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第53話:断絶結界の古龍と、優美なる舞踏

魔王領の平穏は、時として予期せぬ外部からの災厄によって試される。だが、絶対的なシステムと最先端のテクノロジーによって統べるこの地において、伝説に謳われる古龍や強大な存在の襲来など、為政者たちにとって焦燥を抱くほどの出来事ではなかった。圧倒的な格差を見せつけるその舞台の幕が、今、全住民の眼差しを集める中で静かに開こうとしていた。

魔王領の南方の空を、漆黒の暗雲が分厚く覆い尽くしていた。暴力的な豪雨と幾筋もの稲妻が激しく大地を打ち付けている。


その荒れ狂う上空を旋回する、一匹の巨大な龍の姿があった……。それは水帝龍 ‘ネレエイア’。アコレリア、テラティア、イグニアら魔族の領主たちに匹敵する、伝説級の存在であった。


この世の終わりかと思わせるほどの災害を頭上に見据え、魔族の民や兵士たちは恐怖のあまり膝を屈し、その場に崩れ落ちた。巨大な龍は喉元に莫大な魔力を集め、すべてを跡形もなく吹き飛ばす『ドラゴンブレス』を解き放とうとしていたのである。


だが、その時――。


空間が歪み、激しい明滅が走った。


ふわり、と。


ネレエイアの巨体が、何の前触れもなく上空から跡形もなく消え去ったのだ。猛威を振るっていた豪雨は一瞬で霧散し、まるで何事もなかったかのように空はすっきりと晴れ渡った。


「な……一体、何が起きた!?」


ネレエイアは極限の動揺と混乱の中にあった。今やそこは、果ての見えない奇妙な空間だった。ただ周囲には、淡いピンク色の光の粒子がキラキラと妖しく舞い散っているばかりである。


(なんだここは?! 何かの結界か……っ?!)


古龍は警戒心を露わにし、心の中でそう叫んだ。


何とか魔力を奮い起こしてスキルを使おうとしたものの、微塵も発動することができない。かつて感じたことのない圧倒的な無力感が全身を駆け抜け、指一本動かすことすら困難だった。それどころか、急激な気だるさに襲われ、その場で泥のように眠り込みたいという衝動に駆られていく。


抗いきれず意識が遠のきかけたその時、ハイヒールが奏でる乾いた足音が、静かに、そして着実に近づいてきた。


カツッ……カツッ……カツッ……。


目の前に現れたのは、究極の優美さを纏った一人の少女だった。頭部には龍の角に似た美しい突起があり、純白の長髪、真っ黒な長い爪、そして妖艶なオッドアイの瞳。全身のシルエットを際立たせる黒地に金の縁取りが入ったボディスーツを身に纏っている。


顔立ちは息を呑むほど愛らしいというのに、彼女から放たれる気配とオーラは、これまで人生で遭遇したいかなる存在よりも恐ろしいものだった。


ネレエイアは最後の力を振り絞って爪を立てようとしたが、肉体は一ミリたりとも動かない。結局、恐怖に心を泣き叫ばせながらも、まるでリラックスしているかのような無防備な姿勢で地面に伏せるしかなかった。


その巨大な龍の頭上には、淡く発光するシステムの文字がぽっかりと浮いていた。【少々お待ちください】 (『ファースト・プライオリティ』のスキル効果によるものである)


「リン……『ファースト・プライオリティ』、少し変わったみたいだね」


二人目のリンが、ぽつりと呟いた。


ネレエイアはただまばたきを繰り返すことしかできず、目の前で「誰か」――自分には見えない存在と会話している少女を、なす術もなく見つめるばかりだった。


---


その頃、結界の外の世界では――。


ズシャアッ!


魔王リンの領地上空に、突如として巨大なホログラムスクリーンが出現した。女神の固有結界が持つファンシーな中継効果により、結界内部で起きているすべての出来事が、住民や配下の者たちの目にハッキリと映し出されていたのである。


普段は立ち入りが制限されている玉座の間でさえ、少し小さめの映像が全員の目の前にふわりと浮かび上がっていた。


スクリーンを凝視しながら、レオンはゴクリと大きな生唾を飲み込んだ……。かつて魔王城へと攻め入った際、自分が全く同じ目に遭ったときの記憶が蘇る。


一方、エルフの女王・シルフィリアは、驚愕に瞳を大きく見開いていた。彼女にとって『二人目のリン』が自ら前線に出て戦う姿を見るのは、これが初めてだったからである。


では、本物の魔王リン本人はどうしていたかというと……?

