラインの警護の任務に戻ってくれている。
―…でも…良かった。二人が騎士団に残ってくれて…。
アデラインが拐われるのを防げなかったと、二人は責任をとって騎士の称号を返上しようとしたらしい。けれどルトヴィアスは、『このクソ忙しい時に逃げるな、働け』と、二人の退団を認めなかった。実は、ライルとデオの騎士号を剥奪するべきだという意見が、御前会議では多数派だったらしい。宰相や騎士団長もやむを得ないとしていたが、ルトヴィアスだけは反対したそうだ。『誘拐事件などなかったのに、何の咎で騎士号を剥奪するのだ』と。結果、ライルとデオの処分は減給処分に留められた。おそらくルトヴィアスは、アデラインがそう望むだろう事を見越して、ライルとデオを守ってくれたのだ。二人への処分を聞いて、アデラインはルトヴィアスに礼を言ったがルトヴィアスは『何の事か分からない』と、知らんぷりをしていた。
ところで、猫を脱いだルトヴィアスに、騎士団の面々は当初開いた口が塞がらなかったらしい。けれどアデライン救出に携わった第3部隊を中心にして、今ではルトヴィアスの変わりようを受け入れてくれている。デオも『まぁ、普通の王子様は踵落としはしませんよね』と妙に納得し、ライルはと言えば、ルトヴィアスがオーリオの首を締め上げたその場にいたせいか、完全に想定内だったようだ。中でも騎士団長は、ルトヴィアスの剣の腕が格段に上がったことを大喜びしていて、猫の1匹や2匹がどうしたと言っているらしい。
「お嬢様!ここです!ここ!」
大聖堂の裏の物置の前で、第3部隊の騎士が数人、手を振ってアデラインを呼んだ。
「中は確認してあります。安全ですよ。ここは俺達が見張りますから安心して見てきて下さい」
「忙しいのに…どうもありがとう」
アデラインが礼を言うと、騎士達は朗らかに笑って言った。
「ただし埃っぽいですからね」
「足元に気を付けて下さい」
「じゃあ、行きましょう」
デオがガタガタと強引に扉を開けると、あたりに土埃がたちこめ、ミレーは顔をしかめる。
「本当に立太子式が見れるんでしょうね?」
「まぁ、騙されたと思って付いてきて下さいよ」
「ええ、お願い」
アデラインは頷いてデオの後ろに続いた。
高熱で寝込んでいるはずのアデラインは、勿論立太子式には出席できない。ルトヴィアスを送り出した後、大人しく自室に戻ろうとしたアデラインだが、デオが『ついてきてほしい』と声をかけてくれた。立太子式を覗ける場所を知っているから、と。アデラインは飛び上がって喜んだが、あんなことの後だ。もしルトヴィアスに知れればデオ達はきっと酷く叱責されるだろう。躊躇していると、周りにいた10人ほどの騎士が『覚悟の上です』と笑った。彼らの厚意と厳しい警備の中、アデラインは埃っぽい階段を踏みしめた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。ミレー」
「それにしても…よくこんなところ知ってたな」
アデラインのすぐ後ろで、ライルがぼやく。
「まあな」
デオは曖昧に答えると、残り数段の階段を駆け上がった。
「ちょっ…デオ!ゴホ!」
「走るな、馬鹿!埃がたつだろ!」
「あー悪い悪い!すみません!」
アデラインやミレー、ライルが咳き込みながら階段を登りきると、がらくたの物置になっている屋根裏の隅から、デオがアデラインを手招いていた。
「こっちです!騎士団に入ったばかりの頃、隊長のしごきがきつくてよくここでサボってたんですよ」
「デオ…」
「お前…」
「まったく…」
呆れ顔のアデライン達に、デオは慌てて自己弁護する。
「たまにですよ!たまに!今こうして役にたってるんですから!」
そしてデオは壊れかけた椅子をそっと移動させ、奥の幕を少しだけあけた。その隙間から覗くと、そこからは大聖堂の中が見えた。アデライン達がいるのは、ちょうど祭壇の斜め上だ。
「本当なら最前列でご覧になるはずだったのに…すいませんこんな埃っぽいとこで」
申し訳なさそうなデオに、アデラインは首を振った 。
「そんなことないわ。凄く嬉しい」
それは本心だった。アデラインの位置から、ちょうど跪くルトヴィアスの姿が見えるのだ。
表情は硬いが、肩に力は入っていないようだ。女神への礼拝が終わり、国王が玉座から立ち上がった。
「余、リヒャイルド3世は、第1王子ルトヴィアス・アルバカーキ・サクシードを余の跡継ぎたる王太子として望むものである」
広い大聖堂に、リヒャイルドの涼やかな声が響き渡る。
「異議なし」
「異議なし」
紺の式服を着た議会の面々が、順々に承認を述べる。
神官が鮮やかな朱色の聖布をうやうやしくルトヴィアスの肩に掛けると、宰相が高らかに宣言した。
「議会の全員一致により、ここに次期王位継承を承認するものとする」
大聖堂の鐘が一斉に鳴り響き、若く美しい王太子の誕生を国中に知らせた。
跪いていたルトヴィアスが立ち上がり、長く重い外套を翻して列席者を見据える。祭壇の上の色とりどりの硝子窓から光が差し込み、ルトヴィアスに降り注ぐ。まるで王冠をかぶっているように見えて、アデラインは目を細めた。
「…アデライン・ルトヴィアス・サクシード王太子妃殿下」
アデラインが振り返ると、デオとライルが、アデラインに向かって跪き、剣を捧げていた。そしてミレーも跪き、頭を下げている。
「ご夫君の立太子を、心よりお祝い申し上げます」
深く、彼らは頭を垂れた。騎士の最高礼。
アデラインは、まだ王太子妃ではない。けれど彼らは、アデラインを王太子妃として、忠誠を誓う主君として、認めてくれている。
「…言祝ぎを、嬉しく思います」
ルトヴィアスの妃として、アデラインは噛み締めるように感謝を口にした。
その足元では靴に縫い付けられたクリスタルが、静かに光輝いていた。
聖暦1185年
ルードサクシード王国第一王子ルトヴィアス・アルバカーキ・サクシードが父王により王太子に指名され、議会がこれを承認。晴れて立太子した。
その翌年。王太子はかねてより婚約していた宰相令嬢アデライン・マルセリオと結婚。
その時期に前後して、ルトヴィアス王太子が猫を飼っているらしいという噂が流れた。
どんな猫なのか、新王太子妃主催の茶会に招かれた某国の大使夫人が、新王太子妃に直接尋ねたという。新王太子妃は、少し困ったように笑いながら『とても毛並みがいい猫です。時々玉座の隣で大欠伸していますよ』と答えたそうだ。けれど王宮や庭園で実際に猫を見た者は誰もおらず、やがて猫の噂も聞かれなくなった。
end




