第5話 話し合いに応じてくれてありがとう
第5話 話し合いに応じてくれてありがとう
月曜日の午前九時十二分、真紀の携帯電話に銀行から入金通知が届いた。通帳アプリを開くと、浩一の口座から六万円が振り込まれている。摘要欄に並ぶ夫の名前を確認したあと、真紀は画面を閉じ、洗いかけていた米へもう一度水を注いだ。
蛇口から流れた水が、白く濁ってボウルの中を回った。以前なら、六万円が戻ったことだけで肩の力を抜き、昨夜の約束も怒鳴り声も、なかったことにしていただろう。だが今日は、食器棚の上に置いた透明な書類ケースを見ても、隠したいとは思わなかった。
浩一が署名した紙には、毎月の生活費を十八万円とすること、変更前には二人で収支を確認すること、声を荒らげたら話し合いを終了することが書かれている。六万円が振り込まれたからといって、その紙が不要になったわけではない。真紀は米を炊飯器へ入れ、予約ボタンを押してから、妙へ短いメッセージを送った。
「六万円が振り込まれました。浩一さんに、ありがとうと言ってもいいのかな」
送信から三分後、妙から電話がかかってきた。真紀は濡れた手をエプロンで拭き、台所の窓を少し開けた。隣の家から焼いたパンの匂いが流れ込み、道路ではごみ収集車の音楽が鳴っている。
「言いたいなら、言っていいと思いますよ」
「でも、生活費を戻すのは当然のことでしょう。お礼を言ったら、私が折れたみたいにならない?」
「感謝と降参は別のものです。してはいけないことを帳消しにする必要はありません。でも、話し合いに応じたことや、約束を実行したことまで無視しなくていいでしょう」
「また私が、浩一さんの機嫌を取る形にならないかな」
「『怒鳴ったことはもういいから、六万円ありがとう』と言えば、帳消しに聞こえるかもしれません。でも『話し合いに応じて、決めた日に振り込んでくれてありがとう』なら、何に感謝しているか分かります」
真紀は冷蔵庫へ貼った買い物メモの余白に、その言葉を書いた。自分の言葉なのに、一度紙へ置かなければ口から逃げそうだった。妙は電話の向こうで、洗濯機が止まったから切ると言い、いつもの調子で通話を終えた。
昼過ぎ、真紀は商店街の魚屋で鯖を二切れ買った。浩一の好物だからではなく、月曜日は魚にすると先週から決めていたためだった。大根をすりおろし、ほうれん草を茹で、昨日の煮物には竹輪を二本足した。
夕方六時半、玄関の鍵が回った。浩一は灰色の作業鞄を床へ置き、いつものように靴を脱いだ。以前なら上着を椅子の背へ掛けたが、今日は廊下のハンガーへ自分で掛けている。
「六万円、入ってたか」
「確認しました」
「そうか」
二人の会話はそこで切れた。浩一は洗面所へ向かい、真紀は鯖を焼くグリルの火を弱めた。皮から落ちた脂が受け皿ではね、台所に焦げた醤油のような匂いが広がった。
夕食の支度が整うと、真紀は味噌汁を二つ運び、浩一は自分で炊飯器からご飯をよそった。署名した紙の話はしなかったが、テレビの電源も入れなかった。窓の外では細い雨が降り始め、ベランダの物干し竿に水滴が並んでいた。
「浩一さん」
「何だ」
「昨日、話し合いに応じてくれてありがとう。それから、決めた日に六万円を振り込んでくれたことも」
浩一は箸を持ったまま、真紀の顔を見た。味噌汁の湯気が眼鏡へ当たり、右側のレンズだけが白く曇っている。浩一は眼鏡を外し、シャツの裾で拭いた。
「じゃあ、もうこの話は終わりでいいんだな」
「いいえ。約束はこれからも続きます。怒鳴ったことが消えたわけでもありません」
「それなら、何で礼なんか言うんだよ」
「悪かったことと、よかったことを、別々に扱いたいからです。あなたがしたことを全部悪いと決めたいわけではありません。でも、一つよいことをしたから、悪かったことまで消えるとも思っていません」
真紀は鯖の骨を箸で外し、小皿の端へ揃えた。浩一は眼鏡を掛け直し、味噌汁を一口飲んだ。椀を置く音は小さく、昨日のように座卓を震わせなかった。
「俺は、十二万円あれば十分だと思ってた」
