ミレーのはなし ①
ミレーが王宮で働き始めたのは12才になる、少し前だ。
王宮で働く、と聞くと大抵の人は濃い緑色の制服に白い前掛けをつけ、王様やお妃様にかしずく女官を思い浮かべる。
ミレーも例外ではなかった。王宮の磨きあげられた廊下を、白い陶器の茶器を持ってしずしず進む自分を想像して、期待に胸を膨らませていたのだが、学もなく身分も低いミレーが女官になれる筈はない。当然と言えば当然である。
ミレーの仕事は、王様達のお世話をする女官の、世話をする女官の、世話をする女官の……つまり最下位の女官の更に下で、床磨きをする下女だった。
『王宮に行ったら天馬が見れるかもよ、姉ちゃん』と弟が言っていたが、王様や天馬がいる場所はおろか、騎士達が訓練する外庭がどこなのかすら分からないほど、王宮は広い。どこがどこやら把握する暇もなく、ミレーは来る日も来る日も床を磨いた。
「ねえ、ミレー来て来て」
「なぁに?」
ある日、ミレーは下女仲間のメルサに水場の裏に密かに呼ばれた。メルサはミレーと同じ年頃で、同じ時期に下女になった、一番の仲良しだ。
「どうしたの?」
「私の兄さんが調理場で見習いしてるの。それで、ほら!」
メルサが人目を気にしながら油紙を開くと、そこには白くて丸い砂糖菓子が転がっていた。
「何これ?」
ミレーは目を見張る。何て可愛らしいんだろう。まるで夜空からこぼれた星のようだ。
「星砂糖っていうお菓子だって。一粒分けてあげるよ」
「いいの?」
「内緒よ?」
指の先ほどの小さな砂糖菓子を、ミレーとメルサは、同時に口に頬張る。
「……甘い!」
「星って美味しいんだ!」
ミレーとメルサは笑いあう。
王宮の方が稼げる、と言われて来たものの、仕事はきついし下女頭は怖いし、実はミレーは王宮に来たことを少しだけ後悔していた。
けれど王宮に来なければ、こんな美味しいもの一生食べれなかっただろう。この一粒を食べられただけでも、王宮に来た甲斐があったかもしれない。
弟妹達とくっつきあって眠った狭い寝台が恋しい夜もあるが、頑張ろう。
そうやって、ミレーは新しい生活に馴染んでいった。
ミレーが育ったのは王都のはずれにある、酒や博打を飲む店や娼館が立ち並ぶ街だった。
表通りは、酔った男達が肩を組んで歌い、派手に着飾った娼婦が客と露店を冷やかしたりと賑わっていたが、一歩裏通りに入れば治安が悪く、物盗りや喧嘩は日常茶飯時だ。
そんな街の一角に、ミレーの両親が働く娼館があった。貴族が通うような由緒正しい高級娼館ほどではないがそこそこ大きなその娼館で、ミレーの父は馬丁をして、母は娼婦達に食事を作る賄い婦をしていた。
子供は、ミレーを頭に弟、弟、弟、妹の5人兄弟。
両親は正直で働き者だったが、とにかく人が良すぎるのが問題だった。
家族が食べるにも精一杯なのに、人に頼まれれば簡単にお金をかしてしまうし、同僚に給金をくすねられているにもかかわらず『あの人の家はお婆さんが病気だから』と、気付かないふりをする。
あたりまえだが、そんな両親の稼ぎでは一家の生計は立ちゆかず、10歳になる頃にはミレーも両親の働く娼館で下働きをするようになった。
「おはよう、ミレー」
「おはようございます、ダリアさん。スープどうぞ!」
夜に稼ぐ娼婦達が起きてくるのは昼前だ。彼女達に母親が作ったパンとスープを配るのが、ミレーの役目だった。それから、娼婦達の汚れ物を集めて、洗濯するのもミレーの仕事だ。
「ミレー、これ洗っといて」
