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第3話 夫婦会議は説教ではない

第3話 夫婦会議は説教ではない


日曜日の午後三時、玄関の呼び鈴が二度続けて鳴った。妙はベランダから取り込んだ洗濯物を畳んでおり、直人は居間で新聞を読みながら、剥いた蜜柑の白い筋を一本ずつ取っていた。宅配便なら一度しか鳴らさないはずだと思いながら妙が玄関を開けると、大きな黒い鞄を肩に掛けた真紀が立っていた。


「直人、いる?」


挨拶より先に弟の名前を出し、真紀は妙の返事を待たずに靴を脱いだ。桃色だった爪は透明なものに塗り替えられていたが、人差し指の先だけが欠けている。紺色の薄いコートには細かな雨粒がつき、肩から掛けた鞄は財布と書類で四角く膨らんでいた。


「いるけど、どうしたの。お義母さんに何かあった?」


「母さんじゃない。浩一さんよ」


真紀は六畳の居間へ入ると、直人の向かいへ腰を下ろした。座卓の上には新聞、蜜柑の皮、妙が書きかけていた買い物メモが広がっている。真紀は鞄から通帳を取り出し、新聞の上へ音を立てて置いた。


「今月から生活費を六万円減らされたの。何の相談もなしよ」


直人は通帳を開こうとしたが、妙は先に蜜柑の皮を小皿へ集めた。洗濯物の中から直人の靴下が片方だけ落ちていたため、拾って籠へ戻す。真紀はその動きを待ちきれないように、記帳された一行を指で何度も叩いた。


これまで毎月二十五日に十八万円振り込まれていた生活費が、今月は十二万円になっていた。摘要欄には、浩一の名前が印字されているだけで、減額の理由は書かれていない。真紀が問いただすと、夫は「会社の付き合いが増えた」「お前もパートをしているだろう」と答えたという。


「私のパート代なんて、月によって七万か八万よ。そこから自分の保険とスマホ代も払ってるの。食費も光熱費も上がってるのに、六万も減らされたら足りるわけないでしょう」


「それで、浩一さんとはどこまで話したの?」


妙が尋ねると、真紀は通帳を閉じた。爪の欠けた人差し指が、表紙の角を強く押している。真紀は昨夜のやり取りを思い出すように、窓のほうを見た。


「足りないって言ったわよ。そしたら、無駄遣いをやめろって怒鳴られたの。俺が稼いだ金だ、文句があるならお前がもっと働けって」


「何にいくら必要なのかは見せた?」


「そんなもの、毎月暮らしていれば分かるでしょう」


「浩一さんは、分かっていないから十二万円にしたんじゃない?」


「だから、直人から言ってやってよ」


真紀は身を乗り出し、弟の前へ通帳を押した。直人は蜜柑を一房だけ残したまま、通帳と姉の顔を交互に見る。妙は湯を沸かすために立ち上がり、台所の小鍋へ水を入れた。


「男同士で言えば分かるわよ。妹が困っているのに何をしているんだって、直人から叱って。浩一さん、外では直人にいい顔をするから、きっと聞くわ」


「僕が電話するのは構わないけど――」


「直人さん、少し待って」


妙はガスコンロの火をつけてから、居間へ戻った。直人はすぐに口を閉じ、通帳から手を離す。真紀は弟への頼みを嫁に遮られたと思ったのか、背中を座椅子へ預けた。


「妙さんは、私が我慢すればいいと思ってるの?」


「いいえ。むしろ今、直人さんに任せてはいけないと思っています」


「どうしてよ。夫婦だけで話せないから来たのよ」


「直人さんが浩一さんを叱って、今月だけ六万円が戻ったとしても、来月また減らされたらどうしますか。そのたびに弟へ電話させるんですか」


真紀は返事をせず、通帳を自分の前へ引き戻した。直人も新聞を畳み、妙を見る。小鍋の蓋がかすかに鳴り始めたため、妙は火を止め、三人分のほうじ茶を入れた。


妙は茶筒の横に置いていたA4のコピー用紙を一枚取り出した。町内会の資料を印刷した余りで、裏面には防災訓練の集合時間が薄く透けている。座卓の中央を片づけ、紙を横向きに置くと、買い物メモに使っていた黒いボールペンを真紀へ渡した。


「まず、収入を書きましょう。浩一さんからの生活費と、真紀さんのパート代。金額は手取りで」


「説教する気?」


「説教なら紙はいりません。必要なのは、話し合いの土台です」


妙は紙の左側へ「入るお金」、右側へ「出るお金」と書いた。その下を、固定費、食費、日用品、医療費、自由に使うお金に分ける。真紀はペンを握ったまま動かなかったが、やがて生活費十二万円、パート代七万五千円と記入した。


家賃は浩一の口座から引き落とされているため、生活費には含まれていない。だが電気、ガス、水道、食費、日用品、二人分の医療費、町内会費、冠婚葬祭費は、すべて真紀の管理だった。数字を一つずつ書き込むと、固定費と最低限の食費だけで十四万三千円になった。


「ほら、やっぱり足りないじゃない」


「まだ終わっていません。真紀さんの保険料とスマホ代を足してください。それから、自分で自由に使えるお金」


「自由に使えるお金なんて、残ったらよ」


「残らないから書かない、では見えなくなります。美容院も下着も、生活に必要でしょう」


真紀は一度ペンを置き、自分の毛先を指で触った。以前なら二か月ごとに美容院へ行っていたが、この半年は自宅で白髪染めをしているという。妙は金額を決めず、真紀自身が必要だと思う額を書かせた。


