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第4話 怒鳴らないだけで満点ですか

第4話 怒鳴らないだけで満点ですか


土曜日の午後、妙は真紀の家の台所で林檎の皮を剥いていた。居間との境にある引き戸は十センチほど開き、その隙間から座卓の端と、浩一の紺色の靴下が見える。真紀から「一人だと、また謝って終わらせるかもしれない」と頼まれたため隣室まで来たが、代わりに交渉しないことは最初に決めていた。


台所の流しには、昼に使ったラーメン鉢が二つ重なっていた。片方には乾いた葱が張りつき、もう片方には白く固まった脂が残っている。妙は剥いた林檎を塩水へ沈めながら、居間で紙の擦れる音を聞いた。


「生活費を六万円減らされると、私のパート代を全部入れても、毎月二万三千円足りないの」


真紀は先日作った収支表を座卓へ広げていた。生活費十二万円、パート代七万五千円、必要な支出二十一万八千円という数字には、それぞれ赤い線が引かれている。浩一はテレビのリモコンを手の中で転がし、消音された競馬中継を見ていた。


「食費を減らせばいいだろう。二人しかいないのに、四万五千円も使うほうがおかしい」


「お米と調味料も含めて、一日一人七百五十円くらいよ。ここから六万円は減らせないわ」


「安い店を回れよ。お前は買い物が下手なんだ」


「三軒回れば二時間かかる。その時間もここへ書いたわ。私にパートを増やせと言うなら、買い物か夕食作りをあなたに担当してもらいたいの」


浩一の手からリモコンが座卓へ落ちた。硬い音が台所まで響き、流しの縁に置かれていた匙が鉢の中へ滑り落ちる。妙は包丁をまな板へ置いたが、引き戸には手をかけなかった。


「俺は正社員だぞ。仕事から帰ってきた男に、飯まで作れっていうのか!」


「私も仕事から帰って作っているわ。声を小さくして」


「誰のおかげでこの家に住めると思ってるんだ! こっちは普通に話してる!」


普通だと言い張る浩一の声で、台所のガラス戸が細かく震えた。以前の真紀なら、近所へ聞こえることを気にして、自分の言い方が悪かったと謝っていただろう。だが今日は収支表を裏返さず、赤い線の入った数字をもう一度見た。


「今日は終了します」


真紀は収支表を透明なケースへ戻し、立ち上がった。浩一が「逃げるのか」と声を上げても、座布団を避けて台所へ入ってくる。真紀の手には、収支表だけが握られていた。


「話し合うために紙を作りました。怒鳴られるためではありません。続きは、声を荒らげずに話せる日時を文章で知らせてください」


妙は塩水から林檎を引き上げ、保存容器へ入れた。真紀が寝室から財布と上着を取って戻るまで、浩一に説明も説得もしなかった。二人で玄関を出ると、背後で鍵の掛かる音が一度だけした。


近くの喫茶店に入り、真紀は温かいミルクティーを注文した。カップを持つ両手は小さく震えていたが、声を荒らげた夫へ謝罪の連絡はしなかった。妙は珈琲を一口飲み、収支表の入った透明なケースを指した。


「自分で席を立てましたね」


「妙さんが隣にいたからよ」


「私は林檎を剥いただけです。今日は真紀さんが、自分で話し合いを終了させたんです」


真紀の携帯電話に、浩一から「勝手に出ていってどういうつもりだ」と届いた。真紀は「本日は、あなたが声を荒らげたため終了しました。続きは明日午後七時から行います」と打ち、送信した。画面を伏せると、林檎を皮のついた側からかじった。


