遅い説明
牢屋から連れ出された後。
真っ先に連れて行かれた先は、浴室だった。
地下牢に放り込まれてから、まともに身体を洗う機会など一度も無かった。
今の自分がどれほど汚れているのかくらい、流石に理解している。
肌には乾いた血と汚れがこびりつき、髪も絡まっていた。
鼻につくのは、染み付いた鉄の臭い。
地下に満ちていた湿気と埃。
そして長く閉じ込められていたことで染み付いた濃い体臭。
私が歩くたび、裸足の裏にこびりついた土や汚れが、清潔な絨毯を黒く汚していく。
だからこそ、浴室に連れて行かれたのは当然の流れなのだろう。
個室に備え付けられた小さな浴室。
広くはないが、地下牢とは比べものにならないほど清潔で、湯気の立ち込める空間には石鹸の香りまで漂っていた。
中に入ったのは、私とノクスの2人だけ。
アステルは扉の外で待機しているらしい。
それでも完全に自由にするつもりはないのだろう。
手首には、相変わらず手枷が嵌められたままだった。
冷たい金属の感触が肌へ食い込んでいる。
念には念を、ということなのかもしれない。
逃げる可能性。
暴れる可能性。
あるいは、自害しようとする可能性。
そのすべてを警戒されているのだろう。
当然だ。
実際、少し前まで私はずっとそうしていたのだから。
服を脱がされる感覚に、思わず身体が強張る。
異性に裸を見られるのは、やはり少し気恥ずかしい。
今までそんなことを意識する余裕すら無かったのに、不思議とそういう感覚だけは残っていたことに、少しだけ驚いてしまう。
けれど、我が儘を言える立場ではない。
抵抗したところで状況が変わるわけがないと分かっていた。
だからこそ、黙って従うだけにした。
ノクス自身も、やけに袖の広い上着を脱ぎ捨て、その下に着ていた服の袖まで肘あたりまで捲り上げていた。
確かに、あの上着のままではすぐ濡れてしまうだろう。
白い腕が露わになる。
男性にしては細い。
骨ばって見えるほど華奢なのに、その腕にはしなやかな筋肉が付いている。
無駄を削ぎ落したような身体つきだった。
改めて見ると、妙な男だった。
いつだってだるそうで。
気の抜けた喋り方をして。
立ち姿すら気怠げなのに、時折ひどく鋭い目をする。
その落差が、不気味だった。
私は警戒したまま、無意識にその動きを目で追っていた。
するとノクスは、そんな視線に気付いたのか、ふっと笑った。
「そんな警戒しなくてもいいのに」
柔らかな声で言われた。
けれど次の瞬間。
不意に、冷たい指先が頬へ触れた。
びくり、と身体が跳ねる。
反射的に顔を背けようとしてしまう。
そんな私を見て、ノクスは小さく目を丸くした。
「あー、驚かせちゃった?」
困ったように笑いながら、彼は軽く肩を竦めた。
「ごめんごめん。そんな怯えなくても、ほんとに取って食べたりしないってぇ」
くすくすと笑いながら、指先についた汚れへ視線を落とす。
そこには、乾いた血が黒くこびりついていた。
ノクスはそれをじっと見つめたあと、ふぅん、と小さく息を漏らす。
嫌悪感は無い。
気持ち悪がる様子もない。
ただ、“汚れているな”と、そこにある事実を確認しているだけの目だった。
指先を軽く擦り合わせ、汚れの感触を確かめるようにしてから、改めてこちらを見下ろす。
金色の瞳が、静かに細められる。
全身を値踏みするような視線。
その態度が、かえって妙な不気味さを帯びていた。
これだけ汚れているのだ。
普通なら、もっと顔をしかめるとか、露骨に距離を取るとか、そういう反応をするだろう。
けれどこの男は違う。
まるで雨に濡れた野良ネコでも見ているみたいな顔をしていた。
その視線があまりにも居心地が悪くて、
「……そんな見ないで」
と、気付けば小さくそう零していた。
ノクスは一瞬きょとんとした顔をして、それから「あぁ」と気付いたように笑う。
「あはは、ごめんごめん。だって思った以上にボロボロなんだもん」
悪気のない口調だった。
だからこそ、余計に反応に困る。
怒られているわけじゃない。
馬鹿にされている感じもしない。
ただ本当に、見たままを口にしているだけ。
その無遠慮さに、逆にどう返せばいいのか分からなかった。
「うーん、これやっぱり邪魔だなぁ」
ノクスが、私の手首へ嵌められた手枷を見ながら小さく呟く。
指先で軽くつつき、そのまま少し考え込むように首を傾げた。
それから何か思いついたように、ぱっと顔を上げると、浴室の扉の方へ視線を向けた。
「アステルー!鍵ちょーだい!」
