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呪華ノ鎖  作者: 雪ねこ
第一章
26/28

風呂場の侵入者

訓練を終えた後、そのまま疲れを落とすために浴室へ直行した。


浴室は、屋敷の造りにしてはやや手狭だ。


石造りの壁と床はひんやりとしているが、立ち上る湯気がそれをやわらげている。

天井は低めで、音が少しこもるような造りをしており、その分だけ熱は逃げにくく、空間全体がじんわりと温まっていた。


湯船に身を沈め、肩まで浸かった瞬間、思わず息が漏れる。


「……はぁ……」


熱が、ゆっくりと身体の奥へ染み込んでいく。

張り詰めていた緊張の糸がほどけていく感覚に、目を閉じる。

腕をわずかに動かすだけで水面が揺れ、小さな波紋が広がった。


耳に残るのは、水のわずかな揺れと、自分の呼吸だけ。


——静かだ。


掌で湯をすくい、肩へとかける。

お湯をかけた箇所からじわりと熱が広がり、身体の奥に溜まっていた重さが少しずつ溶けていく気がした。


「気持ちいいな……」


小さく呟き、そのまま背を預ける。

何も考えない時間が、ゆっくりと流れていく。


——そのはずだった。


不意に、ガラリと、勢いよく扉が開く音がした。

誰かが入って来るとは思っておらず、反射的に肩がびくりと跳ねた。


「ねぇねぇ」


女性特有の高い声が響く。

一瞬で、嫌な予感が背筋を走った。


(この声はティア!?待て待て待て!なんでだよ!?)


思考が一気に加速する。

だが整理する前に、ぺたぺたと素足の音が近づいてきた。


水気を含んだ足音が、やけに近く感じる。


「私も入るー」


思わず「は!?」と素っ頓狂な声が出た。


「ちょっ、待っ――!」


言い終わるより早く、バシャ、と湯が大きく揺れた。

反射的に振り返りかけて、視界に肌色が映り、慌てて振り返ることをやめた。

途端に、顔に熱が集中して、心臓の音が騒がしくなる。


こちらの混乱など意に介さず、ばしゃん、と遠慮のない水音が響く。


「ふぅ~……、あったかーい」


目を見開いたまま固まるこちらとは対照的に、満足気な声を上げる。

ごく自然な様子で、ティアが湯船に浸かっていた。


「な、な、な……!なんで普通に入ってきてるんだ!?」

「なんで?」


きょとん、とした声。

本気で分かっていない響きだった。


「今俺が入ってるだろうが!?」


必死に視線を逸らし、距離を取ろうとするが、もともと広くない浴室だ。

背を引いても、すぐに石の縁にぶつかる。

逃げ場がない。


(近い近い近い近い!)


湯気のせいで視界はややぼやけているが、それが逆に意識を変に刺激してくる。

水面が揺れるたびに、距離の近さを嫌でも感じてしまう。


「そんなに慌てなくてもよくない?」


不思議そうにこちらを見て、ティアが言う。


「よくないだろ!?」

「なんで?」


即答だった。

間髪入れずに返され、思わず言葉に詰まる。


「なんでって……っ……」


言いかけて、口ごもる。

当たり前すぎることなのに、うまく言葉に出来ない。


「……その、普通は……、一緒に入ったりしないだろ……」


やっと絞り出した言葉は、ひどく弱かった。


「なんで?」


またそれだ。


「なんでって……いや、だから……っ」


言葉が続かない。

説明しようとすればするほど、余計に意識してしまう。


(落ち着け……落ち着け俺……!)


深く息を吸おうとして、むせかけた。

湯気がいつもより濃く感じるのは、気のせいじゃない。


その間にも、ちゃぷん、と水音が鳴る。

ティアが体勢を変えたのか、わずかに距離が揺らぐ。


「ねぇ」


すぐ近くで声がした。


「なんでダメなの?」


さっきより少しだけ、ティアとの距離が近い。


「ち、近い!ちょっと離れろ!」


思わず声が上ずってしまう。

慌ててさらに背を引くが、もう下がれない。

石の縁が背中に当たっている。


「……だから、普通はだな……っ!」


どうにか言葉を繋ごうとした、その時だった。

ちゃぷん、とすぐ目の前で水音が鳴る。


「……っ!」


反射的に息を呑む。


(来てる来てる来てる!!)


視線は必死に逸らしているのに、気配だけで分かる。

湯気越しに、すぐそこにいる。


「ねぇ」


耳元に近い位置で、声が落ちた。


「そんなに嫌?」

「い、嫌とかそういう問題じゃ――」


思わず言い返そうとして、言葉が止まる。

思考がぐちゃぐちゃに絡まって纏まらない。


「じゃあいいじゃん」


「よくない!!」


反射的に叫ぶ。

その勢いで、思わず振り返りそうになり――。


「っ……!」


寸前で顔を逸らす。


(危な……、今の絶対ダメなやつだ……!)


心臓がうるさい。

自分でも分かるくらい、バクバクと鳴っている。


「なんでそんなに顔赤いの?」


無邪気な声が、すぐ傍で落ちる。


「……っ、赤くなんかない!」


反射的に否定するが、自分でも分かるくらい声が上ずっている。

説得力なんてあったものじゃない。


「赤いよ?」


くすり、と小さく笑う気配。


その軽さが、余計にこちらの余裕を削っていく。


「……っ、だから……近いんだって……!」


どうにか絞り出した言葉は、もはや言い訳に近い。

だがティアは、やはり納得していない様子だった。


「近いとダメなの?」


「ダメだ!」


即答だった。

考える余地もなく、口から飛び出した。


その勢いのまま、しばらく沈黙が流れる。

ちゃぷん、と小さく水音が揺れる。


「んー……、嫌じゃないなら、別にいいと思ったんだけど」


責めるでもなく、ただ事実を言うような口調。

振り返ることは出来ないまま、その言葉だけが耳に残る。


「……いや、その……」


言い返そうとして、言葉が続かない。


嫌、ではない。

ただ、どうしていいか分からないだけだ。


常識とか、距離感とか、そういうものがぐちゃぐちゃになって、うまく整理できない。


「……普通は、こういうのは、その……色々あるんだよ」


やっとのことで口にした言葉は、ひどく曖昧だった。


「ふーん?」


興味はあるのかないのか分からない相槌。

どうにか理解しようと考えを巡らせている様子を見せたものの、しばらくして返って来た言葉は予想通りのものだった。


「……よく分かんない」

「だろうな……」


小さくため息をつく。

湯気の向こうで、ティアが少しだけ身体を沈める気配がした。

子供のようにぷくぷくと泡を作っている音が聞こえてくる。



「でもさ」


ほんの少しだけ顔を上げた気配がしたと思えば、ティアが言葉を続けた。


「嫌じゃないなら、いいでしょ?」


あまりにも単純な理屈。


けれど——


「……そういう問題じゃないんだよ」


苦笑混じりに返す。


「難しいね」


「……お前が素直すぎるだけだ」


そう言うと、また小さく笑った気配がした。


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