第2話 家事のできる男に育てた妻
第2話 家事のできる男に育てた妻
直人の母、芳江の七十三歳の誕生日は、駅前の料理店ではなく実家で祝うことになった。外食では落ち着かないという本人の希望で、真紀が寿司を注文し、妙が茶碗蒸しとほうれん草の白和えを作って持っていく。直人は商店街の和菓子屋で、芳江の好物である栗蒸し羊羹を一本買った。
築四十五年の実家は、玄関へ入ると線香と古い畳の匂いがした。靴箱の上には造花の菊と、十年以上前に亡くなった直人の父の写真が置かれている。芳江は藤色のカーディガンを着て、座卓の中央に届いた寿司桶を置き、海老の握りが自分の前へ来るよう何度も桶を回していた。
「お母さん、海老なら三貫あるから、一人で全部食べてもいいわよ」
真紀が湯飲みに緑茶を注ぎながら言うと、芳江は一貫だけ小皿へ取った。残りを孫のために置いておくつもりだったらしいが、真紀の長男は大学の講義、次男はアルバイトで来ていない。芳江は二人分の空いた座布団を見たあと、海老をもう一貫取った。
「昔は誕生日といえば、私が朝から料理したものだけどね。直人なんて唐揚げを一皿抱えて、誰にも渡さなかったのよ」
「それ、小学生のときの話でしょう」
直人はそう言いながら、妙が持参した茶碗蒸しを人数分並べた。運ぶ途中で一つの蓋がずれ、出汁が盆の上へ少しこぼれている。妙が布巾を探そうとすると、直人は台所から自分で濡らした布巾を持ってきた。
「妙、三つ葉は後からのせるんだっけ?」
「もうのせてあるから、そのままで大丈夫。お義母さんのだけ銀杏を二つ入れたわ」
「あら、覚えていてくれたの。真紀は一つしか入れてくれないのよ」
芳江が蓋を開けると、柔らかい湯気と柚子の皮の匂いが座卓の上へ広がった。真紀は「一人だけ増やすと喧嘩になるでしょう」と口を尖らせ、自分の茶碗蒸しを匙ですくう。底から銀杏が出てくると、芳江は子供のように妙へ見せた。
食事が始まってしばらくは、病院の待ち時間や近所の空き家について話した。芳江は耳鼻科で二時間待ったことを三度話し、そのたびに真紀が「聞いた」と遮った。妙は白和えを小鉢へ分けながら、三度とも違う相づちを返した。
「予約しても、そんなに待つんですね」
「そうなのよ。診察は五分なのにねえ」
直人は茶碗蒸しを食べ終えると、芳江の湯飲みに急須の茶を足した。真紀が持ってきた苺のケーキには、数字の七と三のろうそくを立てた。芳江は照明を消す必要はないと言いながら、直人が部屋を暗くすると背筋を伸ばし、息を二度に分けて炎を吹き消した。
食後、芳江が座卓に手をついて立ち上がろうとしたため、直人が止めた。空になった寿司桶を重ね、小皿と醤油皿を盆へ載せる。妙も自分の湯飲みを持ったが、直人は台所を顎で示した。
「妙は残った白和えをしまって。皿は僕が洗うよ」
「それじゃ、お願い。保存容器は持ってきてあるから」
「出た。相沢家のアタリ夫」
座卓の向かいで、真紀が苺のへたを紙ナプキンへ包みながら笑った。真紀は妙より五歳年上で、肩までの髪を焦げ茶色に染め、今日も爪には薄い桃色の光沢がある。その手は食事が終わっても、重ねられた皿へ伸びなかった。
「直人、昔は自分の食べた皿だって下げなかったのにね。妙さんの教育がよかったのねえ」
芳江もそれを聞いてうなずいた。息子が褒められたことと、嫁が役目を果たしたことを、同時に喜んでいる顔だった。直人は盆を抱えたまま足を止めたが、どちらへ返事をするべきか迷っているらしい。
妙は白和えの残りを保存容器へ移した。箸の先についた豆腐を容器の縁で落とし、蓋を閉める。町内会館で「アタリ夫を引いた」と言われたときは、紙コップを潰したまま帰ってきたが、今日は冷蔵庫の古い分担表を見なくても言葉が出た。
「私の教育ではありませんよ」
真紀の指が、二個目の苺のへたをつまんだまま止まった。芳江も湯飲みを口元まで持ち上げ、妙の顔を見る。妙は保存容器を風呂敷の上へ置き、蓋の四隅を順番に押した。
「私は成人男性の母親ではありません。直人さんは、結婚したときから自分の靴下を洗濯機へ入れられる人でした」
「でも、男の人なんて、妻がうまくしつけないと何もしないでしょう。褒めて伸ばすとか、頼み方を工夫するとか」
真紀はそう言いながら、紙ナプキンに包んだ苺のへたを直人の盆へ載せた。直人はそれを落とさないよう皿の隙間へ押し込み、眉間に浅いしわを寄せた。妙は声の大きさを変えず、空になった急須の蓋を押さえた。
