助けられるなら
馬車の座席で眠るティアを前にして、膝を付き、小さく息を呑む。
未だ苦しげに呼吸をしているものの、先ほどよりは幾分かマシに見えた。
扉は閉め切っており、車内には俺とティアの2人きり。
扉を背に預けて立っていたクローディアスは、ノクスに半ば引き摺られるように、馬車から離れた位置に移動させられていた。
と言っても、完全に遠ざけられたわけではなく、馬車の中の様子は見えないものの、その周囲全体を見渡せる絶妙な距離で待機させられているのだが。
もっとも、まともな説明もされないままに連れて行かれたものだから、クローディアスがわぁわぁと文句を言う声が背中越しに聞こえた。
「ちょ、待て!2人を置いてどういうつもりだ!」
「いーからいーから。空気読もー?ボクたち邪魔ってやつだから」
「そんなんで納得出来るか!?説明をしろ!説明を!」
そんな騒がしいやり取りに、思わず苦笑が漏れた。
ふと、ノクスの言葉が脳裏をよぎる。
『喰い殺されないようにだけ、気を付けてね?』
冗談とも本気ともつかない、あの物騒な一言。
弧を描くように歪んだ口元に、人差し指を当てながら告げられた忠告。
こんなにも弱っている相手が、どうやって喰い殺すというのだろうか。
ふざけた口調でも、ノクスの言葉は核心めいていることが多い。
だからこそ、ただの冗談として切り捨てることができない。
(もし、ノクスの言葉が本当だとしたら、
わざわざ餌になりに来てますって、言っているような状況なんだろうな)
まるで他人事のように、そんなことを吞気に考える。
自分でも少しずれていると思うくらいだ。
(それでも……、助けられる可能性があるなら)
顔に掛かる白い前髪を、指先でそっと払い除ける。
そのまま唇を寄せ。
重ね合わせる。
触れた瞬間、思っていたよりもずっと柔らかい感触が返ってくる。
すぐその後に、鉄の匂いと、舌先に広がる微かな苦み。
すぐにぴくりと、ティアの身体が小さく反応したのが伝わった。
首筋にうっすらと熱が走る。
それと同時に、背中へ細い腕がゆっくりと回された。
すぐに違和感を覚えた。
徐々に力が抜けていく。
疲労でも、気の緩みでもない。
まるで内側から、何かが引き抜かれていくような感覚。
「……っ」
思わず息が詰まりかける。
ノクスが言っていたのはこれのことか、とすぐに理解した。
背中にまわされた手に、ぎゅっと力が込められた。
離すまいと、もっと欲しいと言わんばかりに。
直前まで立つことすらままならないほどに弱っていたとは思えない、強い力で抱き止められる。
このまま続けるのは危険だと、直感が警鐘を鳴らした。
一瞬だけ躊躇したものの、このまま続けたらこちらの命が危うい。
すぐにその腕を掴み、強引に引き剥がした。
「っ、はぁ……」
肩で呼吸をしながら、ティアを見る。
つい先ほどまで、激痛に耐えるように閉じられていたはずの瞼が上げられ、紅い瞳がこちらを覗き込んでいた。
右眼から流れていた筈の赤も、嘘のように引いている。
傷付けられた筈の黒いユリの紋も、右眼の奥で傷ひとつ無く、何事もなかったかのように咲き誇っていた。
「……レイ……、ン……?」
寝起きを思わせる掠れた声で、ゆっくりと名前を呼ばれる。
その声に、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ気がした。
「……おはよ」
息を整えながら返すと、ティアは不思議そうに目を丸くさせる。
それからすぐに、ふにゃりと力の抜けた笑みを浮かべた。
「おはよう、レイン」
柔らかく返されたその挨拶に、思わず小さく息が漏れる。
ほんの少し前まで、苦しげな呼吸しか聞こえていなかったとは思えないほど穏やかな声音だった。
「まだ夜だけどな」
ぼそりと付け加えると、ティアはゆっくり瞬きをする。
「じゃあ……、おやすみ?」
「起きたばっかりなのにまた寝るのかよ」
「んー……?」
まだ完全には頭が回っていないのか、ティアは小さく唸りながら考え込む。
直前まで命の危険に晒されていたとは思えない。
いつもの純粋無垢な彼女そのもので、ひどく安心した。
「体の調子はどうだ?」
そう尋ねると、ティアはぺたぺたと自分の身体を触って確かめる。
それから、ゆっくりとこちらを見上げた。
「もう平気、みたい……」
「それなら良かった」
自然と零れた言葉に、ティアは少し嬉しそうに目を細める。
「……心配、してた?」
「そりゃするだろ」
当たり前だと即答する。
すると、どこか照れたように「えへへ……」と笑みをこぼしながら、掛けられていた俺の上着に口元を半分埋めた。




