騒がしい朝
「それじゃあ私はここで失礼しますね。お姉ちゃんの看病もありますし」
笑顔を浮かべて告げるミーナ。
自分たちにお礼も十分に出来たと、心残りが無くなったようだった。
少しばかり名残惜しく感じるものの、引き留める理由が無い。
おまけに、病み上がりのマナをひとり留守番させたまま引き留める方が、彼女にとって余計に不安を掻き立てるだろう。
軽く会釈をして去ろうとするミーナに、軽やかな足取りでコレットが駆け寄った。
両手で包み込むように、ミーナの手を取る。
「良かったらまた、礼拝に来てくださいね。予約がいっぱいでいろんな人を待たせているから、予約してなんて、私からは簡単に言えないけど、もし頼ってくれたら絶対助けるから」
ふわりと微笑んだ。
その言葉に、ミーナは驚いたように目を瞬かせる。
何とも言えない苦虫を噛み潰したような表情を一瞬浮かべ、すぐに愛想笑いへと変える。
「……ありがとう、ございます」
聖女のことを信用出来ないと口にしていたのだから、その反応も仕方ないというものだろう。
一瞬のことでミーナの表情の変化に気付いていないのか、コレットは微笑を絶やさない。
もう一度頭を下げると、そのままミーナは孤児院を後にする。
こうしてミーナと別れ、俺たちは孤児院に残ることになった。
噂の真偽を探るなら、大聖堂の近くに拠点を置いた方が都合がいい。
そう判断したフィサリスの配慮だ。
大聖堂に併設されたこの孤児院であれば、フィサリスやコレットも頻繁に出入りする。
それに、空き部屋もいくつかあるらしい。
大聖堂内にも寝泊まりできる部屋はあるようだが、関係者全員に俺たちの存在を共有するには時間がかかるという。
なにより、礼拝堂でコレットが騒ぎを起こしたせいで、余計な注目を集めかねない。
そうした配慮もあっての判断だった。
―――――
冷たい水で顔を洗う。
目覚めたばかりの脳に刺激が与えられ、じんわりと意識が戻ってくる。
水滴が頬を伝い、顎先からぽたりと落ちた。
タオルで軽く拭いながら、小さく息を吐く。
隣では、俺に続いてティアが水を手に掬っていた。
次に来る冷たい刺激に、ひと呼吸だけ躊躇いを見せる。
意を決したように目を瞑り、冷水を顔にあてた。
「冷たっ」
思わず漏れた小さな悲鳴に、つい笑みがこぼれた。
「おい、レイン!!」
背後で、バンッと勢いよく扉が開く。
珍しく呼び捨てにされたことと、荒い声音に驚き、反射的に振り返った。
そこには怒りを隠そうともしないクローディアスが立っていた。
額から頬にかけて、見事な落書きが施されている。
それを見た瞬間、思わず吹き出しそうになった。
同時に、何故彼がこれほどまでに怒りを露にしているのか、その理由にも察しがついてしまう。
「そ、その顔……っ。どうしたんだ……?」
緩みかける口元を片手で押さえる。
それでも笑いを完全には堪えきれず、肩が小さく震えてしまった。
「とぼけるな!」
すごい剣幕のまま、クローディアスが距離を詰めてくる。
「こんな悪戯、おまえ以外に誰がやるんだ!」
「そんなこと言われても、本当に知らないって……」
言いかけたところで、動きが止まる。
クローディアスの着ていた燕尾服の裾で、ティアが顔を拭いていたのだ。
濡れた顔を、遠慮も躊躇いもなくゴシゴシと拭い上げている。
まるでそこにあるのが高級な礼服ではなく、手頃なタオルか何かであるかのように、躊躇いが一切無い。
水滴が黒い生地に染み込み、じわりと色が変わっていく。
「……なに?」
こちらの視線に気付いて、ティアが小さく首を傾げる。
手にはまだ、クローディアスの服の裾が握られたまま。
悪びれも、焦りもない顔。
むしろ「何か問題でも?」とでも言いたげな、あまりにも澄んだ目をしてた。
「……それは、俺の服だが」
怒鳴るでもなく、抑え込んだような押し殺した静かな声。
それでもティアは、ぱちくりと瞬きをしただけだった。
「知ってるけど?」
即答。
あまりにも単純で、子どものような返答に、クローディアスが片手で額を押さえた。
先ほどまで頭に血がのぼり、このような悪戯をやりかねない主人に詰め寄っていた筈なのに。
どうしたものかと頭を悩ませてしまう。
怒るべきか、呆れるべきか。
あるいは、諦めるべきか。
判断が追いつかないまま、クローディアスは深く息を吐いた。




