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第五十三話 王子の花嫁



「ルト…貴方の…貴方の本当のお父様は…リヒャイルド陛下ではなくてアルバカーキ前王陛下ね? 」




冷水を、頭からかぶせられた気分だった。そのまま心臓がとまるとさえ、ルトヴィアスは思った。

「…少なくとも貴方はそう思ってる。違う?」

落ち着いたアデラインの声に、ルトヴィアスは返事すら出来ない。目をいくら逸らしても、アデラインの瞳がルトヴィアスの心を覗きこんでくる。

――…やめてくれ…。

こんな弱い心を、アデラインに見られたくない。

情けない姿ばかりを見せている彼女に今更とも思うが、けれど男のくだらない矜持はこの期に及んでも面子を保とうと足掻いていた。

だが、そんな矜持などでは、もはやどうにもならない。

足下の影に潜んでいた怪物のような巨大な不安に襲われ、ルトヴィアスは立っているのもやっとだ。

見ないふりをしていたのに。今までも、そしてこれから先もずっと、目をそらし続けるはずだったのに。

ついに捕まってしまった。

動揺で咽がつまり、呼吸が浅くなる。

「ルト?」

アデラインが心配そうな声で、ルトヴィアスを呼んだ。

アデラインに、そう呼ばれるのがルトヴィアスは好きだ。

ルトヴィアスに対する名前の呼び方が変わったことをきっかけにしたように、アデラインの堅い言葉遣いは徐々に柔らかくなり、ルトヴィアスへの遠慮はなくなっていった。

それが心の距離が縮まっていくようで、ルトヴィアスは嬉しくて仕方なかったが、アデラインが近くにくればくるほど、不安も大きくなった。

もし彼女にしられたら。

知られたくない。

不安で眠れない夜もあった。


―――不義の子。


真実を知ったアデラインの目に、ルトヴィアスはどう映るのだろう。

ルトヴィアスを愛しているとアデラインは言ってくれたが、すべてを知っても、果たして同じように傍にいてくれるのだろうか。

蔑まれはしないだろうか。気味悪がられはしないだろうか。

――…いいや、蔑まれて当然なんだ。

青つぐみの巣で育つアカハラの雛。あれは、ルトヴィアスだ。

厚かましくもリヒャイルドを父と呼び、愛情を与えられ、守られ、彼の息子として立太子しようとしている。

その上、人並みに恋をして、その相手を妻にするなんて贅沢を貪って……。

そんな資格、あるわけないのに。

「ルト、私を見て」

呼ばれて、床に落としていた目線を、ルトヴィアスは恐る恐る上げた。

アデラインの夜色の目。

その目の前では、ルトヴィアスは無力だった。夜の静寂は、すべてを包み込んでしまう。

「…アデ…ライン…」

深い夜の瞳は、ルトヴィアスを蔑んでも、厭うてもいなかった。

そのことに、ひどく安堵する。

耳元でけたたましい音をたてていた鼓動が、ゆるゆると静まっていく。

「……見たんだ。母上が…泣いているのを…」

ルトヴィアスは、言い訳をするような気分で、口を開いた。

まだ幼い日。月がない夜。

卵から孵ったばかりのシヴァが心配で、ルトヴィアスはひそかに寝所を抜け出した。暗い夜を怖がり、厩舎で泣き続けていた仔犬のようなシヴァを撫でて抱き上げ、静まり返った夜の廊下を、また戻る。

侍官には、天馬を寝所に入れてくれるなと泣きつかれたが、かまうものか。寂しがるシヴァを放っておくなど出来ない。

けれど、人の気配がして、ルトヴィアスは慌てて物陰に身を隠した。すすり泣くような様子に、そっと窺うと、それは母だった。花帽をかぶらず、髪は乱れて、白い頬は涙に濡れて光っている。リーナは、隠れていた息子に気付くことなく、逃げるように廊下を走って行ってしまった。

