選ばれたもの
廃墟は、夜になると別の顔を見せていた。
昼間、外から見上げていたときとはまったく違う。
崩れかけた外壁は、月明かりを受けて深い影を落とし、割れた窓の奥は底の見えない暗闇のように暗かった。
訓練する時は、いつも外だった。
視界が開けていて、逃げ場もある。
すぐ近くにあった廃墟の内部にまで、わざわざ入る理由なんて、これまで一度もなかった。
だからこそ、中に入るのはこれが初めてだった。
「思ったより、暗いな」
小さく呟きながら、中へと足を踏み入れる。
自分を含めた複数人分の足音が、やけに大きく響く。
崩れた柱。
ひび割れた床。
天井の一部は崩落し、そこから月明かりが差し込んでいた。
階段を上がり、四階へと足を踏み入れる。
外からだと見慣れていた筈の場所なのに、深夜だからということもあるのだろうか。
暗く、不気味で、どこか別の場所へ迷い込んだような錯覚に襲われた。
「――遅かったな」
不意に、背後から声が掛けられた。
心臓が大きく跳ねさせながら、反射的に振り返る。
「……シオン」
崩れた壁の影。
月明かりの届かない暗がりの中に、人影が立っていた。
見慣れた顔。
見慣れた筈の姿。
けれど、視線が合わない。
顔はこちらに向けられているのに、こちらを見ていないような違和感。
視線が合っているようで、合っていない。
薄紫の瞳は影を落とし、何も映していないように思えた。
「こんなところまで来るなんてさ、ほんっと……。物好きだよね」
呆れたように言われる。
シオンは普段から笑わない。
表情の変化も乏しく、口を開けば辛辣な言葉ばかり。
それでも一緒にいた時間は、不思議と息苦しさがなかった。
むしろ、居心地の良さすら感じていた。
それなのに、今のシオンからは、どこか冷たい、近寄りがたいとさえ思える空気を纏っていた。
シオンが、一歩、こちらへと踏み出した。
瓦礫を踏む音が、やけに乾いて響く。
「……で?なにしに来たんだよ」
「お前が来なくなったからだろ」
「……あっそ」
興味がないように、シオンは視線を外した。
いつものシオンなら、もう少し棘のある返しをしてくる筈だった。
茶化すか、皮肉るか、なにかしら突っかかってくる。
こんなにも何も感じていないような表情はしなかった。
ガラの悪い連中に囲まれていた時だってそうだ。
苛立ちと不快さを顔に滲ませていたけれど、こんなに無表情ではなかった。
「こんな時間に勢揃いでこんな場所に来てんだから、全部わかってて来てんだろ。俺が葬華の一員だって」
(あぁ……。やっぱりか……)
身を守る術を叩き込んでくれた相手が敵だとは、信じたくなかったのに。
嫌な予感ほど当たるとはよく言ったものだ。
「正確には、葬華の手駒だ。俺らは人間じゃない」
「人間じゃないって、どういう意味だよ」
その言葉が引っかかって、問い返した。
が、すぐにその理由に思い至り、
「まさか……」
と、言葉が漏れた。
「お前……、呪華なのか……?」
そんな筈はない、と否定したかった。
そう思いたかった。
それなのに。
今までの違和感が、ひとつずつ繋がっていく。
最初から、彼が普通ではないという考えに至る要素はあちこちにあったではないか。
囲まれていた時だって、シオンの方が圧倒的に不利な状況だった。
体格が違う。
人数も圧倒的に向こうが多い。
にも関わらず、焦るどころか、相手を下に見て小馬鹿にした態度を取っていた。
おまけに、訓練時に嫌というほど見せつけられた、人間離れした反応速度。
そしてどこか、関わり過ぎないようにと線引きしているような距離感。
すべてが繋がってしまう。
「……はは」
小さく、シオンが笑った。
「今さら気付くとはな。間抜けにもほどがある。そこの黒ユリはとっくに気付いてただろうに」
思わず、ティアへと視線を向ける。
いつも素直な反応を見せる彼女が、特に驚いた様子も無い。
(ティアはとっくに気付いていたということか)
「だって、空気が、他の人と違うの。うまく言えないけど……、温度が違うみたいな感じ。レインやクローディアス、ノクスとは違う、セレナと似た空気……」
どうにか知っている言葉で伝えようと、言葉を探してティアが話す。
だったらどうして教えてくれなかったのか。
問い掛けるよりも早く、ティアが先に答えを口にした。
