第10話 定年前のラストスパート、私もともに走りたいです
第10話 定年前のラストスパート、私もともに走りたいです
芳江の家で暮らし始めて五日目の朝、真紀は台所の小さな食卓へ通帳を三冊並べた。自分名義の普通預金、子供たちの学費を積み立てていた口座、浩一と共有している生活費の口座だった。窓の外では、芳江が植えた小松菜の葉に朝露が残り、隣家から味噌汁の匂いが流れてきた。
長男は大学を卒業するまであと一年、次男はアルバイトをしながら資格試験の勉強を続けている。以前ほど子供に金はかからなくなったが、完全に独立したとはいえない。真紀は過去一年分の入出金をノートへ書き出し、住宅ローンの返済予定表も横へ置いた。
浩一が毎月負担していたのは、生活費十八万円だけではなかった。住宅ローンと管理費で七万円、生命保険と子供への臨時の援助、固定資産税の積み立ても浩一の口座から出ている。月によっては、手取り三十万円のうち二十七万円近くが家族のために消えていた。
真紀は電卓の「=」を押したまま、表示された数字を見ていた。浩一の負担が大きいことは知っていたつもりだったが、毎月決まった日に振り込まれる金を、給料日に自動で開く蛇口のように扱っていた。足りないときだけ理由を尋ね、入っているときには一度も礼を言わなかった。
「朝ご飯、冷めるわよ」
芳江が焼いた塩鮭と卵焼きを運んできた。卵焼きは端が少し焦げ、切り口から葱が飛び出している。真紀が通帳を閉じると、芳江は向かいの椅子へ座った。
「浩一さん、あと七年で定年なのよね」
「そうね。役職定年なら、もっと早く給料が下がるかもしれないって言ってたわ」
「私、聞いてなかった」
「言わない浩一さんも悪いけど、聞かなかった真紀も同じくらい悪いんじゃないの」
芳江は卵焼きへ醤油を一滴落とした。息子を庇うでも娘を叱るでもなく、焦げた端から箸で食べる。真紀は塩鮭の骨を外しながら、昨日まで書いていた三つの条件を思い出した。
生活費を決めた日に入れること、怒鳴ったら話し合いを終えること、家事を分担すること。どれも必要だったが、そこには浩一が何に困り、何を必要としているかを書く欄がなかった。真紀は食後、妙へ電話をかけた。
「私、浩一さんにばかり変わってもらおうとしてた」
妙は電話の向こうですぐに慰めなかった。洗濯機が回る低い音と、食器の触れ合う音が聞こえる。真紀は通帳を見て分かった数字を、順番に説明した。
「毎月二十五万円以上、家族のために出してた。子育てもほとんど終わったのに、私は昔と同じ金額を受け取っていたの。ありがとうとも言わずに」
「それを浩一さんに話しますか」
「話す。でも、私が悪かったから、怒鳴られても我慢するという意味じゃないわ」
「それなら、真紀さん自身の言葉になっていますね」
「私も家計へいくら入れられるか、パート時間を増やせるか考える。それから、浩一さんが会社で何を背負っているのか聞きたい」
真紀は電話を切ったあと、浩一へ「今夜、二人の負担を最初から計算し直したい」と送った。以前のように、直人へ同席を頼まなかった。旅行鞄は芳江の家へ置き、通帳とノートだけを持って自宅へ向かった。
午後七時、浩一は座卓の上へ給与明細、住宅ローンの返済表、保険の証書を並べた。作業鞄の持ち手は合成皮革が剥がれ、白い糸が見えている。真紀は以前からその鞄を見ていたが、買い替えない理由を尋ねたことはなかった。
「鞄、ずいぶん傷んでるのね」
「まだ使える。来年、役職定年になるかもしれないから、余計な物は買いたくない」
「来年なの?」
「正式には決まってない。でも役職を外れたら、給料は五万円くらい下がる可能性がある」
「どうして言ってくれなかったの?」
「家でまで金の心配をさせたくなかった。それに、家族を養うのは俺の役目だと思ってた」
浩一は給与明細の手取り額を指で押さえた。定年前に若い部下へ仕事を引き継ぎ、取引先との関係も渡さなければならない。そのため飲み会やゴルフが増え、部下が失敗した日は一人ずつ食事へ連れていくこともあった。
「俺は毎月二十五万円以上を家に入れている。子供たちが小さいころから、それが自分の役目だと思ってきた。でも最近、会社の付き合いに使う金も足りなくなった。生活費を減らしたら、お前が何とかするだろうと思った」
「そこは、やっぱり間違ってる。私の収入を、相談なしに当てにしないで」
