冷たい地下牢で
連れて来られた先は、石壁に囲まれた薄暗い地下だった。
湿った空気が肌にまとわりつき、光はほとんど届いていない。
壁に取り付けられた灯りは弱々しく揺れ、その火だけが周囲をぼんやりと照らしている。
その一室の牢屋へと、乱暴に放り込まれた。
受け身を取る余裕なんてない。
硬い床へと身体を強く打ち付け、鈍い衝撃が全身に走った。
ここに連れて来られる前に、ボロボロの服を着させられていた。
奴隷が着るような粗末な服だったけれど、一糸纏わぬ姿のままよりはまだましだったのだろう。
そして、手首には手枷が付けられている。
冷たい金属が肌へ触れた瞬間から、ずっと嫌な感覚が続いていた。
力が吸い取られていくような感覚。
腕の奥から何かが抜け落ちていくようで、頭がぼんやりと霞む。
それでも最初のうちは、必死だった。
「出せ!」
「殺せ!!」
と、喉が潰れそうなほど叫び散らし、閉鎖された空間の中で何度も何度も抵抗を続ける。
見回りの気配が近付けば、格子へと駆け寄った。
武器を持っている相手を見るたび、それを奪おうと必死に腕を伸ばす。
格子の隙間から、届きもしない手を何度も突き出した。
届けば終われると思った。
剣でも短剣でもなんでもいい。
自分を殺せるものなら、なんでもよかった。
けれどそのたびに、嵌められた手枷が格子にぶつかり、甲高い金属音がうるさく鳴り響く。
手首に食い込む鈍い痛みに眉を顰めても、諦められなくて、何度でも繰り返した。
擦れた皮膚が熱を持ち、じわりと赤く滲む。
痛みで指先が震えても、腕が重くなっても、気に留めない。
しばらく時間が経てば赤みも引き、傷痕さえも残らないと気付いたから。
届かないと分かっていても、私は何度も格子にしがみつき、必死に手を伸ばし続けていた。
やがて、何ひとつ抵抗することをやめた。
叫んでも、伸ばしても、届かない。
その繰り返しが積み重なって、いつの間にか精神の方が先に限界を迎えていた。
無駄だと、理解してしまった。
理解してしまった途端、それまで張り詰めていたものが、糸が切れたように崩れていく感覚に襲われる。
腕を持ち上げる気力も、声を出す気力も、もう残っていない。
ただ、重たい疲労だけが全身に沈殿していた。
冷たい床に座り込み、壁に背を預ける。
それ以外は、何も動かない。
物言わぬ人形のように。
ただ静かに、時間だけが過ぎていくのを待つだけにした。
そんな毎日を過ごしていた、ある日のことだった。
相変わらず地下は薄暗く、時間の感覚も曖昧なまま。
眠っていたのか、起きていたのかすら分からない状態で、ぼんやりと壁へ背を預けていた時だった。
不意に地下施設全体へと、やけに騒がしい声が、階段を下りてくる足音と共に響き渡った。
2人組、だろうか。
その声は、いつもの見回りが来る方向から聞こえてきていた。
「だからボクは別に要らないって言ってるじゃん。なに?拾った野良犬にまで手伝いさせるなんて、アルビオンはそんなに切羽詰まってんの?」
軽薄そうな声だった。
場違いなくらい気怠げで、緊張感がない。
呆れたように笑いながら話しているのが、声だけで分かる。
「おまえも知ってるだろう?うちは使えるもんは使う主義なんだ」
対して返ってきた声は低く落ち着いていた。
面倒そうではあるが、慣れたやり取りのようでもある。
そこに強い感情はほとんどない。
「だからってむやみやたらに契約させちゃってさぁ、飼い犬に手を噛まれるなんてことになってもいいの?」
「そうなったら消せばいいって考えなんだろ」
「おー、こわっ」
まるで雑談でもしているかのように、言葉が交わされていく。
黒と紫、2人の男だった。
どちらもこの場には不釣り合いなほど、上質で綺麗な服を身に纏っている。
黒い方の男は、気怠そうに肩を落としながら牢の格子越しに中を覗き込んでいた。
閉じ込められている者の状態を確認しているようだったが、その視線にはほとんど興味が感じられない。
一方で紫の男は、その隣で説明を続けていた。
牢の中にいる者の能力。
牢に入れられるまでの経緯。
性格や危険度、現在の状態。
淡々と、順番に、途切れることなく。
黒い男はそれを聞き流すように、適当な相槌を返すだけだった。
「ふ~ん」
「へぇ~」
と、紫の男がどれだけ真面目に説明しても、返ってくるのは気の抜けた声ばかりだった。
そのあまりの適当さに、紫の男のこめかみがぴくりと引き攣った。
「ちゃんと考える気はあるのか!?」
怒鳴り声が地下に響き渡る。
石壁へ反響した声が何重にも重なり、牢の奥までびりびりと震わせた。
けれど、怒鳴られた本人はまるで気にした様子もない。
黒い男は気怠そうに息を吐いただけだった。