「私のパート代を足せば、暮らせると思ったのね」
「正直、そうだ。お前が七万五千円もらってるなら、合わせて十九万五千円になるって」
「その考えを、なぜ先に私へ言わなかったの?」
「反対されると思ったからだよ」
「反対されると分かっていたから、相談せずに減らしたの?」
浩一は鯖の皮へ箸を入れ、細かく崩した。いつもなら皮を残すが、今日は焦げたところまで口へ入れる。真紀は次の言葉を急がず、大根おろしへ醤油を一滴だけ足した。
「そう言われると、そのとおりだ」
「話し合いは、賛成してもらうためだけにするものではないでしょう。反対されるかもしれないときほど、先に話してほしいの」
「俺も、付き合いを全部断れるわけじゃない」
「全部断ってとは言っていません。家計から出せる金額を二人で決めたいんです」
真紀は食器棚から、小さな大学ノートを一冊出した。子供たちが学生だったころに買い置きしたもので、表紙には青い罫線が入っている。最初のページへ、来月の収入と支出を書くための線を引いた。
「毎月二十五日の前に、十五分だけ家計を確認しませんか。あなたの交際費も、私の美容院代も、隠さずに書く。それぞれが自由に使える金額も、同じように決める」
「俺の小遣いを、お前が監視するのか」
「私のお金も同じ紙へ書きます。お互いに、相手だけを監視しないための十五分です」
浩一はノートを受け取り、表紙を開いた。真紀が引いた線の右側へ「浩一」、左側へ「真紀」と書く。二つの欄の幅が違うことに気づき、定規を持ってきて同じ幅に直した。
「ゴルフの積み立て、一万円は続けたい」
「分かりました。私は二か月に一度、美容院へ行きたい。月に直すと五千円です」
「飲み会は、その月によって違う」
「予定が分かった時点で書きましょう。予定外なら、そのとき相談する」
二人は十五分のつもりで、三十分ほどノートに数字を書いた。浩一は自由に使える金額を同額にすると、自分の交際費が収まらない月もあると気づいた。翌月だけは積み立てを五千円減らし、飲み会の一回分を自分の自由費から出すと決めた。
「こういう話を毎月するのか。面倒だな」
「面倒だから、今まで私一人に任せていたの?」
「そうかもしれない」
浩一はそう言うと、食べ終えた鯖の皿と味噌汁の椀を重ねた。いつもなら座卓へ残したまま風呂へ向かうが、今日は二人分を流しまで運ぶ。真紀は立ち上がらず、ほうじ茶を一口飲んだ。
「皿も洗えばいいのか」
「今日は私が洗います。お茶を飲み終わったら」
「ありがとう」
浩一の口から出た言葉に、真紀はすぐ返事をしなかった。台所の時計は午後八時を指し、雨粒が換気扇の外側を細かく叩いている。真紀は湯飲みを両手で包み、温度を確かめてから口を開いた。
「そうやって言ってもらえると、また作ろうと思えるわ」
「今までも言ってたつもりだった」
「『ごちそうさま』は聞いていたけど、『ありがとう』は久しぶりです」
浩一は記憶を探すように天井を見たが、いつ以来か思い出せなかった。代わりに、重ねた食器を流しへ運び、水につけた。乾いた米粒が残らないよう、皿の表面へ水を回した。
翌朝、真紀は妙へ、青い大学ノートの写真を送った。ページの左右には、同じ幅で二人の名前が書かれている。妙は返信欄へ「よかったですね」と打ちかけたが、それだけでは何を指すのか分からないと思い、書き直した。
「真紀さんが、約束を守ったことへ自分の言葉で感謝できたのがよかったです。感謝しても、境界線は消えません」
送信したあと、妙は冷蔵庫の分担表を見た。直人が消した「怒」の跡はまだ薄く残っている。その下へ新しい項目を書き加える代わりに、妙は朝食の皿を運んできた直人へ、顔を向けた。
「お皿を下げてくれて、ありがとう」
「今日は一点もらえる?」
「採点のためじゃないでしょう」
「そうだった」
直人は笑い、皿を水につけた。妙は湯飲みに残った茶を飲み、昨日より少し短くなった鉛筆を分担表の脇へ戻した。感謝は相手を満点にする判子ではなく、次も同じ席で話すために、自分の手から渡す一杯の茶のようなものだった。