何が彼女にあったのか、今でもルトヴィアスには分からない。

その時は、何かつらいことでもあったのかとただ心配で心配で、翌朝、母に尋ねた。『どうして、泣いていたの?』と。

するとリーナは、顔色を変えてルトヴィアスを叱責したのだ。

決して、誰かにそのことを言ってはならない。二度と夜に寝所を抜け出してはならない。

いつもの叱責とは違うただならぬ様子に、ルトヴィアスはただただ頷いた。

けれどまた次の月のない夜。ルトヴィアスは母との約束をやぶって、シヴァの厩舎に忍んで行った。

シヴァを放ってはおけないし、すぐに部屋に戻ればいいと思ったのだ。そして部屋に戻る途中で、扉が開く音がして、ルトヴィアスは母の声を聞いた。

『どうか、もうお許し下さい!!殿下がお知りになったら…っ』

『待てと申しておろう!』

聞き間違うはずがない祖父の声に、ルトヴィアスは震え上がった。

どうして、こんな夜中に祖父と母が会っているのだろう。しかも二人が出てきたその扉は、祖父の寝所に通じる扉ではないのか。何故そんな場所に母はいたのだろう。

閨事が何なのかなど、幼いルトヴィアスは知らなかったが、夜に寝所を共にするのは、夫婦だけなのだということは知っていた。ルトヴィアスでさえ、夜は両親の寝所に入れない。

では何故、母は祖父の部屋にいたのか。それは許されないことなのではないか。

ルトヴィアスは、その時奇妙なことに気が付いた。

廊下に、誰もいない。夜番の侍官や女官、騎士が見当たらないのだ。

侍官達なら何か用事を命じられて席を外していることも考えられるが、国王の護衛の騎士すらいないなんておかしい。

国王が人払いをしない限り、誰かしらが扉の前に控えているはずなのに。

―――…どうして、人払いなんて……。

祖父には、侍官達に聞かれたくない話があったのだろうか。それとも、誰(・)か(・)と会うことを隠そうとしたのか。

アルバカーキとリーナは、しばらくひそひそと何か言い争っていたが、やがてリーナはまた泣きながら廊下を走って行ってしまった。隠れていたルトヴィアスには、やはり気が付かずに。

ルトヴィアスが物陰から覗いた時には、アルバカーキは既に部屋に入り、廊下は静まりかえっていた。

扉の前に、白く光るものが転がっている。何だろうとルトヴィアスは足音を殺して廊下を進み、それを拾い上げる。星砂糖だった。

「別に…何か直接的なものを見たわけでも、聞いたわけでもない。ただ、星砂糖が……星砂糖がじいさんの部屋の前に落ちてた。…それだけだ」

リーナが好んだ砂糖菓子。

高級な菓子だ。誰でも手に入るものではない。

そして甘いものが嫌いなはずの祖父の部屋の前に、何故それが落ちていたのか。

――…母上の為に…おじい様が用意した…?

誰かに知られては、母が叱られてしまうのではと、ルトヴィアスは口をつぐんだ。

けれどルトヴィアスのように、夜中にリーナの姿を見た者がいたのだろう。

やがて『噂』が囁かれ始めた。


『リーナ妃殿下はリヒャイルド殿下を裏切ってアルバカーキ陛下と通じているそうよ』

『ルトヴィアス殿下は、実は陛下のお子なのですって』

『どうりで…アルバカーキ陛下のルトヴィアス殿下へのご期待は尋常ではないものね』


女官達の囁く話を聞いてしまった時の衝撃は、今も忘れられない。

「噂話を聞いて…まさかと思った。でもだから俺は父上に似ていないのかと、納得もした。…してしまった」

いつも静かに微笑み、優しく理知的なリヒャイルド。対してルトヴィアスは感情的で、活動的。病弱なリヒャイルドとは違い体も丈夫で、協調を重んじるリヒャイルドに反して、自分勝手に振る舞ってしまうことも多い。母親似の顔を含め、ルトヴィアスには父親に似ている要素がただの一つもないのだ。

「自覚はあった…じいさんに似ていると…」

アルバカーキは、もともと直情的で専横的。年をとってからは自らの性格の特性を、理性で制御することが出来なくなったようだった。まるで、わがままな子供のように振る舞うアルバカーキを、誰もがもて余した。

――…似すぎてる…。

リヒャイルドを鞘で叩きつける祖父の姿に、ルトヴィアスは戦慄した。

祖父の姿に癇癪を起こす自らの姿が重なったからだ。自分は、あまりに祖父に似すぎている。

アデラインの指が、ルトヴィアスの手をいたわるように撫でた。

「…猫をかぶったあなたの笑いかた。リヒャイルド陛下の笑いかたにそっくりだわ。あれは…猫というよりは…真似ていたのね?陛下を」

「…父上に、似ていなくてはと思った。俺は…父上の子供だ。父上の子供であるはずだ。噂など信じない」

幼いルトヴィアスは自分に言い聞かせた。何度も何度も。

そして、父親の真似をした。

笑いかたを、話し方を、所作もすべて父を倣った。けれど、あの噂は消えなかった。そして、不思議と誰もルトヴィアスを父親に似ているとは言わなかった。外見的な特徴が違いすぎたせいもあったかもしれない。単純に、臥せっていることが多いリヒャイルドとルトヴィアスが、並んで人前に出ることが少なかったせいもあったかもしれない。

