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呪華ノ鎖  作者: 雪ねこ
第三章
89/112

遅い説明

牢屋から連れ出された後。

真っ先に連れて行かれた先は、浴室だった。


地下牢に放り込まれてから、まともに身体を洗う機会など一度も無かった。

今の自分がどれほど汚れているのかくらい、流石に理解している。


肌には乾いた血と汚れがこびりつき、髪も絡まっていた。


鼻につくのは、染み付いた鉄の臭い。

地下に満ちていた湿気と埃。

そして長く閉じ込められていたことで染み付いた濃い体臭。


私が歩くたび、裸足の裏にこびりついた土や汚れが、清潔な絨毯を黒く汚していく。


だからこそ、浴室に連れて行かれたのは当然の流れなのだろう。


個室に備え付けられた小さな浴室。

広くはないが、地下牢とは比べものにならないほど清潔で、湯気の立ち込める空間には石鹸の香りまで漂っていた。


中に入ったのは、私とノクスの2人だけ。


アステルは扉の外で待機しているらしい。


それでも完全に自由にするつもりはないのだろう。


手首には、相変わらず手枷が嵌められたままだった。

冷たい金属の感触が肌へ食い込んでいる。


念には念を、ということなのかもしれない。


逃げる可能性。

暴れる可能性。

あるいは、自害しようとする可能性。


そのすべてを警戒されているのだろう。


当然だ。


実際、少し前まで私はずっとそうしていたのだから。


服を脱がされる感覚に、思わず身体が強張る。

異性に裸を見られるのは、やはり少し気恥ずかしい。


今までそんなことを意識する余裕すら無かったのに、不思議とそういう感覚だけは残っていたことに、少しだけ驚いてしまう。


けれど、我が儘を言える立場ではない。

抵抗したところで状況が変わるわけがないと分かっていた。

だからこそ、黙って従うだけにした。


ノクス自身も、やけに袖の広い上着を脱ぎ捨て、その下に着ていた服の袖まで肘あたりまで捲り上げていた。


確かに、あの上着のままではすぐ濡れてしまうだろう。


白い腕が露わになる。


男性にしては細い。

骨ばって見えるほど華奢なのに、その腕にはしなやかな筋肉が付いている。

無駄を削ぎ落したような身体つきだった。


改めて見ると、妙な男だった。


いつだってだるそうで。

気の抜けた喋り方をして。

立ち姿すら気怠げなのに、時折ひどく鋭い目をする。


その落差が、不気味だった。


私は警戒したまま、無意識にその動きを目で追っていた。


するとノクスは、そんな視線に気付いたのか、ふっと笑った。


「そんな警戒しなくてもいいのに」


柔らかな声で言われた。


けれど次の瞬間。

不意に、冷たい指先が頬へ触れた。


びくり、と身体が跳ねる。

反射的に顔を背けようとしてしまう。


そんな私を見て、ノクスは小さく目を丸くした。


「あー、驚かせちゃった?」


困ったように笑いながら、彼は軽く肩を竦めた。


「ごめんごめん。そんな怯えなくても、ほんとに取って食べたりしないってぇ」


くすくすと笑いながら、指先についた汚れへ視線を落とす。

そこには、乾いた血が黒くこびりついていた。


ノクスはそれをじっと見つめたあと、ふぅん、と小さく息を漏らす。


嫌悪感は無い。

気持ち悪がる様子もない。


ただ、“汚れているな”と、そこにある事実を確認しているだけの目だった。


指先を軽く擦り合わせ、汚れの感触を確かめるようにしてから、改めてこちらを見下ろす。


金色の瞳が、静かに細められる。

全身を値踏みするような視線。


その態度が、かえって妙な不気味さを帯びていた。


これだけ汚れているのだ。

普通なら、もっと顔をしかめるとか、露骨に距離を取るとか、そういう反応をするだろう。


けれどこの男は違う。

まるで雨に濡れた野良ネコでも見ているみたいな顔をしていた。


その視線があまりにも居心地が悪くて、

「……そんな見ないで」

と、気付けば小さくそう零していた。


ノクスは一瞬きょとんとした顔をして、それから「あぁ」と気付いたように笑う。


「あはは、ごめんごめん。だって思った以上にボロボロなんだもん」


悪気のない口調だった。


だからこそ、余計に反応に困る。


怒られているわけじゃない。

馬鹿にされている感じもしない。


ただ本当に、見たままを口にしているだけ。


その無遠慮さに、逆にどう返せばいいのか分からなかった。


「うーん、これやっぱり邪魔だなぁ」


ノクスが、私の手首へ嵌められた手枷を見ながら小さく呟く。

指先で軽くつつき、そのまま少し考え込むように首を傾げた。


それから何か思いついたように、ぱっと顔を上げると、浴室の扉の方へ視線を向けた。


「アステルー!鍵ちょーだい!」


直後、扉の向こうから即座に怒声が返ってくる。


「却下だ馬鹿者!!」


あまりにも食い気味な拒否だった。


ノクスは「えぇー……?」と露骨に不満そうな声を出す。


「いいじゃん別に~」

「良くない!おまえは危機感というものを持て!」

「あるよぉ?一応」

「その“一応”が信用出来んと言っている!」


扉越しに交わされる言い争いが、狭い浴室へ反響する。

湯気の立ち込める空間に、不毛なやり取りだけが響いていた。


私はその会話をぼんやり聞きながら、静かに視線を落とす。


(……この男はいったい、何を考えているのだろうか)