翌日、真紀は一人で座卓の前に座った。昨日の収支表に、もう一枚の紙を重ねる。紙の上部には「板橋区・二人世帯の最低生活費の目安」と書いてあった。


「始める前に確認します。声を荒らげたら、今日もそこで終了します。決まったことは、最後に文章で残します」


「分かったよ。また途中で逃げるなよ」


「途中ではありません。あなたが怒鳴ったので、決めていた条件に従って終了しました」


浩一は口を閉じ、首に掛けたタオルで濡れた髪を拭いた。台所では炊飯器が保温へ切り替わり、短い電子音が鳴る。真紀は夫の顔ではなく、用意した紙を見た。


「板橋区で二人世帯が生活保護を受ける場合、この試算では生活扶助が十一万九千七百十八円、特例加算が二人分で三千円です。合わせて十二万二千七百十八円。住宅扶助の上限六万四千円を足すと、十八万六千七百十八円になります」


「うちは生活保護じゃないだろう。関係ない話を持ち出すな」


「生活保護を受けたいと言っているのではありません。二人が最低限暮らすための基準と、あなたが渡した金額を比べているんです」


真紀は、生活扶助と特例加算の合計十二万二千七百十八円へ赤い線を引いた。その下には、浩一が振り込んだ十二万円と書いてある。住居費を浩一の口座から別に支払っていても、二人分の最低生活費の目安に届いていなかった。


「しかも、生活保護なら必要な医療には医療扶助があります。私たちは病院へ行けば、健康保険の自己負担分を払います。十二万円で十分だと言うなら、この差と医療費をどう埋めるのか説明してください」


「お前には七万五千円のパート代があるだろう」


「私の収入も家計へ入れています。だからこそ、あなたが相談なしに六万円減らしてよい理由にはなりません」


真紀は自分のパート代へ青い線を引いた。そこから保険料、スマートフォン代、美容院代を払い、残りを食費や光熱費へ入れている。浩一が六万円を減らしたことで、真紀の収入の大半は不足分の穴埋めに消えていた。


「俺だって遊ぶために減らしたんじゃない。会社の付き合いが増えたんだ」


「金額と内訳を教えてください。私には一円単位で食費を減らせと言って、あなたの六万円だけを『付き合い』で済ませることはできません」


浩一は飲み会が月二回増えたこと、部下へ奢ることがあること、ゴルフの積み立てを始めたことを話した。合計は約四万円で、残り二万円は急な出費のため自分の口座へ残すつもりだったという。真紀は収支表の余白へ、交際費四万円、予備費二万円と書いた。


「六万円を節約したんじゃない。六万円分、私に払わせただけでしょう」


「そんな言い方をするなよ」


「では、数字で言います。あなたの交際費と予備費を六万円増やし、家計を六万円減らした。不足分は私のパート代から出すことにした。私への相談はなかった。違うところがありますか」


浩一は紙を手元へ引き寄せ、赤と青の線を見比べた。だが訂正できる数字が見つからないらしく、ボールペンの頭を親指で何度も押した。カチ、カチという音が、壁掛け時計の秒針に重なった。


「家の金をどう使うか考えただけだ。大げさに騒ぐなよ」


「私に相談せず生活費を減らし、理由を尋ねたら怒鳴って黙らせようとした。あなたのしていることは、経済的なハラスメントとモラルハラスメントです。夫婦喧嘩という言葉で片づけないでください」


浩一の指が止まり、ボールペンの先が出たままになった。真紀は席を立たず、声の大きさも変えなかった。冷蔵庫の作動音が止まると、廊下を歩く隣人の足音まで聞こえた。


「言葉を知ったからって、俺を悪者にする気か」


「名前をつけられると困るの? 私は、その行為をされて困っています。今話しているのは、私の言葉がきついかどうかではなく、あなたが何をしたかです」


「そんなに嫌なら、離婚でも何でもすればいいだろう」


浩一は吐き捨てるように言い、すぐに目を逸らした。以前の真紀なら、「そこまで言わなくても」と取りなし、離婚する気などないと夫を安心させていただろう。今日は透明なケースの角へ手を置き、背筋を伸ばした。