「いやぁ、だってさぁ……、興味無いのに選ばされても困るってばぁ」
本気で面倒だと言いたげな声。
黒い男は、やけに広い袖をひらひらと揺らしながら歩き出す。
その動きすら気怠げで、足音もどこか頼りない。
「どーせどの子も一緒でしょー?適当に選んじゃダメなの……」
ふと、言葉が途中で途切れた。
そのまま視線だけが、格子の奥へと向けられる。
紫の男はその変化に気付かないまま、苛立ちを隠さず声を荒げていた。
「そういうわけにはいかないだろう!?真面目に選べ!」
怒声がまた地下に響き、空気がわずかに震える。
そこでようやく、黒い男が視線を向けている対象が自分なのだと気付いて、視線だけをそちらに向けた。
格子の向こう側。
そこに立ち尽くしている男は、まっすぐこちらを見ていた。
他の牢を眺めていた時のような、流し見るだけの視線ではない。
眠たげなまま、それでも鋭さを孕んだ金色の瞳が、まっすぐこちらを捉えていた。
「ねぇねぇアステル。この子はどういう子なの?」
黒い男が、格子の向こうからこちらを見たまま気の抜けた声で尋ねる。
けれどそれは、今までの適当な相槌とは少し違っていた。
ほんのわずかに、その声に興味らしきものが混じっている。
アステルと呼ばれた紫の男は、一拍遅れて「は?」と怪訝そうに眉をひそめた。
それはあまりにも予想外だったのだろう。
これまでどの牢を見てもろくに反応を示さなかった男が、急に足を止めて質問してきたのだ。
当然の反応だ。
それから面倒そうにため息をつき、視線だけをこちらへ向ける。
「あぁ、こいつか」
こちらの存在を認識すると、どこか興味が薄そうな様子で、淡々と説明を始めた。
「能力はわからんぞ?ただこいつがいたところには男たちが同士討ちしてたって記録しか無い。こいつ自身もずっと『殺せ』とばかり喚き散らして、すぐ自害しようとする。諦めたのか油断させる為なのか、今はすっかりおとなしいけどな」
事実、その通りなのだが。
あまりにも失礼な物言いではないか。
まるで、“そいつは外れだ”と言うような。
あるいは、“選ぶべきではない”と突き放されているような。
そんな扱いに近いものが、言葉の端々から滲んでいた。
それでも、目の前の男はそんなことなど、気にした様子を見せなかった。
「……へぇ」
ぽつり、と。
興味を抱いたように、声が零れる。
先ほどまでの気怠さはすっかり消えていた。
金の瞳が細められ、口元には緩く笑みが浮かぶ。
まるで面白いものを見つけた時みたいな、無邪気とすら思える表情。
「決めた」
短く、迷いのない声だった。
「は?」
アステルが思わず声を上げた。
理解出来ない、とでも言いたげに眉を顰める。
黒い男は、その反応すら気に留めない。
格子の向こうからこちらを見たまま、軽い調子で続ける。
「この子にする」
「おまえ、話聞いてたか?どう使えるのかわかっていない上に、こいつ自体に生きる気が無いんだぞ?」
アステルの声には、露骨な苛立ちが混ざっていた。
正論だった。
冷静に考えれば、私は選ぶべき対象ではない。
彼らの会話から察する限り、彼らの目的は“使える者の選定”だ。
能力は不明。
制御も出来ない。
おまけに死にたがりと来たのだから、論外と言われても仕方がない。
だからこそ、アステルの声には、呆れと警告が混ざっていた。
「でももしかしたら使えるかもしれないって考えてるから、ここに保管してるんでしょ?だったら別にいいじゃん」
あっけらかんとした声だった。
まるで本当に、大した問題ではないと言うように。
あまりの軽さに、アステルの眉間がさらに深く寄る。
「ノクスおまえなぁ……」
低く押し殺した声が漏れる。
そして額に手を当て、深く息を吐いた。
呆れているのか、頭が痛いのか、その両方なのか。
地下の薄暗い灯りの下で、紫の髪がわずかに揺れた。
理屈としては確かに間違っていない。
可能性があるからこそ、ここに閉じ込めて保管している。
完全に不要なら、わざわざ生かしておく理由なんてない。
あのまま自害させてくれても良かったというものだ。
ここまで生かさずに、さっさと見限って処分してもいい筈だ。
それ自体は事実だ。
だからといって、面白そうな玩具を見付けたような調子で選ぶのは話が別だ。
それを理解しているからこそ、アステルは露骨に渋い顔をしていた。
アステルは一瞬、言葉を探すように視線を落とす。
どう反論するか、どう説得するか、頭を悩ませる。
それでも結局、出てきたのはため息混じりの声だった。
「……どうなっても知らんぞ」
止めても無駄だと悟ったように、半ば投げるような言い方。
ノクスはそれを聞いて、満足そうに笑みを浮かべていた。




