第11話 変われるのは自分です
第11話 変われるのは自分です
真紀が自宅へ戻って最初の土曜日、朝から細かな雨が降っていた。ベランダへ出せない洗濯物が居間の物干し台に並び、湿った靴下と柔軟剤の匂いが部屋へこもっている。浩一は約束どおり風呂掃除を始めたが、十分ほどすると濡れた手のまま台所へ来た。
「洗剤、どれを使うんだ」
「青いボトル」
「青いのが二本ある」
「お風呂用って書いてあるほうよ」
「字が小さくて見えない」
真紀は野菜を切っていた包丁を置き、浴室へ向かった。棚には浴室用洗剤とガラス用洗剤が並び、どちらの容器も薄い青色だった。真紀は浴室用を浩一へ渡し、床、浴槽、排水口の順に洗うよう説明した。
「排水口の髪の毛は、先に取って捨てて。洗剤を流してからだと手が濡れるでしょう。それから壁も、下半分くらいは――」
「分かった。もういいよ」
浩一の声が少し大きくなった。真紀は口を閉じたものの、十分後に浴室を覗くと、鏡には水滴が残り、排水口の蓋も外したままだった。床の隅には白い泡が細く残っている。
「まだ洗剤が残ってる」
「流したよ」
「隅に泡があるでしょう。鏡も拭かないと水垢になるし、蓋も戻してない」
「そこまで気になるなら、自分でやればいいだろう」
浩一はゴム手袋を洗面台へ置き、居間へ戻った。真紀は泡の残った床をシャワーで流し、排水口の蓋を戻した。蛇口を閉めると、今度は自分が一人で家事をしたような顔をしていることに気づいた。
昼食は、真紀が作った焼きそばだった。浩一は黙って食べ、真紀も箸でキャベツだけを先に拾った。テレビでは休日の観光地が紹介されていたが、二人とも画面を見ていなかった。
「家事を頼むと、結局こうなるのよね」
真紀が言うと、浩一は箸を止めた。皿の上には紅生姜が一口分だけ残っている。浩一はそれを焼きそばへ混ぜ、低い声で答えた。
「やり方を一から十まで言われたら、俺じゃなくて真紀がやってるのと同じだ」
「洗剤を残したままでも、黙っていろっていうの?」
「次から気をつけてと言えば済むだろう。途中からずっと後ろで見られたら、やる気がなくなる」
「やる気がなくなったら、私がやるの?」
「そういう言い方をするから話したくなくなるんだよ」
浩一の声がまた一段高くなった。真紀の指が、座卓の上に置いた箸を強く押さえた。以前なら同じ大きさの声で言い返すか、食器を持って台所へ逃げていただろう。
「今、声が大きくなっています。私は十分休みます」
真紀はそう言って立ち上がり、自分の食器だけを流しへ運んだ。寝室へ入り、窓を少し開ける。雨の匂いを含んだ空気が入り、物干し台のシャツがゆっくり揺れた。
十分後、携帯電話の時計を確認して居間へ戻ると、浩一は食器を洗っていた。焼きそばの油がついた皿を、スポンジで何度もこすっている。流しの脇には、洗った箸が二膳並んでいた。
「声が大きくなった。悪かった」
「私も、あなたを試験するみたいに後ろから見てた。ごめんなさい」
「風呂場、やり直したのか」
「泡だけ流した。今度から、終わったあとに一緒に確認する?」
「いや、次は自分で確認する。今日より汚かったら、そのとき言ってくれ」
「分かった。私と同じやり方でなくても、洗剤が残っていなければいいことにする」
浩一は蛇口を止め、濡れた手を布巾で拭いた。二人とも相手を変えようとして、朝から相手の欠点ばかり見ていた。新しい分担表を作っても、そこに書かれていない態度までは紙が直してくれなかった。
