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第1話 アタリを引いた妻

第1話 アタリを引いた妻


町内会館の壁に掛けられた丸時計が午後五時を指すと、集会室に残っていた人たちが一斉に立ち上がった。十月に予定されている防災訓練の打ち合わせは予定より四十分も長引き、折り畳み机の上には飲み残された麦茶と、誰も手をつけなかった個包装の煎餅が残っている。相沢妙は配布資料を束ねながら、夕食用に買ってある大根と鶏肉を思い浮かべ、煮物の味が染みるまでに何分かかるかを逆算していた。


「妙、資料は僕が運ぶよ。先に帰ってて」


背後から声をかけた直人は、椅子を四脚ずつ重ねて壁際へ運んでいた。紺色のポロシャツの背中には汗が丸くにじみ、白髪の増えた前髪が額に張りついている。妙が机の端へ手をかけると、直人は顎で出口を示した。


「夕飯も僕が作るから。大根は下ゆでして、鶏肉と煮ればいいんだよね」


「お米は朝、私が研いで予約してある。生姜は野菜室の右側。薄揚げも一枚残ってるから、入れて」


「分かった。味つけは、いつもの薄めでいい?」


「最初は薄め。煮詰まるから、お醤油を一度に入れすぎないでね」


話している間にも、直人は長机の脚を畳み、両腕で抱えて廊下へ運び出した。妙は残っていた煎餅を一枚だけ鞄へ入れ、麦茶の紙コップを重ねた。直人に夕食を任せることは昨夜のうちに決めていたため、ここで遠慮する理由はなかった。


「あらまあ、相沢さんのご主人、本当によく動くわねえ」


赤い花柄のエプロンをつけた町内会長の妻、木島夫人が、直人の背中を目で追いながら声を上げた。その隣では、会計係の女性が輪ゴムで筆記具をまとめている。二人とも直人より先に妙の顔を見て、同じ秘密を見つけたように口元を緩めた。


「机を運んで、夕飯まで作ってくれるなんて。妙さん、アタリ夫を引いたわね」


「本当に。うちなんて、お湯を沸かすだけでも私を呼ぶのよ。そんな旦那さん、滅多にいないんだから大切にしなきゃ駄目よ」


妙は重ねた紙コップの縁を親指で押さえた。一番上のコップがへこみ、乾きかけた麦茶の匂いが指先に残った。直人が夕食を作る代わりに、妙は午前中、銀行とクリーニング店へ寄り、直人が出し忘れた冬物の上着を持ち込んでいる。


「ありがとうございます。でも、今日は私がこちらに残る予定だったので、夕飯は前から直人さんの担当なんです」


「あら、ちゃんとご主人を立てて。そういう奥さんだから、ご主人も優しいのねえ」


木島夫人は妙の返事を謙遜と受け取ったらしく、満足そうに何度もうなずいた。直人が廊下から戻ってくると、今度は本人へ「奥さん孝行ね」と声をかける。直人は少し困った顔で頭を下げ、残った机を持ち上げた。


「いえ、そんな大したことじゃありませんから」


その答えを聞いた女性たちは、ますます感心したようだった。妙は訂正する言葉を探したが、倉庫の鍵を持った町内会長が直人を呼び、会話はそこで終わった。紙コップを捨て、鞄の口を閉めても、「旦那さんを大切にしなきゃ」という言葉だけが、持ち帰る予定のない資料のように胸元へ残った。


町内会館を出ると、西の空には細長い雲が重なり、住宅街には焼き魚と柔軟剤の匂いが流れていた。妙は商店街で牛乳だけを買い、茶色い紙袋を抱えて十分ほど歩いた。途中の公園では、小学生が黄色いボールを蹴っており、一人の子が転がってきたボールを追って妙の前を横切った。


「すみません」


「はい、どうぞ」


妙が足元のボールを返すと、子供は両手で受け取り、また仲間の輪へ走っていった。選んだ相手と同じ場所へ帰り、暮らしを続けることを、結婚という名のくじ引きで説明してよいのだろうか。十五年間の一日一日を、赤い玉が出た一瞬へまとめられたようで、妙は牛乳の紙袋を抱え直した。


玄関を開けると、台所から生姜を炒める匂いがした。直人は町内会館から先に戻っており、灰色の部屋着に着替え、鍋の前に立っていた。流しには大根の皮が細長く残り、調理台の上には薄揚げの袋と、半分使った生姜が置かれている。


「おかえり。牛乳、買ってきた?」


「買ってきた。明日のパンもまだ二枚残ってたよね」


「二枚じゃなくて一枚。僕が昼に食べた」


「じゃあ、明日の朝はご飯にしよう。卵もあるし」


妙は牛乳を冷蔵庫へ入れようとして、扉の正面に貼られた一枚の紙へ目を止めた。端が油で黄ばみ、四隅を留めていた透明テープも茶色く変色している。結婚した年に二人で作った家事分担表だった。