「分かってる。あの六万円は戻すべきだった」
「でも、あなたが苦しいと言えなかったことを、私は聞こうともしなかった。毎月決まった日にお金が入るのを当たり前にしていた。長い間、家族の生活を支えてくれてありがとう」
浩一は返事をせず、擦れた鞄の持ち手を親指で押した。真紀も言葉を付け足さず、自分の通帳を開く。パート収入七万五千円のうち、五万円を共同生活費へ入れ、二万五千円を自由費と予備費にする案を書いた。
「子育てが終わった今の二人に、本当に必要な生活費を計算し直したいの。あなたに十八万円を戻してもらうだけではなく、私も毎月五万円を入れる。勤務を一日増やせるか、来週、職場に相談する」
「無理に増やさなくていい。真紀も五十を過ぎてるんだから」
「無理かどうかは、勤務時間と家事を見て決める。家事を全部したまま増やすのは無理。でも二人で分ければ、週一日ならできるかもしれない」
二人は収入と支出だけでなく、勤務時間、通勤時間、家事時間も一枚の紙へ書いた。浩一は夕食後の食器洗いを週三回、土曜日の風呂掃除、自分の洗濯物を畳むことを引き受ける。真紀はパートを一日増やせた場合、増収分の半分を老後資金、残り半分を自分の自由費へ回すことにした。
「俺ばかり家事を増やされると思ってた」
「私は、私ばかりお金を要求されると思ってた。お互いに、自分の出しているものしか見ていなかったのね」
「それと、怒鳴るのは性格だから仕方ないと言ったことは訂正する。声が大きくなったら、その日はやめよう」
「ありがとう。私も、あなたが黙っただけで『納得した』と決めつけない。次の日にもう一度、話せるか確認する」
真紀は三つの条件を書いた便箋を捨てず、その下へ浩一の条件も加えた。自由費を同額で確保すること、会社の交際費を家計と個人分に分けること、定年までの収入見込みを三か月ごとに確認すること。妻が夫へ守らせる条件ではなく、二人が互いに守る六つの約束になった。
「浩一さん」
「何だ」
「定年前のラストスパート、私もともに走りたいです」
浩一はすぐには笑わなかった。給与明細を揃え、角を机へ軽く当てる。何度か口を開きかけたあと、真紀のノートへ手を置いた。
「俺と同じ速さで走らなくていい。俺も真紀と同じ速さでは家事をできない。置いていかないように、途中で声をかけ合おう」
「それなら、まず会社の人たちのことを教えて。飲み会の名前だけじゃ、誰と何をしているのか分からないもの」
浩一は、若い部下二人の名前を初めて家で話した。一人は結婚したばかりで失敗を抱え込み、もう一人は親の介護で残業できず、浩一が仕事を調整している。真紀は、飲み会の四万円の向こうに、顔も知らなかった人たちの暮らしがあることを知った。
「今度、その人たちを誘って、河川敷でバーベキューをしませんか。奥さんや家族も一緒に」
「真紀が準備するのか」
「二人で準備します。肉と道具はあなた。野菜と飲み物は私。後片づけは全員です」
「それなら誘ってみる」
二週間後、河川敷のバーベキュー場には、浩一の部下二人とその家族、真紀、浩一が集まった。浩一は炭になかなか火をつけられず、若い部下から着火剤の置き方を教わった。真紀は赤いパプリカと玉葱を切り、紙皿へ並べた。
「部長、家では何でもできる人だと思ってました」
部下の一人が笑うと、浩一は煙を避けながら首を振った。真紀が肉を焼く網へ近づこうとすると、浩一はトングを持ったまま場所を空ける。二人で同じ肉を裏返そうとして、トングの先がぶつかった。
「家では、何をするにも話し合いです。この人、大根を半月切りにするか銀杏切りにするかまで聞くんですよ」
「聞かずに切ったら、鍋に入らない大きさになったことがあるからだ」
「部長、会社でも先に聞いてくださいよ。一人で抱えて、あとから胃薬を飲むでしょう」
部下の言葉に、浩一はトングを止めた。真紀は保冷箱から麦茶を取り出し、浩一の紙コップへ注ぐ。浩一も焼けた肉を一枚取り、真紀の皿へ載せた。
夕方、全員で炭を片づけ、ゴミ袋を分けた。真紀だけが働くことも、浩一だけが費用を出すこともなかった。帰り道、二人は空になった保冷箱の持ち手を片方ずつ持った。
誰かが最初からアタリだったのではない。夫が妻を養うだけでも、妻が夫を支えるだけでもなかった。二人は定年までの七年間を、相手へ荷物を預けきらず、重くなったときには声をかけながら歩くことにした。




