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呪華ノ鎖  作者: 雪ねこ
第一章
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崩れる現実

窓枠を蹴った瞬間、足裏に硬い反発が返ってくる。

踏み切る為に込めた力が、そのまま押し返されるように作用し、体が前方へと弾き出された。


一瞬、重心が宙に置き去りになる。


俺の部屋は邸宅の二階に位置している。

見下ろせば、それなりの高さがあることは分かっているが、着地の仕方さえ間違えなければ致命的な怪我にはならない高さだ。


廊下へと続く扉は、クローディアスの向こう側。

つまり、正面突破は論外。


一秒でも早くこの場を離脱するなら、この窓しかない。


そう判断した時には、もう体は動いていた。

考える余裕なんて、最初からなかった。


次の瞬間には、窓枠の感触すら遠ざかり、体がふわりと宙に浮く。


ほんの一拍。

重力から解き放たれたかのような、奇妙な浮遊感。


跳んだ、というより——足場そのものが消えたような感覚に近い。


だが、その自由は長くは続かない。


すぐに重力が追いついてきて、容赦なく体を地面へと引き戻しにかかる。


風が頬を叩く。

耳元で空気が裂ける音が鳴る。


「っと……!」


着地の瞬間、わずかに体勢を崩しかける。

膝に衝撃が走り、危うく足首が嫌な角度に傾きかけるが、反射的に踏み直し、どうにかバランスを立て直した。


そのまま止まらずに前へと走り出し、外へと飛び出した。


背後から、何かを叫ぶ声が飛んでくる。


間違いなくクローディアスの声だ。


振り返らなくても分かる。

あの低くて通る声が、怒気を孕んで響いていた。


だが、既に距離は開き始めている。

窓枠に手を掛けて身を乗り出し、こちらへ向かって何かを叫んでいる姿が視界の端に入ったものの、言葉の内容までは聞き取れない。


その声を背にしつつ、背筋がひやりと冷えた。


「はは、やっべぇ。ガチで怒ってるな、これ……」


思わず漏れた独り言は、乾いた苦笑を伴っていた。


振り返る余裕はない。

いや、振り返ったら最後だ。


あの距離でも捕まる気がする。

そして捕まったが最後、待っているのは間違いなく説教だ。


クローディアスの説教は、一度始まったら終わらない。

途中で口を挟めば余計に長引くし、黙っていれば黙っていたで勝手に話が展開していく。


正直、殴られるよりきつい。


精神的に削られるあの時間を思い出し、無意識に顔が引きつった。


「とにかく、今は逃げたもん勝ちだろ」


少しでも時間を置けば、あいつの機嫌も多少はマシになるはずだ。

せめて説教の長さが半分になることを祈って、足を止める訳にはいかない。


整えられた庭を駆け抜ける。


短く刈り揃えられた芝生は、足運びを一切邪魔しない。

寧ろ走ることを前提に整備されているかのように均一で、踏み込むたびに程よい反発を返してくる。


風が身体を撫で、呼吸が次第に荒くなる。

だが、奥へと進むにつれて、その均整はゆっくりと崩れていった。


芝はまばらになり、地面は徐々にむき出しになる。

踏みしめるたびに、足裏へと伝わる感触が変わっていく。


柔らかな土。

ごつごつとした小石。

乾いた葉が潰れる、かさりという音。


一歩ごとに違う感触が、やけに鮮明に意識へと入り込んでくる。


気づけば、屋敷の外れへと入り込んでいた。


整えられていた景色は完全に姿を変え、木々の間隔は狭まり、伸び放題の枝葉が視界を覆い始める。


頭上を見上げても、空はほとんど見えない。

葉の隙間から差し込む光だけが、不規則に揺れている。


その光がやけに薄い気がして、不意に足を止めた。


「……あれ?」


見慣れているはずの屋敷の庭。

その延長線上にあるはずの場所。


その筈なのに何処かおかしいと、違和感が俺を襲う。


木々は確かに揺れている。

葉も動いている。


それなのに、ざわめきが薄い。

音が、遠い。


まるで一枚の膜を隔てて、その向こう側の世界を眺めているような、そんな感覚。


呼吸の音だけが、やけに近い。


自分の存在だけが、この空間から浮いているような錯覚に襲われる。


夢の中にいるみたいだ、と思った。


現実感が、薄い。


その場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと周囲を見渡した。


木々がある。

地面がある。

光が差し込んでいる。


どれも、見慣れたものの筈の光景だというのに、何処かおかしい。


「……なんだ、これ」


小さく呟く。


何かがおかしい。

そう感じているのに、“どこがどうおかしいのか”が分からない。


音。

匂い。

温度。


全部がほんの少しずつずれている。


一つ一つは確かにそこにあるのに、全体として噛み合っていないような気がする。


現実を模倣した“別の何か”に紛れ込んでしまったような、不気味さ。


じっとしているほど、その違和感は濃くなっていく。


背中にじわりと嫌な汗が滲んだ。


「……っ」


本能が告げる。


ここにいるべきじゃない、と。


逃げるように、再び足を前へと出した。


一歩。

また一歩、と踏み出し。三歩目を踏み出した時。


小さな音が、足元からした。


「え……?」


違和感に気付いた時には、もう遅かった。


踏み込んだ地面が、ぐらりと沈む。


次の瞬間――。


ガラガラガラッ!!


足元の地面が、一気に崩壊した。


「っ――!?」


反射的に手を伸ばす。


まだ崩れていない地面を掴もうとした指先は、しかし何も捉えられないまま空を切った。


掴めるはずの場所が、そこにない。

支えになるはずの足場が、存在しない。


一瞬で、世界が反転する。


「うわぁぁああああああ!?」


視界が回る。


崩れ落ちる土砂と共に、体が下へ下へと引きずり込まれていく。


土の匂いが一気に濃くなり、細かな砂が顔に当たる。

目を閉じる暇もなく、耳元で崩落の音が轟いた。


伸ばした手はただ空を掻くばかりで、何も掴めないままにひたすらに落ちていった。

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