「でも、嫌な感じ無かったから。だから、わざわざ言わなくてもいいのかなって思ったの」
あまりにも単純で、まっすぐな理由だった。
敵意を感じなかったから。
危険だと思わなかったから知らせなかった。
彼女はそう判断していたのだ。
セレナと似た空気を感じていた。
人間離れした雰囲気を纏ったセレナと。
そんな存在と似てるなんて、人間相手に感じることがあるのだろうか。
いや、そんなことは考えづらい。
シオンは呪華だ。
この事実は揺るがない。
だが、だったら尚更、理解出来なかった。
「……なんでだよ」
思わず声が漏れる。
「呪華なら、葬華に狩られる側だろ……」
葬華は呪華狩りを生業としている集団。
呪華であるなら、本来シオンは“狩られる側”の存在だ。
排除される対象。
それなのに。
「なんで、お前が――」
そんな奴らの手駒として動いているのか。
言いかけて、言葉が途中で途切れた。
「俺、ら……?」
そこで初めて気付く。
まるでシオンだけじゃない。
複数人を指しているような言い方に、違和感を感じた。
疑問を口にしてすぐ。
視界の端で、何かが動いた。
ふわりと、淡い色。
シオンの背後から、別の気配が滑り込む。
「ほんと……、察し悪いよね」
いつの間にか、シオンの後ろにもう一人。
白く柔らかい布に覆われた細い腕が、するりとシオンの体に回された。
シオンを後ろから抱き寄せるように、背中から寄り添うその影。
「やっと気づいたんだ?」
耳に残る、軽い声音。
からかうようでいて、どこか楽しんでいる響きをしていた。
「……シラン」
彼女の名前だろう。
その名をシオンが口にすると、シランがくすりと笑った。
シランはシオンの肩に顎を乗せるようにして、こちらを覗き込む。
まるで、面白いものでも見つけたかのように。
「ねぇ、シオン。ちゃんと説明してあげれば?」
クスクスと笑い声が響く。
「どうせ、もう誤魔化す気ないでしょ?」
絡みつくような声音。
けれどシオンは、振り払うことも、拒むこともしなかった。
それどころか、絡みつくシランの腕に片手を添えてさえいる。
他人に触れられることを嫌いそうなシオンが、自分からその腕に触れている。
その光景が異様なものに見えて、言葉を失った。
「なぁに、その顔」
シランがくすりと笑う。
「そんなにおかしい?」
楽しげな声音でシランは言う。
けれど、その目はまったく笑っていなかった。
「でも、そっか。あんたたちから見れば変だよね?シオンが嫌がらないなんて。シオン、自分以外の他人なんかと馴れ合うなんて嫌いそうだもん」
わざとらしく首を傾げる。
その仕草ひとつひとつが、どこか芝居がかって見えた。
「でもさ」
シランは、シオンの肩に顎を乗せたまま、くすりと笑う。
「これが普通なんだよ、私たちにとっては」
そう言った直後。
するりと腕の位置を変え、今度は正面からシオンに身体を預けるように寄りかかった。
まるで逃がさないと言うように、シオンの胸元に額を押し当てる。
そのまま指先を、シオンの服越しにゆっくりと滑らせた。
「それに――」
顔を上げ、至近距離でシオンを見上げる。
「私は、シオンの“特別”だから」
わざとらしく、甘く囁く。
そのまま、確認するように。
シオンの胸元に額をもう一度押し付けた。
「……ね?」
シオンは小さく息を吐く。
その後、シランの顎に指が添えられ、軽く持ち上げられる。
シオンとシラン、二人の視線が絡み合う。
「……好きに言ってろ」
低く、投げやりな声。
けれどその手は、離さないままだった。
そのまま、シオンの視線だけがこちらを向いた。
「狩りには道具が必要だろ。俺らはその道具。呪華を狩るために使う道具だよ」
あまりにも平然と告げられた言葉に、一瞬言葉を失った。
自分自身を。
隣にいるシランまでもが。
自分たちが“道具”だと、当たり前のように認めている。
気付けば、拳を強く握りしめていた。
「……シオンは、それでいいのかよ」
声が僅かに震える。
怒りからなのか。
理解出来ないからなのか。
自分でも分からなかった。
けれどシオンは、そんなこと気にも留めない。
「俺はシランとさえいられれば、なんでもいい」
迷いの無いその言葉に、シランが小さく目を細めていた。