「犬なら、褒めてしつけることもあるでしょうね。でも直人さんは、言葉の分かる大人ですから。私はお願いも相談もしますけど、しつけたことはありません」
「言葉の分かる大人って、妙さんは相変わらず堅いわね。褒めているのに」
「ありがとうございます。ただ、その褒め言葉を受け取ると、直人さんが家事をしなかった場合まで、私の教育不足になります。それは私の責任ではありません」
座卓の上には、寿司の醤油がついた小皿が三枚残っていた。真紀は唇を閉じ、芳江は湯飲みの中の茶柱を箸で沈めている。冷蔵庫の低い作動音が止まると、台所で蛇口から落ちる水の音まで聞こえた。
「僕が皿を洗うのは、妙の機嫌を取るためじゃないよ」
直人は盆を持ったまま、真紀のほうを見た。さきほどまで困ったように下がっていた眉が、今度はまっすぐになっている。妙が言い始めたことを奪わず、けれど自分の分だけは自分で説明する声だった。
「僕も食べたし、僕もこの家で暮らしてきたから片づける。結婚してからも同じだよ。妙だけが住んでいる家へ、僕が手伝いに通っているわけじゃない」
「うちは浩一さんが何もしないから、私が全部やってるのよ。だから、直人みたいな人を見ると羨ましくなるの」
「それは僕と比べる話じゃなくて、浩一さんと話すことじゃない?」
真紀は苺の汁がついた指を紙ナプキンで強く拭いた。桃色の爪の際へ赤い汁が入り込み、何度こすっても細い線が残っている。妙は真紀の夫について何か言おうとしたが、今日の席で扱うべき問題を増やさないため、保存容器を風呂敷で包んだ。
「誕生日なのに、難しい話はやめましょうよ」
芳江はそう言ったものの、妙を責める口調ではなかった。湯飲みを座卓へ置き、直人が持っている盆へ手を伸ばす。直人は母の皿まで下げようとしたが、芳江は自分の醤油皿を押さえた。
「これは私が持っていくわ。まだ自分の皿くらい運べるもの」
「お母さん、座ってていいよ。今日は誕生日なんだから」
「誕生日でも、この家で食べたのは私でしょう。台所まで十歩もないわよ」
芳江は座布団からゆっくり立ち上がった。藤色のカーディガンの裾を直し、右手で小皿を、左手で湯飲みを持つ。真紀は母を止めようとしたが、芳江は聞こえないふりをして台所へ歩いた。
「お義母さん、足元に新聞があります」
妙が声をかけると、芳江は床に広げられていた折り込み広告を避けた。歩幅は小さかったが、皿の醤油をこぼさず流しまで運ぶ。直人は母の隣へ盆を置き、二人で食器を分け始めた。
真紀だけが座卓に残り、空いたケーキ皿を見ていた。やがて自分の皿を持ち上げたものの、すぐには立たず、苺のへたを包んだ紙ナプキンを皿の中央へ載せ直す。妙はその手元を見たが、急かさなかった。
台所から、芳江の声が聞こえた。
「直人、お皿は水につけてから洗いなさい。お寿司のご飯が乾くと取れなくなるわよ」
「分かってるよ。僕、もう五十近いんだけど」
「五十になっても、息子は息子よ」
「それと、家事をしない子供のままでいることは別でしょう」
芳江は返事をせず、流しの脇へ自分の皿を置いた。白い小皿の縁には紺色の唐草模様があり、妙がこの家へ初めて挨拶に来た日にも使われていた。十五年前には芳江が家族全員の皿を一人で下げていたが、今日は自分の一枚だけを、自分の手で運んだ。
「妙さん、白和え、少し置いていってくれる?」
「もちろんです。明日の朝までに食べてくださいね」
「分かったわ。それから、今度は作り方を教えて。直人じゃなくて、私に」
芳江は保存容器を受け取ると、冷蔵庫の中に場所を作った。古い漬物の瓶を奥へ押し、昨日買った豆腐の消費期限を確かめている。妙はその横で風呂敷を畳み、小さくなった荷物を鞄へしまった。
帰り支度を始めたころ、真紀が自分のケーキ皿とフォークを持って台所へ入ってきた。彼女は妙とは目を合わせず、皿を流しへ置いたあと、芳江の使った湯飲みまで重ねようとした。芳江はその手を軽く叩いた。
「それはお母さんが自分で運んだの。真紀は自分の分だけでいいわよ」
台所には、洗剤の泡と柚子の皮、少し冷めた緑茶の匂いが混じっていた。妙は直人が洗った皿を布巾で拭き、芳江が運んだ唐草模様の小皿を食器棚へ戻した。たった一枚では家族の習慣は変わらないが、誰の手に載って台所まで来たのかは、もう間違えなかった。