支出を合計すると、節約しても二十一万八千円になった。今月の収入は十九万五千円で、二万三千円足りない。しかも真紀の家事時間は一日平均四時間、浩一はゴミ出しを週二回するだけだった。


「ゴミ出しだって、私がまとめて玄関へ置いた袋を持っていくだけよ」


「それも書きましょう。真紀さんがしていることは、食事作り、買い物、洗濯、掃除、家計管理。時間も横に書いてください」


「家事時間なんて、お金の話に関係ある?」


「もっと働けと言われたのでしょう。働く時間を増やすなら、今している家事のどれを浩一さんが引き受けるか決めなければ、時間は出てきません」


真紀のペン先が、紙の上で止まった。もう一本の線を引き、「私の労働時間」と書く。パート五時間、通勤往復一時間、家事四時間と記入すると、合計十時間になった。


「浩一さんは八時間勤務で、通勤が往復一時間半。帰ってからはテレビを見て、お風呂に入って寝るだけ」


「それも責める材料ではなく、分担を決める材料です。真紀さんがパートを二時間増やすなら、二時間分の家事を浩一さんへ渡す。何を渡すか、先に決めておきましょう」


妙は新しい項目を三つ作った。生活費を元の十八万円へ戻す。真紀に勤務時間を増やすよう求めるなら、夕食作りと風呂掃除を浩一が担当する。家計に関する変更は、実行する前に二人で話し合う。


「こんなの見せたって、また怒鳴るわよ」


真紀はペンを置き、冷めかけたほうじ茶を飲んだ。湯飲みの縁には薄い口紅がついている。妙はその横へ、小さく「話し合いの条件」と書いた。


「怒鳴ったら、その日の話し合いは終了。お金の話は記録の残る方法だけ。それを最初に決めましょう」


「途中で逃げたって言われるわ」


「怒鳴っている相手の前に座り続けることを、話し合いとは呼びません。声を荒らげたら席を立ち、続きはメールかメッセージで送る。口頭で決まったことも、最後に文章で確認します」


「夫婦なのに、そこまでしなきゃいけないの?」


「夫婦だからこそです。明日の食パンを買う話なら忘れても困りません。でも毎月六万円の話は、言った、言わないで済ませられません」


真紀は紙の数字を上から順に見直した。さきほどまで夫に言われた言葉を繰り返していた口が、今度は二万三千円の不足、四時間の家事、六万円の減額を小さく読み上げている。浩一の顔色ではなく、紙の上の数字だけを見ていた。


「私、六万円全部を自由に使ってたわけじゃない。二万三千円はもう足りないし、来月は電気代が上がる。残りは急な病院代と、母さんの誕生日みたいな出費に使ってた」


「それを浩一さんへ説明できますか」


「説明じゃなくて、見せればいいのね」


「はい。分かってもらうために上手な言葉を探さなくても、この紙を一緒に見ればいいんです」


直人は黙ったまま、最後の蜜柑を真紀の小皿へ置いた。真紀はそれを食べず、紙の下へ日付を書き込んだ。さらに「生活費を減らした理由と、六万円の使い道を確認する」と、自分で四つ目の項目を加えた。


「直人、電話はしなくていいわ」


「本当に?」


「まず私が話す。怒鳴ったら終わり。続きを文章で送る」


「分かった。でも、終わったあとに連絡はして。結果を聞くだけならできるから」


「そのくらいなら頼むわ」


真紀は紙を半分に折ろうとして、妙に止められた。折り目で数字が読みにくくならないよう、透明な書類ケースへ入れる。鞄の中で通帳や化粧ポーチに潰されないよう、妙は町内会の余った封筒も一枚渡した。


帰るころには、窓の雨が細くなっていた。真紀は玄関で靴を履き、黒い鞄を肩へ掛ける。来たときより荷物は一枚の紙だけ増えたが、弟を夫の前へ連れていく話は、もう口にしなかった。


「妙さん」


「はい」


「もし、数字を見せても駄目だったら?」


「そのときは、真紀さんが次の条件を決めるんです。浩一さんが決めるまで待つのではなく」


真紀は鞄の上から書類ケースの位置を確かめた。爪の欠けた人差し指で、四角い角を一度押す。玄関の外には雨上がりの冷たい空気が入り込み、濡れた道路から土とアスファルトの匂いが上がっていた。


真紀を見送ったあと、直人は座卓の湯飲みを二つ重ねた。妙は真紀が使った湯飲みだけ重ねず、薄い口紅の跡を布巾で拭った。紙に書いた数字が夫を変えるとは限らないが、少なくとも次の話し合いで、真紀は夫の声の大きさだけを基準にしなくて済む。


「妙、僕が行かなくて本当によかったのかな」


「真紀さんが助けを求めたときは行けばいい。でも今日は、自分で話すために来たのよ。最初は本人も気づいていなかったけどね」


直人はうなずき、蜜柑の皮を生ゴミの袋へ捨てた。冷蔵庫に貼られた古い分担表の端が、暖房の風でわずかに浮いている。妙は新しいテープを短く切り、剥がれかけた角をもう一度留めた。


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