優しさの代償
足音が一歩、近づく。
逃げようとするよりも早く、乱暴に髪を掴まれた。
「ぐっ……!」
強引に引き上げられ、無理やり顔を上げさせられる。
痛みで視界が揺れる。
グラオザームが目の前でしゃがみ込み、覗き込むように視線を合わせてくる。
「いい加減に吐けよ」
喉がひきつる。
声を出そうとしても、呼吸さえもうまく出来ない。
正直に話すべきだということは分かっている。
それなのに言葉が出てこない。
話したところでどうなる。
自分がやったことは、決して許されることでは無い。
敵と仲良くなりましただなんて、どの面下げて言えるのだろうか。
それを口にした瞬間、余計に怒りを買うだけだろう。
罰はもっと重くなる。
シランにまで、余計に危害が及ぶかもしれない。
そんなことを、ぼんやりとした頭でぐるぐると考えてしまい。
結局、口をつぐんでしまった。
「っ……」
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
「がっ……!?」
横から弾かれるように吹き飛び、身体が地面へ崩れ落ちる。
石畳に肩から打ちつけ、鈍い痛みが走った。
「ほんっと……、使えねぇなぁ……」
吐き捨てるような声が、上から降ってくる。
今の衝撃で、口の中を切ったのだろうか。
鉄の味がじんわりと広がる。
散々与えられた責め苦の影響で、身体が動かない。
そんなことなどお構い無しとばかりに、腹に強い衝撃が走った。
「……っ、ぐ……、ぅ……!」
空気が一気に押し出され、喉がひきつる。
声にならないまま、苦しさだけが積み重なっていく。
そのような目に遭いながらも、視線だけを動かした。
(シラン……)
視界の端に、彼女の姿が映る。
一歩、踏み出しかけては止まる。
また踏み出しかけては、止まる。
シランは何度も何度もそれを繰り返していた。
俺の傍に駆け寄りたいのに、来られない。
来てはいけないと理解しているからこそ、動けない。
そんな迷いが、はっきりと伺えた。
ふと、視線が合う。
縋るようなその琥珀色の目に見つめられ、助けを求めているのはどっちなのか分からなくなる。
それが不思議とおかしくて、
「……はっ」
と小さく笑いを漏らしてしまった。
「いい顔してるじゃねぇか」
グラオザームの視線が、シランへと向く。
「おまえも」
たったそれだけで、シランの肩がびくりと跳ねた。
「ほら、こっちに来いよ」
シランの身体が、一瞬だけ固まった。
けれど従う以外の選択肢はない。
逆らえる状況ではなかった。
ゆっくりと、シランが震える足を動かす。
ぎこちなくなりながらも、グラオザームの前へと進んでいく。
その顔は先ほどよりもさらに青ざめていた。
グラオザームはシランの前へと回り込み、真正面に立つ。
「震えてんじゃねぇよ」
低く吐き捨てるような声。
その一言だけで、びくりとシランの肩が跳ねた。
シランの顎が、乱暴に掴まれた。
無理やり顔が持ち上げられ、逸らしていた視線が俺の方へと強制的に向けられる。
「見ろ」
「……っ」
シランが身体を強張らせた。
視線が合う。
その目は、ひどく揺れていた。
恐怖と罪悪感。
そして、それとは別に。
逃げられない、と理解してしまった目。
「おまえが庇ってるソイツが、どんな顔してるか」
「……っ、や……」
かすれた声で拒絶の言葉が、シランの唇から漏れる。
その声を聞いた瞬間、グラオザームは目を細められ、その口元を吊り上げた。
「へぇ……?」
面白い玩具を見つけたとでも言うように、低く笑った。
ふっと、俺の腹を踏みつけていた足が離れた。
圧迫感から解放された途端、肺に酸素が急激に流れ込む。
思わず咳き込みそうになるのを必死に押さえ込んだ。
そうして耐えていると、視界の端で、シランの腕が乱暴に引かれるのが見えた。