理解が出来なかった。


隙を見せれば、いつ自害を図るか分からない。

実際、地下では何度もそうしていた。


なのに、この男はあまりにも呑気だ。


危険物を扱っている自覚が、本当にあるのか疑いたくなるほどに。


ノクスは不満そうに頬を膨らませたまま、再びこちらへ向き直る。


「だって洗いづらいじゃんねぇ」


そう言いながら、私の手首の枷を軽く揺らした。

金属が触れ合い、じゃらりと乾いた音が響く。





「はいはい、暴れないでねぇ~」


ノクスが声を掛けながら、まるで子供でも扱うような手付きでお湯を掛けてくる。

温かい湯が頭から流れ落ち、こびりついていた汚れをゆっくりと溶かしていった。


洗われ、流され、また洗われる。


最初に流れ落ちた水は、黒とも茶色ともつかない酷い色をしていた。


地下の埃。

乾いた血。

染み付いた汚れ。


長い時間積み重なっていたものが、お湯と一緒に流れていく。


何度も繰り返しているうちに、ようやく流れる水が透明になり始めた。


それを確認すると、ノクスは「よし」と小さく呟く。


その後、そのまま隣に置かれていた猫足のバスタブへと入れられた。

浴槽の中にはたっぷりとお湯が張られていて、身体が沈んだ瞬間、じんわりと熱が広がる。

冷え切っていた身体が、ゆっくりとほどけていくようだった。


湯気が、ゆらゆらと白く立ち昇っている。


ぼんやりとその揺らめきを眺めながら、私は浴槽の中で膝を抱え込んだ。


温かい。


ただ、それだけのことなのに、妙に落ち着かない。

こんなものに触れたのは初めてだった。


生まれてからずっと、触れてきたのは冷たい空気ばかり。

夜風も、土も、地下牢の床も。


身体を包むものはいつだって冷たく、硬く、痛みを伴うものだった。


だからこそ、この温かさはあまりにも新鮮で、居心地が悪い。


「んー……、やっぱ綺麗になると全然違うねぇ」


浴槽の縁に腕を乗せながら、ノクスが呑気に声を漏らす。

金色の目が細められ、こちらを眺めている。


「女の子だからフーシャ辺りに頼めば良かったかもしれないんだけど。あんな胡散臭いなりでも女の子だし」


そう言いながら、指先で頬を掻いた。


知らない名前が出されたことで、こちらが困惑する前に気遣ったのだろうか。

すぐに説明をするように言葉を続けた。


「あ、フーシャってのはキミを連れて来た子ね。覚えてる?真っ白い外套を着込んだ子。主に捕縛を担当してくれてるんだけど」


そこまで説明されて、あぁ、と腑に落ちた。


自害しようとしていたところを邪魔した、あの白装束。


私が剣を首筋へ当てた直後。

どこからともなく蔦を伸ばし、私の腕へ絡み付かせた人物。

重い剣を落とさせ、そのまま無理やり拘束した存在。


フードを深く被り、全身を白い外套で覆っていたせいで、身体の線どころか顔すらまともに分からなかった。

だからこそ、相手が男か女かなんて考えたこともなかった。


女性だったのか、と。

ぼんやりした頭でそんなことを考える。


あの時はそれどころじゃなかった。


死のうとして。失敗して。暴れて。叫んで。

ただ、それだけで精一杯だった。


「あいにく今、出払ってるんだよねぇ」


ノクスは困ったように笑いながら、肩を竦めた。

申し訳ない、というよりも、“まぁ仕方ないよねぇ”と言いたげに。


「メイドさんもいるっちゃいるんだけど、無闇にキミたちに近付けさせられないし」


そこまで言ってから、ノクスはへらりと笑った。


「だから、ボクで我慢してねー」


思わずじとっと、冷めた視線を向けてしまった。


(そういうことは、最初に説明するべきものではないだろうか)


散々洗い終わった後に言われても遅い。

今さら「本当は別の女性に任せる予定だった」などと言われたところで、どう反応しろというのか。


そんなこちらの視線に気付いているのかいないのか。


ノクスは「ん?」とでも言いたげに首を傾げている。

その呑気そうな顔が、余計に腹立たしかった。

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