けれど、ルトヴィアスは焦った。もっと似せなくては。似ていなくては。誰よりリヒャイルドに『自分に似ている』と、息子だと、思わせなくてはならない。

大好きな父。母を愛している父。母が裏切ったと知ったら、どれほど傷つくだろう。

ルトヴィアスが自分の子ではないと知ったら、きっともう、一緒に散歩をしてくれることも、本を読んでくれることもなくなってしまう。

「…子供の浅知恵だ。馬鹿だろう?」

自嘲に、ルトヴィアスの唇が歪む。

けれどアデラインは、笑わなかった。痛いほどまっすぐ、ルトヴィアスを見上げてくる。

「いいえ、ルト。いいえ」

「…人質に出されるとなったときは、もしかして父上は何か知っているのではないかと勘繰った。実の息子ではないから、厭うて遠ざけられるのではないかと…」

実際には、リヒャイルドはただ純粋にルトヴィアスを守ってくれただけだったのだけれど。

けれど、混乱したルトヴィアスは、いったい何が真実なのか分からなくなった。

誰を信じればよいのかも分からなくなった。

何かを信じることが、ただただ怖かった。

「…俺は…俺は…王位をついでいいのか?」

喉に詰まっていたものが、ボロリと口からこぼれるように、ルトヴィアスは不安を吐きだす。

アデラインを失うかもしれない現実を前にして、継承権を手放す覚悟をしたルトヴィアスに、リヒャイルドは言ってくれた。

『何があってもお前が息子であることにかわりはないのだから』と。

嬉しかった。そして、とてつもない罪悪感を抱いた。

ルトヴィアスを息子だと信じきって愛してくれるリヒャイルドが、哀れで、慕わしくて、ルトヴィアスはすべてを懺悔したくなった。

――…俺さえ、生まれてこなければ…。

ルトヴィアスさえいなければ、リヒャイルドは、今よりもっと多くのものを、手に出来たのではないだろうか。

ルトヴィアスさえいなければ、もしかしたらリヒャイルドとアルバカーキの親子関係はあれほど悪化しなかったかもしれない。

ルトヴィアスさえいなければ、リヒャイルドは間違いなく血が繋がった我が子を、その手に抱けたかもしれない。

ルトヴィアスさえいなければ、リーナが命を落とすこともなかったかもしれない。

自分さえいなければ、すべてがうまくいっていたのではないかと、そんな思いを、ルトヴィアスはずっと抱えていた。

誰より何より、自分自身が憎くて、疎ましくて、おぞましかった。

こんな汚らわしい自分が、父の後を継いでいいのだろうか。簒奪者にももとる行為だ。

本来なら、こんなふうにアデラインに触れることすら、ルトヴィアスには許されるべきではない。

「…ねえ、ルト」

アデラインの目は静かだった。

ルトヴィアスの手を、その白い手で包んだまま、彼女は話し始めた。

まるで幼子に言い聞かせるように。

「母に確認したの。母は太皇太后陛下にお仕えして王宮にいたから何か知らないかと思って。あの噂…あなたの出生を疑う噂が流れたのは、ちょうどリーナ様があなたを身籠られた頃に、リヒャイルド殿下が離宮に静養に行かれてたからじゃないかって言ってたわ。皇国から親善大使がいらしてたから、リーナ樣は離宮には行かず、王太子名代として宮廷に残られていて、お二人は離れ離れだった」

