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呪華ノ鎖  作者: 雪ねこ
第二章
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もうひとつの願い

それから、フィサリスはゆっくりと顔を上げた。


「……もうひとつは?」


問い掛けると、フィサリスは困ったように眉を下げる。


だが、返事はない。

何かを言い淀むように唇を閉ざしたまま、沈黙だけが流れていく。


どうしたのかと、フィサリスの名前を呼ぼうと口を開きかけた――その瞬間だった。


フィサリスが、何の前触れもなく。


自らの胸へ、深く手を突き立てた。


「――っ!?」


肉を抉る、生々しい音が図書室に響く。

遅れて、赤血が飛び散った。


「ちょ、おい……!何を……っ!?」


思わず声を荒げる。


だが、フィサリスは止まらない。


苦痛に顔を歪めながらも、そのまま胸の奥へ手を沈めていく。

肉を掻き分ける生々しい音が、嫌に鮮明に響いた。


呻き声すら漏らすまいとしているのか、フィサリスはきつく下唇を噛み締めている。

唇の端から、赤い血が細く零れ落ちていった。


やがて、血に濡れた手が、ゆっくりと胸の中から引き抜かれた。


その手の中には、何かが握られている。

手のひらに収まる程度の、小さな塊。


種にも似た形状をしたそれは、生き物のように不気味に脈動していた。

滴り落ちる血が指先を伝い、手の甲を赤く染めながら床へ落ちていく。


ぽたり。


ぽたり、と。


静かな図書室に血の落ちる音だけが響き、やがて足元へじわりと赤い染みが広がっていった。


「これを……、壊してください」


フィサリスは、血に濡れたそれを手のひらへ乗せ、こちらへ差し出した。


赤い雫がぽたぽたと床へ落ち続ける。


脈打つ小さな塊は、生きているかのように微かに震えている。

滴った血が指先から零れ落ち、赤い雫となって床を汚していった。


フィサリスは苦しげに肩を上下させながら、それでも途切れずに言葉を続けた。


「そして、私にトドメを」


真っ直ぐに、こちらを見つめる。


その胸の傷口から溢れ続ける血が服を濡らし、床へ赤黒い染みを広げていく。

立っていることすら辛いはずなのに、フィサリスは一歩も退かなかった。


ただ真っ直ぐにこちらを見つめたまま、こちらの答えを待っている。


「自分でやれば良いとはわかっていますが、……ふふっ、我ながら情け無い。死にたくないと、悪足掻きしたい衝動に駆られるんです。見苦しいだけなのに」


フィサリスは、自嘲するように小さく笑った。

その笑みは弱々しく、今にも泣き出してしまいそうに見える。


「ごめんなさい。酷なお願いをして……」


申し訳なさそうに呟かれた謝罪に、言葉を返すことが出来なかった。

ただ、無言のまま首を横に振る。


敵だったはずだ。

倒さなければならない相手だった筈なのに。


目の前にいるフィサリスは、もう戦うことすら出来ないほど傷付いていて。

それでも最後まで、自分のことではなくジェイクのことばかりを気に掛けていた。


そんな相手に、自ら終わらせてくれと頼まれる。


喉の奥が詰まるような感覚を覚えながら、それでも。


「……わかった」


どうにか絞り出すように答える。

その言葉に、フィサリスは目を細めた。


「ありがとう……、ございます」


安堵したように。

救われたように。


どこか穏やかな表情だった。



受け取った核は、生温かかった。


じわりと手のひらへ伝わる熱は、不気味なほど生々しい。

脈打つ感触まで含めて、それはまるで小さな心臓を握っているようだった。


その感触に一瞬だけ眉を寄せながら、すぐ傍の机へと核を置いた。


両手でしっかりと短剣を握り直す。

狙いを外さないよう、ゆっくりと息を整え、そのまま真っ直ぐ刃を振り下ろした。


刃が核へと突き立てられた直後。


――パキッ。


乾いた音が、室内に響いた。


核の表面に、細かい亀裂が走る。


まるで卵の殻が割れるように、亀裂が一気に全体へ広がっていく。


次の瞬間。

核は音を立てて砕け散った。


「あなたに……、感謝を」


フィサリスの身体にまで、徐々に亀裂が走っていく。


茶色く乾いた線が、葉脈のように全身へ広がっていった。

皮膚の下から侵食するように、細かな亀裂が腕へ、首へ、頬へと刻まれていく。


枯れ葉のように、ぱら、と乾いた欠片が零れ落ちる。


それでもフィサリスは最後まで穏やかに微笑んでいた。


「さようなら」


崩れ落ち、消えかけの視線が、ジェイクへ向けられる。


「どうか、あなたの心が……、平安でありますように……」


その言葉を最後に。


フィサリスの身体は崩れ落ちてしまった。

土塊が崩壊するように。

形を保てなくなった身体は、音を立てて砕け、床へ散っていく。


あとに残ったのは、僅かな砂のような欠片だけだった。


そして、ジェイクの首へ刻まれていた刻印が、音もなく薄れていく。

黒い蔦のように絡み合っていたそれは、やがて痕跡すら残さず消滅した。

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