料理、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出し。それぞれの名前が書かれているが、何度も鉛筆で消して書き直したため、紙の表面はあちこち毛羽立っていた。「夕食作り」の横には、妙の名前を消した跡の上に「早く帰ったほう」と記されている。


十五年前、直人は野菜炒めに使うキャベツを一玉全部刻み、二人では三日かかっても食べ切れない量を作った。妙も洗濯表示を確かめず、直人のセーターを子供服のように縮ませた。互いに失敗するたび、この紙を挟んで言い争い、書き直し、時には口を利かないまま冷えたカレーを食べた。


「ねえ、直人さん」


妙が呼ぶと、直人は包丁で生姜を刻んだまま振り返った。まな板の上には、太さの揃っていない千切りが積み重なっている。妙は分担表の端を指でなぞり、町内会館で言えなかった言葉を、今度は飲み込まなかった。


「私、本当にくじ引きに当たっただけなのかな」


直人は包丁を止めた。鍋の中では、下ゆでした大根と鶏肉が小さく音を立て、生姜を含んだ湯気が換気扇へ吸い込まれていた。直人はすぐには答えず、手を洗って布巾で拭いた。


「町内会で言われたこと、気にしてる?」


「少しね。あなたが机を運んで夕飯を作っただけで、私はアタリを引いた妻になる。だけど、今日の分担は昨夜二人で決めたでしょう。私が何もしないで、当たりくじだけ受け取ったみたいに聞こえたの」


「僕も、その場でうまく言えなかったな。大したことじゃないと言えば済むと思ってた」


直人は冷蔵庫の古い紙を見たあと、鍋の火を弱めた。妙も、この一言だけで十五年分の引っ掛かりを全部説明できたとは思わなかった。それでも、笑って済ませたまま帰ってくるより、台所で生姜の匂いを嗅ぎながら口にできたことのほうが大切だった。


「直人さんが外で褒められるのが嫌なわけじゃないの。ただ、あなた一人の性格がよかったから、今の暮らしができたわけじゃないでしょう」


「うん。僕も最初から何でもできたわけじゃない。キャベツ一玉を炒めたし、風呂場の洗剤で床を真っ白にした」


「あれ、流すのに二時間かかったのよ」


「妙だって、僕のセーターを縮めたよ」


「あれは今でも悪かったと思ってる。高かったものね」


直人は冷蔵庫の前まで来ると、黄ばんだ分担表の浮いた角を押さえた。紙は十五年の間に何度も剝がれ、そのたびに妙か直人のどちらかが新しいテープを貼ったものだった。印刷された表より、余白へ書き足された「無理な日は交代」「体調不良は申告」「気づいたほうが黙って背負わない」という文字のほうが多い。


「だったら僕も、十五年前に大当たりを引いてるよ」


「私が?」


「僕が失敗したとき、黙って全部やるんじゃなくて、次からどうするか一緒に決めてくれた。妙がいなかったら、今でもキャベツ一玉を二人分だと思ってるかもしれない」


「それはさすがに途中で気づくでしょう」


「じゃあ、半玉くらいには減らせたかな」


妙は鞄から町内会でもらった煎餅を取り出し、半分に割った。片方を直人へ渡すと、直人は濡れた手をもう一度布巾で拭いてから受け取った。醤油味の煎餅をかじる音と、鍋の蓋が小さく鳴る音が、六畳の台所に続いた。


「でも、大当たりって言い方も変かもしれないね」


直人は煎餅をのみ込み、包丁を持ち直した。妙は冷蔵庫の扉を閉めず、古い分担表をもう一度見た。くじなら、引いた瞬間に結果が決まるが、この紙には消し跡も書き損じも、言い争った翌朝に加えた約束も残っている。


「そうね。大当たりのままでいたいなら、何度も話し合わないと駄目だもの」


「今日みたいに?」


「今日みたいに」


妙は冷蔵庫から卵を二つ取り出し、小鍋へ水を張った。明日の朝食にするゆで卵を作りながら、直人の横で煮物の味を確かめる。醤油は少し薄かったが、大根の中心まで熱は通っており、明日の朝にはちょうどよく染みているはずだった。


古い分担表の右下には、十五年前の妙の字で小さく「困ったことは三日以内に言う」と書いてあった。妙はその文字を指で押さえ、今日の分は守れたと思った。直人は味見用の小皿を妙へ差し出し、醤油をもう少し足すかどうか、いつものように尋ねた。


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