第13話 この動画、一緒に見てみない?
第13話 この動画、一緒に見てみない?
土曜日の夕食後、真紀は座卓の上へノートパソコンを置いた。画面には、白髪の男性と若い会社員が描かれた動画の表紙が映っている。題名には「周りから愛される六十代が言っている口癖」とあり、再生時間は二十分を少し超えていた。
浩一は食べ終えた鯖の皿を重ね、流しへ運ぼうとしていた。今週から始めた食器洗いは三回目で、真紀はもう皿の重ね方を直さなくなっている。浩一は画面を一度見たあと、ノートパソコンの脇へ皿を置いた。
「何だ、これ」
「妙さんが教えてくれたの。この動画、一緒に見てみない?」
「愛される六十代って、俺はまだ五十三だぞ」
「七年かけて練習すれば、ちょうどいいでしょう」
「七年もかかるのか」
「あなた、五十三年かけて今の口癖を作ったのよ。二十分で全部変わると思ってる?」
浩一は皿を持ったまま台所へ行き、水につけた。真紀はその間に湯を沸かし、ほうじ茶を二つの湯飲みへ注ぐ。先日、浩一が買ってきた栗羊羹も二切れだけ小皿へ載せた。
二人が座ると、真紀は再生ボタンを押した。動画の主人公は、職場で若い社員へ厳しい言葉を向け、誰からも声をかけられなくなっていた。浩一は最初の三分ほど腕を組んで見ていたが、主人公が部下の説明を途中で遮る場面で、鼻から短く息を出した。
「こんな上司、本当にいるのか」
「いるんじゃない?」
「俺はここまでじゃない」
「動画を見ながら、自分よりひどい人を探さないの」
「真紀だって、家事の動画を見たら、自分より散らかった家を探すだろう」
「探します」
二人はそこで一度笑った。動画は七つの言葉を順番に紹介し、主人公が少しずつ話し方を変えていく。若い社員へ教えを求める場面になると、浩一は腕をほどき、湯飲みへ手を伸ばした。
「年下に一から教えてくれって言うのは、難しいな」
「どうして?」
「部長が知らないと言ったら、部下が困るだろう。頼りないと思われるかもしれない」
「知らないのに、知っているふりをされるほうが困らない?」
「それはそうだけど、立場というものがある」
真紀は動画を一時停止した。以前なら「その考えが古い」と返しただろう。今日は湯飲みを両手で包み、画面に映った主人公の顔を見た。
「会社で、最近分からなかったことはある?」
「新しい勤怠システム。休暇の申請をするだけなのに、入口が三つもある」
「それで、どうしたの?」
「紙で申請しようとしたら、総務に戻された」
「それで、どうなったの?」
浩一は真紀の顔を見た。動画で紹介されたばかりの言葉を、そのまま試していると分かったらしい。口元を少し曲げたが、話をやめなかった。
「高梨に教えてもらった。二分で終わったよ」
「高梨さんって、この間話していた若い人?」
「ああ。俺が二十分迷ったことを、二分でやった。礼を言ったら、向こうのほうが恐縮してた」
「頼りないと思われた?」
「いや。翌日から、別の操作も教えましょうかって声をかけてくるようになった」
真紀は再生ボタンを押した。動画の主人公も、教わる側になったことで部下との会話が増えている。浩一は今度は茶々を入れず、栗羊羹を小さく切りながら見た。
終盤では、若い社員が親の介護を理由に転職を迷っていた。主人公は昔の自分なら甘いと切り捨てていたが、今の状況をそのまま受け止め、話の続きを尋ねた。真紀は一時停止しなかったが、浩一は羊羹を口へ運ぶ手を止めた。
「高梨も、母親の介護をしてる」
「そうなの?」
「週に二回、定時で帰ってる。ほかの社員から不満が出るから、俺が仕事を引き受けてた」
「それで、どうなったの?」
「またそれか」
「嫌なら、普通に聞くわ」
「いや、それでいい」
浩一は湯飲みの中へ目を落とした。高梨の母親は昨年脳梗塞で倒れ、今は右手が動きにくいという。高梨は転職も考えているが、収入が減れば実家の生活が難しくなるため、決められずにいる。
「俺は、辞めるなら早く決めろと言った」
「高梨さんは、何て?」
「分かりましたって。それから、仕事以外の話をしなくなった」
真紀は「そんな言い方をしたら当然でしょう」と言いかけ、口を閉じた。自分の正しさを返すより、浩一の話にはまだ続きがあると思った。湯飲みの縁についた茶葉を、指で取った。
「それで、浩一さんはどうしたいの?」
「分からない。辞めてほしくはない。でも介護をやめろとも言えない。俺が仕事を引き受け続けるのも、定年まで持たない」
「高梨さん本人には、それを話した?」
「話してない。上司が困ってると言ったら、もっと追い詰めると思って」
「教えてくれるか、と聞いてみたら?」
「何を?」
「介護を続けながら、どんな働き方ならできるのか。高梨さんの生活は、高梨さんにしか分からないでしょう」
浩一は返事をせず、再生を再開した。画面の中では、主人公の机へ温かいお茶が置かれていた。動画が終わると、関連動画の小さな画像がいくつも並んだ。
「全部覚えた?」
真紀が尋ねると、浩一は首を横に振った。七つの言葉を一度に使えば、部下から急にどうしたのかと疑われるという。真紀も、家庭で毎回決まった言葉を返されたら、話を聞いているのか練習しているのか分からなくなると思った。
「一つだけなら?」
「話の続きを聞くやつかな」
「それで、どうなったの?」
「今、それを言う場面じゃないだろう」
「練習です」
「真紀は何を使うんだ」
「私は、今はそうなんだな、にする」
「俺の話へ『今はそうなんだな』って返すのか。ずいぶん偉そうだぞ」
「じゃあ、『今はそうなのね』にします」
「それならいい」
翌月曜日、浩一は高梨を会議室へ呼んだ。仕事を引き受けてやるとも、転職を思い直せとも言わなかった。自分には介護と仕事を両立する方法が分からないので、どの時間なら働けて、何が難しいのか教えてほしいと伝えた。
高梨は最初、退職を勧められると思っていたらしく、椅子の端へ浅く座っていた。だが浩一が途中で結論を出さずに聞くと、訪問介護のない火曜と金曜だけは定時で帰りたいこと、朝なら一時間早く出勤できることを話した。業務をすべて浩一が引き取らなくても、担当時間を組み替えれば続けられる可能性があった。
その夜、浩一は帰宅すると、台所で大根を切っていた真紀へ声をかけた。真紀は包丁を置かず、輪切りにした大根を鍋へ入れながら聞く。出汁と生姜の匂いが、換気扇の下から居間へ流れていた。
「今日、高梨と話した」
「それで、どうなったの?」
浩一は一瞬笑ったあと、会議室で決めたことを話した。真紀は途中で「私なら」と言わず、大根が煮えるまで続きを聞いた。最後まで話し終えると、浩一が今度は尋ねた。
「真紀は、パートの勤務日を増やす話、それでどうなった?」
「一か月だけ、水曜日も入ることになった。続けられるか試してから決める」
「今は、それでいいんだな」
「はい。今は、そうです」
二人の性格は、動画を一本見ても変わらなかった。浩一は翌朝にはまた新聞を読みながら返事をし、真紀も洗い方の違う皿を一枚だけ洗い直した。それでも夜になると、どちらかが「それで」と続きを尋ね、昨日より一言だけ長く相手の話を聞いた。




