リア、それは借り物の名前
「なんで……っ……」
握り締めた拳が小さく震える。
絞り出すように漏れた声には、抑えきれない苛立ちが混じっていた。
「なんで!よりにもよって!女の格好なんだよ!?」
アステルとノクスによって着替えさせられた後。
自分の姿を姿見で確認して、怒りが一気に爆発した。
姿見の前に立ったまま、俺は自分の姿を睨みつける。
鏡の中のそれは、どう見ても“俺”ではない何かだった。
いや、正確には俺なんだが、その事実が一番腹立たしい。
今思えば、気付くべきだったのだ。
ひとりで着替えるには手間がかかる衣装だと言われた時点で。
わざわざそう言われた意味を、もう少し疑うべきだった。
これは、明らかに貴族令嬢用のドレスだ。
身体の線を隠すような深い黒。
動きやすさを重視したように、スカートにはさりげないスリットが入っている。
全体的にシンプルだが、あちこちに繊細なレースが施されており、上品な印象を与えていた。
首元には契約の紋様を覆い隠すほどの、黒いレースチョーカーが付けられた。
髪の上半分だけを緩く纏められ、結び目には控えめな装飾品が添えられる。
そこまで鍛え上げられた体格では無い所為で、中性的な令嬢にも見えてしまう事実が、余計に苛立ちを煽った。
靴だけは、いざという時に走れないのは困るからと、黒いブーツを履かされた。
遠目に見れば、違和感の無いようにも見えなくは無いが、明らかに走ることを前提とした作りだ。
「えー?だってその首の契約紋隠すなら、女性物のチョーカー付けた方が誤魔化しやすいじゃん?」
くっくっと笑いを堪える様子もなく、ノクスが肩を揺らす。
目尻には涙まで滲んでいて、完全に楽しんでいる顔だった。
そんな彼を恨めし気に、キッと睨み付けた。
「ジェイクからあの化粧品借りれば良かっただろ!?確かアルビオンで保護した筈だろうが!?」
声を荒げると、ノクスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「それは~……」
視線を泳がせながら、気まずそうに頬を掻く。
なにか言いづらいことでも起きたかと思い、つい身構えてしまう。
しかし、そんな俺の心配を余所に、
「絶対こっちの方が面白そうだったから!」
にこっと、何事もなかったかのように笑みを浮かべた。
「おまっ……!?面白そうだったから、じゃねぇ!?」
思わず声が裏返ってしまった。
信じられない。
それだけの理由で女装させられたのか。
だが当の本人は、まったく悪びれた様子もない。
くすくすと肩を揺らしながら、楽しそうにこちらを眺めているだけだ。
「いやぁ、ほら。こういうのって準備段階が一番楽しいじゃん?」
「最悪の楽しみ方してんじゃねぇよ!?」
「安心してよ、お坊ちゃん。ちゃんと似合うようにはしてるよぉ?」
「慰めになってねぇ!」
言い返す声が少し裏返る。
ノクスはそれすら面白いらしく、肩を竦めてくっくっと喉を鳴らした。
「そんな怒らないでよ。ほら?ちゃんとお坊ちゃんの身を守るためでもあるんだからさぁ」
自分の身を守るため。
そう言われてしまえば何も言えなくなる。
ただ聞き分け無く駄々をこねているようにも思えてきた。
仕方ないとすら考えかけたその時。
次に掛けられた言葉でその考えが吹き飛んだ。
「……まぁ、半分くらいは趣味だけど?」
「半分もある時点で終わってんだよ!?」
間髪入れずに突っ込むと、ノクスはさらに目を細めた。
楽しそう、というより確信犯のそれだ。
こいつは本当に、人の反応を楽しむことに関しては一切の躊躇が無い。
鏡の中の自分が、視界の端でちらつく。
見なきゃいいのに、視線が勝手に吸い寄せられる。
黒いドレス、首元のチョーカー、整えられ纏められた髪。
そのすべてがそう見えるように仕立て上げられていることが理解出来てしまうから、余計に落ち着かない。
鏡の中の自分と目が合いそうになるたび、妙なむず痒さが胸の奥を走った。
そんな俺の様子を見ながら、ノクスはさらに楽しそうに目を細めた。
ふと、隣から視線を感じた。
気配に引かれるように顔を向けると、ティアがじーっとこちらを見つめていた。
