第9話 くじ引きをやめた日
第9話 くじ引きをやめた日
真紀が三つの条件を書いた便箋を浩一へ渡してから、三日が過ぎた。火曜日の夕食後、二人は食器を下げずに座卓へ残し、便箋を間に置いて向かい合った。鍋には白菜と豚肉が少し残り、冷えた脂が汁の表面へ薄い膜を作っていた。
浩一は生活費を毎月二十五日までに入れる条件へ丸をつけた。家事分担についても、食器洗いを週三回、土曜日の風呂掃除、自分の洗濯物を畳むことならできると書いた。だが二つ目の「声を荒らげた場合、その日の話し合いを終了する」には、斜めの線を一本引いていた。
「これは約束できない」
「どうして?」
「怒鳴ろうと思って怒鳴ってるわけじゃない。声が大きくなるのは性格なんだから、仕方ないだろう」
浩一はそう言い、冷めた鍋の白菜を箸でつまんだ。真紀は便箋の斜線へ目を落とし、すぐには言葉を返さなかった。玄関には茶色い旅行鞄が一つ置かれ、寝間着、下着、薬、三日分の服が入っている。
「声が大きくなったら、私は話し合いをやめます。それを止めないでほしいと言っているの」
「だから、お前がいちいち逃げるから話が終わらないんだよ」
「怒鳴らないと約束できないなら、怒鳴ったあとに席を立つ権利まで奪わないでください」
「夫婦なら、最後まで話せばいいだろう」
「私も最後まで話したい。でも、あなたの声が大きくなると、話の内容ではなく、どうすれば怒鳴るのをやめてもらえるかしか考えられなくなるの」
浩一は箸を置き、椅子の背へもたれた。怒鳴ってはいなかったが、奥歯を噛むたびに頬が動いた。真紀は座卓の下で両手を組まず、便箋の端へ手のひらを置いた。
「性格なんだから仕方ない。お前だって、細かいことをいつまでも言う性格だろう」
「性格の話はしていません。私は、怒鳴られたら席を立つという行動を選びます」
「それじゃ夫婦じゃない」
「怒鳴られても座り続けることが、夫婦の条件ですか」
浩一は答えず、冷蔵庫から缶ビールを一本取ってきた。プルタブを開ける乾いた音がして、泡が縁から少しこぼれる。真紀は便箋を透明なケースへ戻し、立ち上がった。
「しばらく、母の家で暮らします」
「何だよ、急に」
「急ではありません。私は三つの条件を書いて渡しました。あなたはそのうち一つを、性格だから守れないと言った。だから、離れて暮らして考えます」
「たったそれだけで家を出るのか」
「たったそれだけではありません。生活費を相談なく減らしたこと、理由を聞いた私を怒鳴ったこと、その怒鳴り方を変えるつもりがないと言ったこと。その三つを私は一緒に考えています」
真紀は台所で自分の湯飲みを洗い、水切り籠へ伏せた。いつも使っていた桃色の箸は引き出しへ戻し、冷蔵庫に残っている食材と消費期限をメモへ書く。浩一の夕食を何日分も作り置きすることはしなかった。
玄関で旅行鞄の持ち手を伸ばすと、車輪が床へ当たって硬い音を立てた。浩一は居間から出てきたが、鞄を掴まなかった。真紀は自分の鍵を靴箱の上へ置かず、鞄の内ポケットへしまった。
「いつ戻るんだ」
「決めていません。連絡は電話ではなく、メッセージでお願いします」
「直人たちに何て言うつもりだ」
「私が決めたことを、そのまま話します」
真紀は靴を履き、旅行鞄を玄関の段差から下ろした。浩一が「勝手にしろ」と言ったが、その声は背中を追ってこなかった。廊下へ出ると、隣家の夕食らしいカレーの匂いが換気口から漂っていた。
芳江の家へ向かう前に、真紀は妙へ電話をかけた。駅前のベンチへ座り、旅行鞄を膝へ挟む。電車が高架を通過するたび、携帯電話を耳へ強く押し当てた。
「今、家を出たの。しばらく母さんのところへ行く」
妙はすぐに離婚も復縁も口にしなかった。電話の向こうでは、直人が食器を重ねる音と、テレビの天気予報が小さく聞こえている。妙は真紀が話し終えるまで、途中で質問を挟まなかった。