それはルトヴィアスも知っている情報だった。誰かに相談することも、尋ねることも出来ず、囁かれる噂話しに耳をそばだたせて集めた過去の欠片。

「その身籠られた頃というのが問題なのだけど…皆はあなたが生まれた日から逆算して身籠られた時期を推測したの。でもあなた、自分が少し早産で生まれたって知っていた?」

「…え?」

ルトヴィアスはアデラインを見た。早産だったなど、聞いたことがない。アデラインが、小さく頷いてみせる。

「母が太皇太后様の名代でお祝いをリーナ様に申し上げたって…覚えてる?」

「…そう言ってたな」

初めましてと挨拶したルトヴィアスに、そうではないと宰相夫人は語った。赤ん坊のルトヴィアスを抱き上げたことがある、と。

「その時会った生まれたばかりの貴方は、確かに小さい赤ちゃんだったって。リーナ様も随分早く陣痛がきたから心配したって言ってたらしいわ。本来の生み月から逆算した時期はリヒャイルド陛下とリーナ様は揃って宮廷にいたし、むしろその時期はアルバカーキ陛下は公務で国内の巡察に回られて宮廷を留守にすることが多かったみたい」

アデラインから、ルトヴィアスはまた目をそらした。

――……それでも…俺が…父上の子供だとは…言い切れない。

きっとアデラインは必死に、ルトヴィアスの心を晴らそうとしてくれているのだ。それが嬉しい半面、正直煩わしくもあった。ルトヴィアスは手を額にあてる。

「…もういい。もう、この話はやめよう」

放っておいて欲しい。生涯リヒャイルドに負い目を感じ続けようと、重い王位に苛まれようと、それはルトヴィアスの問題でアデラインには関係ないことだ。

真実を知って尚、アデラインが離れていかないのなら、それでいい。アデラインさえ隣にいてくれるなら、すべて堪えられるのだから。

けれど、アデラインは話をうやむやにしようとはしなかった。額にあてたルトヴィアスの手をとり、ルトヴィアスが顔を背けようと、かまわずまっすぐのぞきこんでくる。

「わかってる。わかってるわ。だからって、あなたと陛下の親子関係が確実だとは言い切れないわよね。結局はリーナ様にしかわからない。…でも、リーナ様はいないの。誰もリーナ様に確かめることは出来ない。なら…なら、真相がどうであろうと同じことだわ」

なげやりにも聞こえるアデラインのその言葉に、ルトヴィアスは思わず激昂した。

「同じ?同じだと!?そんなわけないだろう!?お前、俺がどれだけ…っ」

「リヒャイルド陛下が知らないはずないわ!」

アデラインが、負けずに言い返してくる。強い眼差しと、凛とした声。

ルトヴィアスの前で萎縮し、おどおどと逃げ場所を探していた面影は、もはや彼女のどこを見ても見いだせない。

「貴方が…アルバカーキ陛下の子供だという噂を…貴方でさえ知っているのに、リヒャイルド陛下が知らないはずがない。でも、でも陛下は…弓技会で…貴方が襲われたとき、ご自分の体を省みず、貴方を助けに走ろうとされてたのよ」

「…」

あの日弓技会で襲われた後、ルトヴィアスが無事な姿を見せると、リヒャイルドは心から安堵したように微笑んだ。けれどその顔はいまだ真っ青なままで、どれほど彼が息子の身を案じたかを物語っていた。そう、彼は、リヒャイルドは、ルトヴィアスを本気で心配してくれた。

アデラインの小さな白い手が、そっとルトヴィアスの頬に添えられる。その手に優しく促され、ルトヴィアスが怯えながらもゆっくりと向き直ると、アデラインは静かに微笑んでいた。

「リヒャイルド陛下は、貴方を愛してる。きっと、息子ではないかもしれないと…疑ったことすらないと思うわ。本当に、貴方が可愛くて大切で、仕方ないのよ。それじゃダメ?ルト。ダメ?」