午後、妙から真紀へ電話がかかってきた。芳江の家に置いたままのカーディガンを預かっているという連絡だったが、真紀は朝の風呂掃除についても話した。妙は「浩一さんを変えようとしたんですね」と言わず、しばらく聞いていた。
「私、任せるって言いながら、私のやり方を再現させようとしてた」
「浩一さんは?」
「声を大きくした。でも、あとで謝って、食器を洗った」
「では、二人とも自分で直したんですね」
「でも、この調子で変われるのかな」
「相手を変えられるかは分かりません。自分が次にどうするかなら、今日決められます」
電話を切ったあと、真紀は冷蔵庫へ貼った分担表の余白へ、小さな付箋を一枚貼った。「変われるのは自分」と書き、その下へ「任せた家事を監督しない」と加えた。浩一の欄には何も書かなかった。
翌月曜日、浩一は出勤すると、机の上に三冊のファイルが積まれているのを見つけた。若い部下が処理できず、締め切りの近い案件だった。以前なら黙って持ち帰り、残業してすべて直していただろう。
「部長、すみません。今日中に確認してもらえますか」
「全部は無理だ。午前中に一冊だけ見る。残りは、どこで困っているのか付箋を貼って持ってきて」
「でも、取引先へ明日出さないと」
「だから一緒に直す。俺が全部やったら、来月も同じことになる」
浩一は一冊目を開き、自分の机の横へ椅子を置いた。部下は最初こそ立ったままだったが、浩一に言われて座る。二人で一ページずつ確認すると、昼までに間違いの多い箇所が分かった。
帰宅した浩一は、作業鞄を玄関のハンガーへ掛けた。真紀は鯖の味噌煮を温め、食卓へ小松菜のおひたしを並べている。浩一は冷蔵庫の付箋を見つけ、しばらく読んだ。
「変われるのは自分、か」
「あなたに変われって書くのはやめたの」
「じゃあ、俺も一枚使う」
浩一は別の付箋へ、「全部一人で背負わない」と書いた。真紀の付箋の隣ではなく、自分の作業鞄の持ち手へ貼る。剥がれかけた合成皮革の上では粘着が弱く、端がすぐ浮いたため、透明テープで留めた。
「今日、部下の仕事を全部引き取らなかった。一緒に直した」
「そうだったの。今まで一人でやってたの?」
「そのほうが早いから。でも、俺がいなくなったら困ると思って」
「知らなかった。教えるのも仕事なのね」
「急に聞き上手になったな」
「キャバ嬢のさしすせそを覚えました」
「何だ、それ」
「さすが、知らなかった、すごい、センスいい、そうなんだ」
浩一は味噌煮の鯖を箸でほぐし、骨を一本取り出した。真紀が「すごい」と言うのを待つように骨を皿の端へ置いたため、二人とも吹き出した。真紀は笑いながら、浩一の湯飲みへほうじ茶を注いだ。
「大げさに褒めて、あなたを動かすつもりはないからね」
「安心した。鯖の骨を取っただけで褒められたら、自分が幼稚園児になった気がする」
「でも、今日も仕事へ行って、帰ってきてくれてありがとう」
浩一は湯飲みを持ち上げたまま止まり、すぐには返事をしなかった。真紀は見返りを待たず、自分の鯖から骨を外した。しばらくして、浩一が味噌汁の椀を置いた。
「真紀も、戻ってきてくれてありがとう」
食後、浩一は自分から食器を流しへ運んだ。真紀は泡の量も、皿を洗う順番も見なかった。代わりに浴室へ行くと、朝より少し斜めになった排水口の蓋を見つけたが、手を出さず、そのまま風呂へ入った。
翌朝、浩一は蓋のずれに自分で気づき、出勤前に直した。真紀はそれを見ても「ほら、昨日言ったでしょう」とは言わなかった。二人が変えられたのは相手ではなく、相手へ向ける自分の言葉と、自分の手を出すタイミングだけだった。




