第12話 夫が実母散を買ってきた
第12話 夫が実母散を買ってきた
日曜日の午後、真紀は十五年前の家計簿を座卓へ並べていた。子供たちの学費が終わったあとも同じ生活費が必要なのか確かめるため、食費、教育費、医療費を年代ごとに見直すことにしたのだ。古い大学ノートの表紙には油染みがあり、開くと鉛筆の粉と押し入れの乾いた匂いがした。
七年前の四月は、食費と電気代が急に増えていた。学校が休みになり、子供たちが朝から家にいた時期だった。米、袋麺、冷凍食品、マスク、消毒液という文字が続く中に、「実母散、千六百五十円」と書かれた一行があった。
「これ、覚えてる?」
真紀がノートを浩一へ見せると、浩一は老眼鏡を掛けた。新聞を読むために買った眼鏡だったが、家計簿の細かな字を見るときにも使っている。金額の横には、当時の真紀の字で小さく「浩一」と書かれていた。
「何だっけ」
「実母散。あなたが買ってきたのよ」
「ああ。ものすごく苦いやつか」
「私より先に、味見したでしょう」
浩一は老眼鏡を外し、七年前のことを思い出すように眉間へ指を当てた。真紀も家計簿の一行を見ながら、当時の台所へ戻っていった。
あのころ、真紀は夜中に何度も目を覚ましていた。春先なのに首筋から汗が流れ、布団を蹴れば足先が冷えた。昼は家族四人分の食事を作り、消毒液で玄関の取っ手を拭き、夕方になると頭の片側が脈打つように痛んだ。
子供たちは学校へ行けず、浩一も週の半分は居間で仕事をしていた。オンライン会議が始まると、家族はテレビを消し、掃除機も止めなければならない。真紀は狭い台所で昼食の焼きそばを四人分作りながら、居間から聞こえる浩一の声へ何度も舌打ちした。
「今、会議なんだ。もう少し静かにできないか」
「静かに料理を作る方法があるなら、あなたが作って」
「仕事中だって言ってるだろう」
「私だって朝からずっと動いてるわよ!」
真紀がフライ返しを調理台へ置くと、油が一滴跳ねた。浩一は画面のマイクを慌てて切り、真紀を睨んだ。子供たちは何も言わず、出来上がった焼きそばを自分たちの部屋へ運んだ。
その夜、真紀は夕食を作らず、寝室へ入った。熱があるように顔が火照るのに、体温計は三十六度四分しかない。汗で濡れた寝間着を着替え、枕の冷たい場所を探して何度も裏返した。
翌日、浩一は会社へ出勤した。帰宅したのは午後八時を過ぎており、手には勤務鞄のほかに白い薬局の袋を持っていた。袋の中には、見慣れない漢字の書かれた箱が入っていた。
「何、これ」
「実母散。薬剤師さんが、こういう症状に使う薬だって」
「どういう症状って説明したの?」
「急に汗をかく、夜に眠れない、頭痛がする、手足が冷える」
「ほかには?」
「俺に腹を立てる」
「それは薬で治す症状じゃないでしょう」
真紀が箱を座卓へ置くと、浩一は少し離れた場所へ座った。薬局では最初、養命酒を手に取ったらしい。だが薬剤師に妻の年齢と症状を尋ねられ、更年期に伴う不調なら女性用の薬もあると教えられたという。
「俺には更年期かどうか分からない。でも、三日くらいまともに寝てないだろう。病院へ行きたくないなら、せめて薬剤師さんに聞いてみようと思った」
「私、病気だなんて言ってない」
「病気じゃなくても、つらいことはあるだろう」
箱の中には、乾燥した生薬の入ったティーバッグが並んでいた。封を開けると、土と木の皮を混ぜたような匂いがした。浩一は説明書を広げ、最初の分を湯飲みへ入れ、熱湯を注いだ。
「朝と昼は、こうして振り出して飲むらしい」
「勝手に作らないでよ。私が飲むかどうかも聞いてないでしょう」
「そうだな。悪かった」
浩一は湯飲みを真紀へ押しつけず、自分の前へ置いた。数分たって色が濃くなると、匂いを嗅ぎ、ほんの少し口へ含んだ。直後に眉を寄せ、台所へ水を飲みに行った。
「苦い」
「私の薬を、どうしてあなたが飲むのよ」
「毒見」
「薬局で買った薬に毒が入ってるわけないでしょう」
真紀は呆れながら、浩一が残した湯飲みを手に取った。口元へ近づけると、桂皮に似た香りの奥から、濡れた草のような匂いが上がる。一口飲むと、舌の付け根へ苦みが残った。
「本当に苦い」
「だから言っただろう」
「あなたが先に言っただけでしょう」
二人は一つの湯飲みを挟み、交互に水を飲んだ。浩一が買ってきた薬で、真紀の汗や頭痛がその夜すべて消えたわけではない。それでも浩一は翌日から、昼休みに食べる物を自分と子供たちの分だけ用意し、真紀が横になる時間を作った。
「俺の会議中は静かにしてくれ」と言わなくなった代わりに、会議の時間を紙へ書いて冷蔵庫へ貼った。真紀もその時間だけは掃除機を避け、料理を始める前に確認した。二人とも余裕がなくなれば、相手の音や声を攻撃のように受け取ることを、あの春に初めて知った。
現在の座卓で、真紀は七年前の家計簿を閉じた。実母散を飲み切ったあとの空箱は、とうに捨てている。だが千六百五十円という数字だけが、食費と電気代の間に残っていた。
「私、あのとき、お礼を言った?」
「言ってないんじゃないか。苦いとは何度も言ってたけど」
「そうよね。勝手に薬を買ってきたって、最初は怒ったもの」
「飲むかどうかを聞かずに買ったのは、確かに悪かった」
「でも、薬剤師さんに聞いてくれた。私が眠れていないことも見ていた」
真紀は家計簿を浩一の前へ置き直した。毎月の二十五万円とは別のところで、浩一が家族へ使った時間や金は、まだいくつもあるのかもしれない。それらを過去のこととして使い切った扱いにしていたのは、自分も同じだった。
「七年遅くなったけど、実母散を買ってきてくれてありがとう」
「効いたのか、あれ」
「すぐには分からなかった。でも、あなたが私の体を面倒くさいで済ませなかったことは、今も覚えてる」
「俺は、お前が怒らなくなる薬が欲しかっただけかもしれない」
「それなら効かなかったわね」
「まったくだ」
浩一は笑い、老眼鏡をもう一度掛けた。家計簿の次のページには、数か月後に真紀が受診した婦人科の費用が書かれている。その日の欄にも、小さく「浩一、送迎」と記されていた。
「これもあなたね」
「車を出しただけだろう」
「私、あなたがしてくれなかったことばかり数えていた。してくれたことには、終わったら丸をつけて、二度と見返さなかった」
「俺も同じだ。弁当も洗濯も、済んだらそれで終わりだと思ってた」
「終わったことでも、ありがとうと言っていいのね」
「七年分を一度に請求されると、こっちも七年分返さないといけないのか」
「返してください。利息はいりません」
浩一は家計簿の空いた欄へ、鉛筆で一行書いた。「更年期の七年間、家を回してくれてありがとう」。真紀はその下へ、「実母散を買って帰ってくれてありがとう」と書いた。
二人は家計簿を閉じ、古いノートの束へ戻した。愛情を金額へ換算することはできなかったが、千六百五十円の支出には、薬局で妻の症状を説明した夫の時間まで含まれていた。真紀はその一行へ、七年遅れの丸をつけた。