「………」

夜色の瞳を見ているうちに、ルトヴィアスの心の奥底で、何かが蠢いた。

アデラインのいうとおりだ。リーナはいない。過去の真実を知るすべはない。それなら、真実など何の意味もない。

大切なのは、リヒャイルドがルトヴィアスを息子として愛していて、ルトヴィアスがリヒャイルドを父と慕っている、ただそれだけ。

それがわかるのに、ルトヴィアスは何かを求めていた。心の奥底から、『何か』が欲しくて、欲しくて…。

「…アデライン…」

ルトヴィアスは、アデラインにすがった。

彼女なら、きっとルトヴィアスが欲しいものをくれる。

他の誰もルトヴィアスに与えられないものを、アデラインなら、与えてくれる。いや、アデラインにしか出来ない。

アデラインは、すべてわかっていると言うように、ルトヴィアスの頬を撫でた。

「ルト。私は…気休めしか言ってあげられないけど、でも、それで貴方の気が休まるなら何度でも言うわ」

とくり、と心臓が脈打つ。

彼女が何を言おうとしているか、ルトヴィアスには何故か分かった。ルトヴィアスが心の奥底から欲しかった言葉。

アデラインの指先に、僅かに力がこもる。黒い目には抗えない強さが灯り、ルトヴィアスは瞬きも出来ない。

「貴方は、リヒャイルド陛下の子供よ」

強く、はっきりとアデラインは言い切った。

どうしてそんなに自信満々に言えるのかと、こちらが不思議になるくらいに。

――…俺は…。

誰かに、ずっとそう言って欲しかった。

根拠などなくても、ただ、はっきりと断言して欲しかった。言い切って欲しかった。リヒャイルドが、ルトヴィアスの父親だと。

ルトヴィアスを食らいつくそうとしていた怪物のような不安が、サラサラと砂のように霧散していく。

人を、自分を欺き続けた日々。すべてが光の粒になって、空気に溶けていく。

アデラインは笑う。黒い瞳が輝いて、それはあたかも朝日が昇るようだった。

「あなたがアルバカーキ陛下に似ているのは、あなたがリヒャイルド陛下の息子でアルバカーキ陛下の孫だからよ。孫が祖父に似ることなんて おかしなことでも何でもないでしょう?」

ルトヴィアスは、目を伏せた。熱い感情が瞼を焼く。こみあげるものを飲み込んで、ルトヴィアスは笑おうとした。ぎこちなかったものの、かろうじて試みは成功した。

「…そうだな」

「ね?」

アデラインの柔らかな微笑みに、ルトヴィアスの右目から、とうとう涙がこぼれ落ちた。

涙はとまらず、嗚咽をこらえることが出来ない。

フワリと、アデラインがルトヴィアスの首に抱きついた。

――…本当は…貴女に言って欲しかった…。

遠い面影に、ルトヴィアスは語りかける。

――…母上…。

リーナに、言って欲しかった。嘘でもいいから、言い切って欲しかった。ルトヴィアスは、リヒャイルドの息子だと。

そしたら、信じた。他の誰が何を言っても、母の言葉だけを信じた。けれど、尋ねる勇気がルトヴィアスにはなかった。

優しい母だった。甘いものが好きで、星砂糖が大好きで、しっかりしているようで、どこか惚けた所がある母。

母は父を裏切ったのかもしれない――――ルトヴィアスの心に重く沈殿した、母への疑心。

そして、疑うことへの後ろめたさ。

更には母が望まぬ懐妊の末に自分を産んだのかもしれないと考えると、いつしかリーナとまともに目を合わせられなくなった。

思えば、あの時が最後だ。アデラインとの婚約式。

あの時、ルトヴィアスは靴擦れを我慢し続けるアデラインに気がつき、その手当てを、母妃に頼んだ。それが、ルトヴィアスがリーナと短いながら、まともに話をした最後だ。

皇国へ旅立つ時も、泣いて別れを惜しむリーナを、ルトヴィアスは振り返りもしなかった。きっとリーナは、ルトヴィアスのよそよそしい態度に寂しい思いをしただろう。

――…信じたかった。

けれど、それが出来なかった。ルトヴィアスに今出来るのは、母の冥福を祈り、そして懺悔することだけだ。

耳元で、アデラインの優しい声がする。

「大丈夫、あなたはこの国の正統な王位継承者でそして素晴らしい王になるわ。だって、お祖父様とお父様のような偉大な王の血をひくんですもの」

嗚咽がひどくなる。

子供のように、ルトヴィアスは泣いた。

幼い頃から我慢し続けていた分の涙を、体がすべて出しきってしまおうとしているかのように、涙は止まらない。

ルトヴィアスはアデラインを強く抱き締めた。けれど逆に、彼女に抱き締められている感覚がする。アデラインの体はルトヴィアスより小さく細いというのに、これは何故なのか。

「…アデライン」

嗚咽がまだおさまらない喉から、ルトヴィアスは言葉を絞り出した。

「ありがとう」

幾重にも重なったしがらみの奥に、不安に怯え、どうしようもなくうずくまるルトヴィアスを見つけ出してくれた。

「…ありがとう…っ」

生まれて初めて、祖父に感謝した。

あなたが決めた花嫁は、確かに幸いをもたらしてくれたと。


次回最終話になります。


2018.8.7 セリフ改行訂正しました。

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