直後、扉の向こうから即座に怒声が返ってくる。
「却下だ馬鹿者!!」
あまりにも食い気味な拒否だった。
ノクスは「えぇー……?」と露骨に不満そうな声を出す。
「いいじゃん別に~」
「良くない!おまえは危機感というものを持て!」
「あるよぉ?一応」
「その“一応”が信用出来んと言っている!」
扉越しに交わされる言い争いが、狭い浴室へ反響する。
湯気の立ち込める空間に、不毛なやり取りだけが響いていた。
私はその会話をぼんやり聞きながら、静かに視線を落とす。
(……この男はいったい、何を考えているのだろうか)
理解が出来なかった。
隙を見せれば、いつ自害を図るか分からない。
実際、地下では何度もそうしていた。
なのに、この男はあまりにも呑気だ。
危険物を扱っている自覚が、本当にあるのか疑いたくなるほどに。
ノクスは不満そうに頬を膨らませたまま、再びこちらへ向き直る。
「だって洗いづらいじゃんねぇ」
そう言いながら、私の手首の枷を軽く揺らした。
金属が触れ合い、じゃらりと乾いた音が響く。
「はいはい、暴れないでねぇ~」
ノクスが声を掛けながら、まるで子供でも扱うような手付きでお湯を掛けてくる。
温かい湯が頭から流れ落ち、こびりついていた汚れをゆっくりと溶かしていった。
洗われ、流され、また洗われる。
最初に流れ落ちた水は、黒とも茶色ともつかない酷い色をしていた。
地下の埃。
乾いた血。
染み付いた汚れ。
長い時間積み重なっていたものが、お湯と一緒に流れていく。
何度も繰り返しているうちに、ようやく流れる水が透明になり始めた。
それを確認すると、ノクスは「よし」と小さく呟く。
その後、そのまま隣に置かれていた猫足のバスタブへと入れられた。
浴槽の中にはたっぷりとお湯が張られていて、身体が沈んだ瞬間、じんわりと熱が広がる。
冷え切っていた身体が、ゆっくりとほどけていくようだった。
湯気が、ゆらゆらと白く立ち昇っている。
ぼんやりとその揺らめきを眺めながら、私は浴槽の中で膝を抱え込んだ。
温かい。
ただ、それだけのことなのに、妙に落ち着かない。
こんなものに触れたのは初めてだった。
生まれてからずっと、触れてきたのは冷たい空気ばかり。
夜風も、土も、地下牢の床も。
身体を包むものはいつだって冷たく、硬く、痛みを伴うものだった。
だからこそ、この温かさはあまりにも新鮮で、居心地が悪い。
「んー……、やっぱ綺麗になると全然違うねぇ」
浴槽の縁に腕を乗せながら、ノクスが呑気に声を漏らす。
金色の目が細められ、こちらを眺めている。
「女の子だからフーシャ辺りに頼めば良かったかもしれないんだけど。あんな胡散臭いなりでも女の子だし」
そう言いながら、指先で頬を掻いた。
知らない名前が出されたことで、こちらが困惑する前に気遣ったのだろうか。
すぐに説明をするように言葉を続けた。
「あ、フーシャってのはキミを連れて来た子ね。覚えてる?真っ白い外套を着込んだ子。主に捕縛を担当してくれてるんだけど」
そこまで説明されて、あぁ、と腑に落ちた。
自害しようとしていたところを邪魔した、あの白装束。
私が剣を首筋へ当てた直後。
どこからともなく蔦を伸ばし、私の腕へ絡み付かせた人物。
重い剣を落とさせ、そのまま無理やり拘束した存在。
フードを深く被り、全身を白い外套で覆っていたせいで、身体の線どころか顔すらまともに分からなかった。
だからこそ、相手が男か女かなんて考えたこともなかった。
女性だったのか、と。
ぼんやりした頭でそんなことを考える。
あの時はそれどころじゃなかった。
死のうとして。失敗して。暴れて。叫んで。
ただ、それだけで精一杯だった。
「あいにく今、出払ってるんだよねぇ」
ノクスは困ったように笑いながら、肩を竦めた。
申し訳ない、というよりも、“まぁ仕方ないよねぇ”と言いたげに。
「メイドさんもいるっちゃいるんだけど、無闇にキミたちに近付けさせられないし」
そこまで言ってから、ノクスはへらりと笑った。
「だから、ボクで我慢してねー」
思わずじとっと、冷めた視線を向けてしまった。
(そういうことは、最初に説明するべきものではないだろうか)
散々洗い終わった後に言われても遅い。
今さら「本当は別の女性に任せる予定だった」などと言われたところで、どう反応しろというのか。
そんなこちらの視線に気付いているのかいないのか。
ノクスは「ん?」とでも言いたげに首を傾げている。
その呑気そうな顔が、余計に腹立たしかった。