「分かりました。自分名義の通帳と印鑑は持っていますか」
「持ってる。通帳、印鑑、健康保険証、薬も入れた」
「携帯電話の充電器は?」
「あ、忘れた」
「駅前なら、買えますね。取りに戻りたいですか」
真紀は振り返り、浩一のいるマンションの方角を見た。戻れば、また説明を求められるかもしれない。駅前の電器店はまだ明かりがついていた。
「買う。今日は戻らない」
「分かりました。お義母さんには連絡しましたか」
「さっき電話した。布団を出して待ってるって」
「では、着いたら一度だけ連絡してください。それ以外は、明日でいいです」
「妙さんは、離婚したほうがいいと思う?」
「それを私が決めたら、浩一さんの代わりに真紀さんの暮らしを決めることになります。帰る条件も、帰らない条件も、真紀さんが選んでください」
真紀は電話を切ると、電器店で白い充電器を買った。レシートと釣り銭を自分の財布へ入れ、電車へ乗る。旅行鞄は座席の前へ置き、誰の許可も取らず、自分で行き先を決めた。
その夜、妙は冷蔵庫の前に立ち、十五年前の分担表を外した。透明テープは乾いて硬くなり、剥がすと紙の角が少し裂けた。長く貼られていた部分だけ、冷蔵庫の扉に白い四角が残った。
「捨てるの?」
直人は食後の皿を洗い、手を布巾で拭きながら尋ねた。妙は紙を半分に折らず、座卓の上へ広げた。油で黄ばんだ表には、消した文字と書き足した約束が重なっている。
「取っておく。でも、今の暮らしには合わないところが増えたでしょう」
十五年前、妙は週三日だけ働き、直人は残業の多い部署にいた。今は妙の勤務日が一日増え、直人の残業は減っている。二人とも腰や膝に以前とは違う重さを感じ、布団干しや風呂掃除を一人で続けるのが負担になっていた。
妙は新しいA4用紙を横向きに置き、料理、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出しと書いた。直人はその横へ、かかる時間と回数を書く欄を作った。名前を先に書かず、今の生活で何が必要かを一つずつ確認した。
「風呂掃除は、僕が毎日やるよ。妙は腰を曲げると痛いだろう」
「その代わり、朝食は私が作る。直人さんは朝、血圧の薬を飲んでからでないと動きにくいでしょう」
「土曜日の買い物は一緒に行く?」
「重い物を買う週だけね。毎週二人で行く必要はないわ」
「洗濯は、干す人と畳む人を分ける?」
「その日の時間があるほうが干して、自分の服は自分で畳む。それが一番簡単」
二人は鉛筆で書き、合わない項目はすぐに消した。十五年前の紙を正解として写すのではなく、今の体と時間に合わせて決め直す。新しい分担表には、誰がよい夫で誰がよい妻かを測る欄はなかった。
「真紀さん、帰ると思う?」
「分からない。帰るかもしれないし、そのまま別の家を探すかもしれない」
「姉さんは、夫選びを外したと思ってるのかな」
「結婚をくじ引きにしたら、外れを引いた人は我慢するしかなくなるでしょう。真紀さんは今日、くじの結果を受け入れるのをやめたのよ」
妙は新しい分担表を、冷蔵庫の白く残った四角へ貼った。古い紙は十五年分の家計簿を入れた箱へしまい、捨てずに残した。昔の約束を否定するためではなく、約束は暮らしに合わせて選び直せると覚えておくためだった。
午後十時を過ぎたころ、真紀から「母さんの家に着きました」とメッセージが届いた。添えられた写真には、芳江が用意した花柄の布団と、枕元の白い充電器が写っている。妙は「おやすみなさい」とだけ返し、帰る日を尋ねなかった。
冷蔵庫には、新しい紙が真っすぐ貼られていた。十五年前の正解も、夫を選んだ日の結果も、今日から先の暮らしを縛るくじではなかった。