「これもよろしくね」
「はい!」
「ミレー姉ちゃん、お腹すいたあ」
「これ終わったら母ちゃんとこでパンの残り貰おうね!」
「姉ちゃん、おしっこー」
「庭のすみでしといで!」
赤ん坊の妹をおぶって、鼻水をたらした弟達の面倒を見ながら娼館の裏庭で毎日大量の洗濯物と戦うことに、ミレーは明け暮れた。
目が回るほど忙しい生活が1年あまりした頃。事件は起こった。
馴染みの娼婦が来るのを部屋で待っていた客が、酒を持って行ったミレーを寝台に引きずり込んだのだ。
「ミレーに何すんだい!!」
悲鳴を上げたミレーを助けてくれたのは、隣の部屋で客をとっていた娼婦のダリアだった。
ダリアは豊満な体に掛け布を巻き付けただけの半裸の姿で駆け付けると、逃げようともがくミレーに馬乗りになった客を問答無用と蹴り飛ばした。
客は酔っていたこともあって簡単に床に転がり、立ち上がろうとよろめいている間に騒ぎを聞いた他の娼婦も集まってきた。
「この変態!子供に手を出すなんて!」
「ゲス!くたばれ!ふざけんな!」
「さっさと出て行け!二度と来るな!」
娼婦達の怒りは凄まじく、靴ーーしかも踵の高い部分ーーで男を叩くやら、葡萄酒の瓶を投げつけるやら、単純に拳で男の顔面を殴りつけるやら、警備担当の下男が駆け付けると、男は這う這うの体で下男に『助けてくれ』とすがり付いた。
「あんた、王宮に行きな」
事件の翌日、いつものように汚れ物を集めて回るミレーを呼んで、ダリアが言った。
「王宮ですか?」
突然の話に、ミレーはポカンと口を開けるしか出来ない。
「私の馴染みのお客さんに王宮につてがある人がいるんだ。その人に頼んでやるから、王宮で働きな」
「でも、私がいなくなったら母ちゃんが困るし……」
ミレーがいなくなったら、家族の収入が減る。それに、弟や妹の面倒は誰がみるのだ。
躊躇うミレーに、ダリアは言った。
「王宮で働く方がここで働くよりずっと稼げるさ。ちび達の面倒はあんたのすぐ下の弟がみればいい」
「だけど……」
「あんた娼館で働きたいかい?」
ダリアが言った『働く』が、給事や洗濯のことを指しているわけではないことは、幼いミレーにもわかった。
昨夜の恐怖が蘇る。
男の血走った目。
伸びてきた手。
何をされるか、具体的なことはわからなくても、とにかく本能的に恐ろしくて恐ろしくて、ミレーは悲鳴を上げたのだ。
あんな恐怖と、ダリアや娼婦達は毎晩対峙しているのだろうか。
「私……」
ミレーは俯いた。
働きたくない。だがそう言えば、ダリア達の仕事を遠回しに侮ることになるのではないか。
ミレーの胸中を悟ったように、ダリアが柔らかに微笑んだ。
「あんた、優しいねミレー」
そう言って、ダリアはミレーの頭を撫でてくれた。
優しく、優しく。
その優しさが何故か悲しくて、ミレーは泣きたくなった。
「娼婦達全員が不幸だとは思わないどくれ。でも、娼館以外の場所で食っていけるなら、そっちの方がいい」
後から母から聞いた話だが、ダリアにはミレーと同じ年の娘がいたそうだ。その子は生まれてすぐに重い病気にかかり、その薬代を作るためにダリアは娼婦になった。けれどダリアがつくったその金はダリアの夫の酒代に消え、結局娘は助からなかったらしい。
「頑張んな」
「はい!」
別れの日、ダリアはそう言ってミレーを送り出してくれた。
後に字を覚えたミレーはダリアに時々手紙を出したが、返事は一度も来なかった。
2018.11.15 ルビ訂正しました。