「はい。これは、離婚を考える理由になります」


浩一が顔を上げた。真紀は脅すように身を乗り出さず、食卓に置いた二枚の紙を揃えた。生活費の数字も、怒鳴られた日時も、昨日送ったメッセージも残っている。


「生活費を一方的に減らし、怒鳴って話し合いを成立させない。それが繰り返されるなら、私は婚姻を続けられません。離婚で脅しているのではありません。あなたが同じことを続けるなら、私には離婚を選ぶ権利があると伝えています」


「今まで、そんなこと一度も言わなかったじゃないか」


「言わなかったから、してよかったことにはなりません。今日は生活費だけでなく、この結婚を続ける最低条件について話しています」


浩一は首からタオルを外し、膝の上へ畳んだ。台所から大根と油揚げを煮た匂いが流れ、炊飯器の蓋にたまった水滴が一筋落ちた。真紀は返事を急かさず、収支表の不足額二万三千円へ指を置いた。


「今月は十八万円に戻す」


「今月だけでは困ります」


「来月からも十八万円にする。変更が必要なときは、振り込む前に話す」


「怒鳴った場合、その日の話し合いは終了します。続きは記録の残る方法で行います。それも書いてください」


真紀は新しい紙を出し、日付を記入した。浩一は「生活費は毎月十八万円とする。変更が必要な場合は、振込日前に二人で収支を確認する。声を荒らげた場合、その日の協議を終了する」と書いた。今月不足している六万円を翌日までに振り込むことも付け加え、最後に自分の名前を記した。


「夫婦なのに、契約書みたいだな」


「夫婦だから、片方だけが口約束で困らないようにするんです」


二人は署名の入った紙を、それぞれ携帯電話で撮影した。真紀は原本を透明なケースへ戻し、妙へ「六万円を戻すと書いてもらった」と送った。昨日は怒鳴り声から守るために持ち出した紙を、今日は自分で得た結果と一緒にしまった。


その夜、妙が味噌汁の鍋をかき混ぜていると、直人が携帯電話の画面を見せた。真紀から届いた写真には、浩一の字と署名がはっきり写っている。鍋の中では小松菜と油揚げが浮き沈みし、味噌と出汁の匂いが窓ガラスを曇らせていた。


「姉さん、自分で六万円を取り戻したんだな」


「ええ。直人さんが男同士で叱りに行かなくても、自分で話せたでしょう」


「僕は怒鳴らないから、いい夫だろう」


直人は冗談めかして胸を張った。妙はお玉で鍋の底を一度さらい、沈んでいた小松菜を浮かせる。味見をしてから、直人のほうを見た。


「怒鳴らないのは加点項目じゃないよ。参加資格」


「参加資格か。ずいぶん厳しいな」


「怒鳴らずに同じ席へ座れて、そこから相手の話を聞くとか、自分の分を引き受けるとかが始まるの。怒鳴らなかっただけで満点をもらえるなら、妻には何点必要なのよ」


直人は笑いながら、冷蔵庫に貼られた古い分担表の前へ立った。鉛筆を取り、余白へ「怒鳴らない」と書き加えようとする。妙は鍋から離れ、その鉛筆の先を指で止めた。


「それは書かなくていい」


「どうして?」


「『殴らない』とか『給料を全部隠さない』とか、最低限のことまで達成項目にしたら、本当に話し合うことが見えなくなるでしょう」


直人は書きかけた「怒」の一文字を、消しゴムで消した。紙には薄い黒鉛の跡だけが残り、斜めから見れば何かを書こうとしたことが分かる。妙はその跡をこすらず、味噌汁の火を止めた。


食卓には塩鮭と大根の煮物を並べ、直人が二人分の箸を置いた。真紀が取り戻したのは六万円だけではなく、怒鳴った者の都合で家計も結婚も決められる暮らしから、立ち上がる権利だった。冷蔵庫の分担表には書き加えられなかった一文字の跡が残り、その下で「困ったことは三日以内に言う」という十五年前の約束が、台所の明かりを受けていた。


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