何食わぬ顔で雑誌を取り出し、優雅にページをめくって読書に浸っていた。かたや女神カシャラは、無関心そうにパリパリとお菓子を頬張っている。


シルフィリアは二人の様子を交互にチラリと見やり、感嘆と呆れが入り混じった思いを心の中で呟いた。

(なんでそんなに気楽でいられるんですか……! 相手は世界を滅ぼしかねない古龍なんですよ!?)


---


場面は再び、断絶結界の内部へ。


カシャラから「殺してはダメ」と念を押されていたことを思い出した二人目のリンは、ここで一つ作戦を思いついた。


――ピキインッ!


彼女は自身のパッシブスキルをすべて強制終了させ、さらに固有結界の強制効果をも解除した。敵のステータス低下もスキル封印もしない、ただの殺菌されない普通の「断絶空間」だけが残された。


「グオォォォッ!」


束縛から解放されたネレエイアは、ここぞとばかりに勢いづいた! 巨大な龍の爪を振り上げ、二人目のリンめがけて全力で叩きつける!


――ガシッ!


だが、次の瞬間、彼女は再び限界を超えるほどの衝撃を受けることになった。二人目のリンが片手でひょいと手を伸ばし、その凄まじい一撃をまるで羽毛でも受け止めるかのように軽々と受け止めてしまったのだから。


慌てて後退して距離を取った古龍は、大きく息を吸い込み、全力の『ドラゴンブレス』をリンに向けて叩き込んだ! 凄まじい爆風と轟音が辺りを包み込む。しかし、煙が晴れたあとも、二人目のリンは最初と同じ位置に微動だにせず立っていた。無傷のまま。


「とっておきだぁっ!」


古龍は再び魔力をかき集め、目の前に数え切れないほどの巨大な青い魔法陣を展開した。機関銃すら超越する連射速度で、無数の水弾がリンへと降り注ぐ。


だが、リンはその弾幕をまるで木の葉のように軽やかに舞い踊りながらかわしていく。あらゆる方向から迫る魔法弾を紙一重で回避するその身のこなしは、まるで瞬間移動のようだったが、実際は純粋な身体能力だけで走り抜けているだけだった。


---


外の世界でホログラム中継を見守っていた人々の間から、どよめきと感嘆の声が漏れ、誰もが口をあんぐりと開けて固まっていた。


レオンは、かつて自身や冒険者たちが水帝龍イグニア(※ネレエイア)を相手に命がけで死闘を繰り広げた記憶を思い出していた……。あの時は血眼になってボロボロになったというのに、目の前の少女は古龍の攻撃をまるでお遊戯でも相手にするかのように余裕で躱している。


(実力のステージが違いすぎる……。俺ももっと死ぬ気で修行し直さないとダメだな)

レオンは胸の奥で闘志を燃やした。


シルフィリアも言葉を失うほど驚愕しており、傍らに控えていたガスカルは胸元にそっと手を当て、深い感動を滲ませながら呟いた。


「はぁ……なんとありがたい光景……。このような優美なる戦闘を見られるとは、小生、生きていて本当に良かったでございます」


---


断絶結界の中での戦いはなおも続いた。ネレエイアが休む間もなく猛攻を浴びせ続ける一方、二人目のリンは一発の反撃すら繰り出すことなく、ひたすら身をかわし続けていた。


通常の攻撃が一切通用しないと悟ったネレエイアは、攻め手を切り替え、攻撃と並行して大規模な上級呪文の詠唱を始めた。足元の地面に、巨大な青い魔法陣が眩い光を放ちながら浮かび上がる。


(あの女の動きがいくら素早くても……この広範囲の殲滅魔魔法から逃れることはできまいっ!)

ネレエイアは傲慢にほくそ笑んだ。


詠唱が完了した瞬間、足元から凄まじい水量の巨大津波が隆起し、中央に佇むリンめがけて一気に押し寄せる!


だが、荒れ狂う奔流がその身を飲み込もうとしたコンマ数秒前――。

少女の姿がかき消えた。そして、次の瞬間には、すでにネレエイアの鼻先へと肉薄していたのだ。


「遊ぶのはこれくらいにしておきますね」


そう告げると、二人目のリンは優しく手を伸ばし、ネレエイアの頭頂部を軽く「ポンッ」と叩いた。


――ドオオオッ!!


たったそれだけの、まるで子供をあやすような軽い一撃だった。

だが、その瞬間。水帝龍ネレエイアの意識は完全に暗転した。圧倒的な巨体がガクンと力を失い、そのまま地面へ音を立てて崩れ落ち、二度と動かなくなったのだった。

静まり返った結界の中で、リンは倒れた古龍を横目に小さく息をついた。外の世界では、あまりの結末に誰もが言葉を忘れていた。


こうして、魔王領の空に突如として現れた災厄は、一人の少女の手によって、あまりにも鮮やかで、あまりにも優美に幕を閉じたのであった。

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