「……な、なんだよ」
嫌な予感がして、思わず身構えながら問い返す。
するとティアは小さく首を傾げたまま、少し考えるように間を置いてから言葉を発した。
「……お姉ちゃん?」
「っ……、やめてくれ……」
即座に顔を背ける。
耳まで一気に熱くなるのが自分でも分かって、余計に居たたまれない。
ノクスのときとは違う。
あれはただの悪ふざけだった。
からかいとして処理できる余地があったからこそ、容赦無く怒鳴り散らし言い返すことが出来た。
だが、これは違う。
ティアはただ見たまま、思ったままを口にしただけだ。
そこに悪意も意図もない。
その無垢さが、逆に一番効く。
背後からは、案の定ノクスがぶはっと吹き出した声が耳に入る。
「やっば……っ……、黒ユリちゃんそれは、ッ、最高過ぎるでしょ……!」
肩を震わせながら、ノクスは片手で口元を押さえている。
もう片方の腕はお腹に回されていて、完全に笑いを堪えきれていない様子だった。
目尻にはうっすら涙すら浮かんでいる。
「笑うな!?」
反射的に叫ぶが、その声すら届いていないのか、ノクスの肩の震えはむしろ強くなるばかりだ。
完全にツボに入っているらしく、言葉にならない笑いを漏らしている。
「だってさぁ……、お姉ちゃんって……っ……」
言いかけて、また吹き出す。
もはや言葉として成立していない。
その一方で、言い出した本人であるティアは、きょとんとしたまま、こちらを見ていた。
何がそんなにおかしいのか、本当に分かっていない顔だ。
「……だめだった?」
悪意の欠片すら無い純粋すぎる声。
それがまた追い打ちのように刺さる。
言葉が詰まる。
否定すればいいのか。訂正すればいいのか。怒るべきなのか。
それすらも判断がつかない。
「……っ」
どうにかして欲しくて、助けを求めるように周囲を見渡す。
クローディアスは、いつも通りの真面目な顔のまま、何も言わずに状況を見ているだけだった。
判断を保留しているというより、そもそも口を挟む気配がない。
セレナはといえば、珍しく口元を両手で覆っていて、顔を背けたまま肩を小さく震わせている。
声こそ出していないが、完全に笑いを耐えきれていない様子だった。
そしてアステルに至っては、むしろ不思議そうな顔でこちらを見ている。
「何か問題が?」とでも言いたげな、あまりにも自然な表情。
……駄目だ。
誰も止める気配がない。
助け舟も出ない。
この場に味方がいないと、嫌でも認識させられた。
「無理……っ……ほんと無理……」
ノクスはなおも笑いを引きずりながら、途切れ途切れに声を漏らしていた。
「レイン様……、っと、流石にこの名前で呼ぶのはマズイですよね」
クローディアスが何かを言い掛ける。
けれどすぐに、本名のまま呼ぶのはマズいと思い至ったらしく、言い直した。
「でしたら、ティアの名前を借りればいいんじゃないですか?」
どうしようか、と悩むクローディアスに助け舟を出すように。
セレナが口を挟んだ。
普段は長いからと『ティア』と縮めて呼んでいる名前。
フリティラリア。
それがティアのフルネームだ。
「確かに。でしたら、『リア』はどうですか?」
思い付いたままに、クローディアスが提案する。
もう拒否権なんて残ってないだろうと、
「……それでいいんじゃないか?」
と、半ば投げやりになりながら、返事を返した。
「んー、ますます姉妹感が強くなった気がするかもぉ?」
「わざわざ言わないでくれ……」
力無く、肩を落としながら返す。
突っ込むのも段々と疲れてきた。
ティアはというと、まだじっとこちらを見ている。
「リア……?」
小さく確かめるように口にされると、妙に落ち着かない気分になる。
「っ……」
無垢な表情で呼ばれると、どうにも落ち着かない。
だからと言って、止めるのも違う気がして、言葉を詰まらせてしまった。
「ほら、遊んでないでそろそろ行くぞ」
アステルの低い声が、その場の空気をすっと切り替えた。
その声を合図に、ティアが片手をあげて「はーい」と返事をする。
クローディアスも静かに姿勢を正した。