「……な、にを……っ」
声が震える。
だが、答えは返ってこない。
代わりに、シランの腕を引く力だけが強まった。
「こっち来い」
逆らう余地なんて、最初から与えられていなかった。
シランの身体が強引に引き寄せられる。
足がもつれ、体勢が崩れる。
そのまま引きずられるようにして、俺のすぐ傍まで強引に連れて来られた。
「やめ……っ、離して……!」
シランが掴まれた腕を振りほどこうとするが、びくともしない。
むしろ抵抗すれば抵抗するほどに、グラオザームの指はさらに深く食い込んだ。
その様子すら、どこか面白がっているようだった。
「離すわけねぇだろ」
軽く吐き捨てるように言って、グラオザームがシランの背を押した。
バランスを崩したシランが、そのまま膝をつく。
「っ……」
息を詰めたまま、シランの肩が小さく震える。
「ほら」
シランの後頭部に、無造作に手が置かれる。
そのまま、ぐっと強引に押し下げられた。
無理やり顔を上げさせられ、俺がいる方へと向かせられる。
「ちゃんと見ろよ。おまえのせいで、こいつがどうなってるか」
「ち……、ちが……っ」
否定しようとして、言葉が途中で途切れる。
違う、と言い切れないことを、シラン自身が理解しているからだ。
関係していないと言い張るには、もう遅すぎる。
「違わねぇだろ。おまえが無駄にこいつを庇おうとしたからこうなってんだよ」
「やめて……」
「やめて、だぁ?」
グラオザームが鼻で笑った。
「随分と都合のいい言葉だな」
その声を聞きながら、俺は呼吸が上手く出来ないでいた。
肺の奥が焼けるみたいに熱い。
息を吸うたび、ズキズキと痛みが走る。
唇の端、頬、額とあちこちに滲んだ血が、じわじわと熱を持って広がっていた。
「ほら」
短く声が響く。
「やれよ」
視界の端で、シランの肩がびくりと揺れた。
「え……?」
掠れた声。
理解が追いついていないといった顔。
琥珀色の瞳が揺れる。
パシッと乾いた音がして、石造りの床に何かが放り投げられた。
――鞭だ。
細く長い革製の鞭。
使い込まれているのが遠目でも分かるほどに擦れている。
「使え」
ただ一言。
短い命令だった。
説明も無い。
理由すらも伝えられない。
シランは動けないまま。
視線だけが、足元に落ちた鞭へと吸い寄せられていた。
「どうした。できねぇのか?」
逃げ場を塞ぐような低い声。
その圧に押されるように、シランがゆっくりとしゃがみ込んだ。
指先が鞭へ触れ、躊躇うように一度止まる。
従うしかないと理解しているのに、身体が追いつかない。
やがて、シランはそれをぎゅっと握りしめた。
不意に、グラオザームによって髪が乱暴に掴まれる。
「っ……!」
痛みに顔が歪む。
そのまま、容赦なく身体が引き上げられた。
抵抗する間もない。
膝をついたまま、無理やり顔を上げさせられる。
ふと、シランと目が合う。
(ひどい顔だ……)
顔を青ざめさせて、涙をこらえて、今にも壊れてしまいそうで――。
胸が酷く締め付けられた。
「……気にすんな。やれ」
自分でも驚くくらい、声は静かだった。
先ほどまで掠れて、声が上手く発せていなかったことが嘘のように。
シランは何か言いかけて、意を決したように息を呑んだ。
「っ……」
次の瞬間。
空気が裂けるような音が響いた。
鋭い音が、遅れて耳に届く。
迷いのない一撃が、そのまま振り抜かれた。
しなる鞭が一直線に叩きつけられた瞬間、衝撃が皮膚を裂く。
遅れて、焼けるような痛みが走った。
息が詰まる。
口の端から悲鳴が漏れそうになる。
それでも、声は出すまいと、唇を強く噛みしめた。
何度も鞭が振るわれるたびに、痛みだけが絶えず積み重なっていく。
呼吸が浅くなる。
視界の端が滲む。
それでも目は伏せたまま、歯を食いしばって耐え続けた。




