崩れる現実
窓枠を蹴った瞬間、足裏に硬い反発が返ってくる。
踏み切る為に込めた力が、そのまま押し返されるように作用し、体が前方へと弾き出された。
一瞬、重心が宙に置き去りになる。
俺の部屋は邸宅の二階に位置している。
見下ろせば、それなりの高さがあることは分かっているが、着地の仕方さえ間違えなければ致命的な怪我にはならない高さだ。
廊下へと続く扉は、クローディアスの向こう側。
つまり、正面突破は論外。
一秒でも早くこの場を離脱するなら、この窓しかない。
そう判断した時には、もう体は動いていた。
考える余裕なんて、最初からなかった。
次の瞬間には、窓枠の感触すら遠ざかり、体がふわりと宙に浮く。
ほんの一拍。
重力から解き放たれたかのような、奇妙な浮遊感。
跳んだ、というより——足場そのものが消えたような感覚に近い。
だが、その自由は長くは続かない。
すぐに重力が追いついてきて、容赦なく体を地面へと引き戻しにかかる。
風が頬を叩く。
耳元で空気が裂ける音が鳴る。
「っと……!」
着地の瞬間、わずかに体勢を崩しかける。
膝に衝撃が走り、危うく足首が嫌な角度に傾きかけるが、反射的に踏み直し、どうにかバランスを立て直した。
そのまま止まらずに前へと走り出し、外へと飛び出した。
背後から、何かを叫ぶ声が飛んでくる。
間違いなくクローディアスの声だ。
振り返らなくても分かる。
あの低くて通る声が、怒気を孕んで響いていた。
だが、既に距離は開き始めている。
窓枠に手を掛けて身を乗り出し、こちらへ向かって何かを叫んでいる姿が視界の端に入ったものの、言葉の内容までは聞き取れない。
その声を背にしつつ、背筋がひやりと冷えた。
「はは、やっべぇ。ガチで怒ってるな、これ……」
思わず漏れた独り言は、乾いた苦笑を伴っていた。
振り返る余裕はない。
いや、振り返ったら最後だ。
あの距離でも捕まる気がする。
そして捕まったが最後、待っているのは間違いなく説教だ。
クローディアスの説教は、一度始まったら終わらない。
途中で口を挟めば余計に長引くし、黙っていれば黙っていたで勝手に話が展開していく。
正直、殴られるよりきつい。
精神的に削られるあの時間を思い出し、無意識に顔が引きつった。
「とにかく、今は逃げたもん勝ちだろ」
少しでも時間を置けば、あいつの機嫌も多少はマシになるはずだ。
せめて説教の長さが半分になることを祈って、足を止める訳にはいかない。
整えられた庭を駆け抜ける。
短く刈り揃えられた芝生は、足運びを一切邪魔しない。
寧ろ走ることを前提に整備されているかのように均一で、踏み込むたびに程よい反発を返してくる。
風が身体を撫で、呼吸が次第に荒くなる。
だが、奥へと進むにつれて、その均整はゆっくりと崩れていった。
芝はまばらになり、地面は徐々にむき出しになる。
踏みしめるたびに、足裏へと伝わる感触が変わっていく。
柔らかな土。
ごつごつとした小石。
乾いた葉が潰れる、かさりという音。
一歩ごとに違う感触が、やけに鮮明に意識へと入り込んでくる。
気づけば、屋敷の外れへと入り込んでいた。
整えられていた景色は完全に姿を変え、木々の間隔は狭まり、伸び放題の枝葉が視界を覆い始める。
頭上を見上げても、空はほとんど見えない。
葉の隙間から差し込む光だけが、不規則に揺れている。
その光がやけに薄い気がして、不意に足を止めた。
「……あれ?」
見慣れているはずの屋敷の庭。
その延長線上にあるはずの場所。
その筈なのに何処かおかしいと、違和感が俺を襲う。
木々は確かに揺れている。
葉も動いている。
それなのに、ざわめきが薄い。
音が、遠い。
まるで一枚の膜を隔てて、その向こう側の世界を眺めているような、そんな感覚。
呼吸の音だけが、やけに近い。
自分の存在だけが、この空間から浮いているような錯覚に襲われる。
夢の中にいるみたいだ、と思った。
現実感が、薄い。
その場に立ち尽くしたまま、ゆっくりと周囲を見渡した。
木々がある。
地面がある。
光が差し込んでいる。
どれも、見慣れたものの筈の光景だというのに、何処かおかしい。
「……なんだ、これ」
小さく呟く。
何かがおかしい。
そう感じているのに、“どこがどうおかしいのか”が分からない。
音。
匂い。
温度。
全部がほんの少しずつずれている。
一つ一つは確かにそこにあるのに、全体として噛み合っていないような気がする。
現実を模倣した“別の何か”に紛れ込んでしまったような、不気味さ。
じっとしているほど、その違和感は濃くなっていく。
背中にじわりと嫌な汗が滲んだ。
「……っ」
本能が告げる。
ここにいるべきじゃない、と。
逃げるように、再び足を前へと出した。
一歩。
また一歩、と踏み出し。三歩目を踏み出した時。
小さな音が、足元からした。
「え……?」
違和感に気付いた時には、もう遅かった。
踏み込んだ地面が、ぐらりと沈む。
次の瞬間――。
ガラガラガラッ!!
足元の地面が、一気に崩壊した。
「っ――!?」
反射的に手を伸ばす。
まだ崩れていない地面を掴もうとした指先は、しかし何も捉えられないまま空を切った。
掴めるはずの場所が、そこにない。
支えになるはずの足場が、存在しない。
一瞬で、世界が反転する。
「うわぁぁああああああ!?」
視界が回る。
崩れ落ちる土砂と共に、体が下へ下へと引きずり込まれていく。
土の匂いが一気に濃くなり、細かな砂が顔に当たる。
目を閉じる暇もなく、耳元で崩落の音が轟いた。
伸ばした手はただ空を掻くばかりで、何も掴めないままにひたすらに落ちていった。




