シオン
角を曲がり、さらに細い通りを抜けると視界が開けた場所に辿り着いた。
建物の合間にぽっかりと空けたその場所は、小さな広場のようだ。
わずかに高い位置にあるのか、街の通りを見下ろせるようになっていた。
さっきまでいた大通りが下の方に見える。
人の流れも、ざわめきも、ここまで来るとどこか遠く感じられた。
そこでようやく、足を止め、石段のひとつに腰を降ろした。
「……はぁ」
張り詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。
肺の奥に溜まっていた空気が抜けていくのと同時に、ようやく身体の強張りが緩んだ気がした。
「余計なことを。あれくらい自分で対処出来た」
ほんの少しの苛立ち。
そして理解出来ないと言いたげな様子に苦笑を浮かべた。
「そうかもな」
複数人に囲まれて迫られても、動じていなかった。
それどころか挑発すらしていたくらいだ。
あのまま無視して、他の通行人と同じように通り過ぎたところで、目の前の少年は自分で解決していただろう。
だが、考えるよりも先に動いてしまったのだ。
少年はますます怪訝そうに眉を寄せた。
黒を基調にした紫の差し色が入った軍服調の外套の装いも相まって、冷たい印象を受ける。
「……だけど、礼は言っておく。……助かった」
まさか礼を言われるとは思っていなかった。
思わず少年を見ると、先ほどまでこちらに向けていた顔を背けている。
後ろ髪は首筋が見えるほどに短く切り揃えられているのに対し、横髪だけが不自然に長く残されている。
頬に掛かる横髪がふわりと揺れた。
淡い紫色が夕陽に透かされて優しい光を見せていた。
「おまえ。名前は?」
短くぶっきらぼうに名前を問われる。
だがその声音は、先ほどまでの突き放すような冷たさとはわずかに違っていた。
拒絶しているわけでもなく、かといって完全に受け入れるでもない。
そんな曖昧な距離がそこにあった。
「レイン」
名を口にすると、少年の視線がゆっくりとこちらへ戻る。
ほんの一瞬だけ、何かを測るように細められた紫の瞳。
やがて小さく息を吐くと、興味を失ったかのように視線を外した。
「……そうか」
短い返答。
それ以上、踏み込む気はないらしい。
沈黙が落ちる。
風が、少しだけ強く吹き抜けた。
高い位置にあるこの広場は、街の喧騒から切り離されたように静かで、代わりに風の音だけがやけに鮮明に耳に残る。
少年は立ったまま、柵にもたれかかるようにして下の通りを見下ろしていた。
その横顔は相変わらず無機質なものだった。
そのまま、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
沈黙は気まずいものではなかったが、心地よいとも言い難い。
ただそこにあるだけの、曖昧な空白だった。
やがて、柵に凭れていた少年がわずかに身じろぎをする。
「……レイン」
ぽつりと、名をなぞるように呟いた。
呼ばれたことに少しだけ驚き、顔を上げる。
視線が合うことはない。
少年は相変わらず、下の通りへと目を向けたままだった。
「変な名前だな」
「そうか?」
軽く返すと、少年は小さく鼻で笑うように息を吐く。
否定でも肯定でもない、曖昧な反応。
だがそれが、先ほどまでの距離よりもわずかに近いことは、なんとなく分かった。
風がまた一つ、強く吹き抜ける。
長く残された横髪が揺れ、その隙間から覗いた横顔が、ほんの一瞬だけこちらを向いた。
「おまえ……、変わってるな」
唐突な言葉だった。
「助けた理由もそうだが、その後の態度も。普通なら無遠慮に踏み込むか、一切関わらないかのどっちかだろう?」
一瞬呆気に取られ、思わず小さく笑みが零れる。
少年はそれを横目で捉え、眉をひそめた。
「……何が可笑しい」
「いや、悪い悪い。そういうこと気にするんだなって思ってさ」
「事実を言っただけだ」
ぴしゃりと返し、少年は再び視線を逸らす。
だがその仕草には、先ほどまでの完全な拒絶の色はなかった。
もう一度、風が吹く。
今度は少しだけ穏やかなそれが、二人の間を通り抜けていった。
その流れに紛れるように、少年がゆっくりと身体を起こす。
柵から離れこちらへと向き直ると、彼の紫の瞳が、まっすぐに俺を捉えていた。
先ほどのような探る視線ではない。
何かを決意したかのような、静かな色を帯びているように思えた。
わずかに間を置いて。
少年は口を開いた。
「シオンだ」
短く告げられたその名は、やけに静かに響いた。
「シオン」
小さく繰り返す。
呼び慣れない響きのはずなのに、不思議と違和感はなかった。
少しばかり、自分の名前と似ている響きだからだろうか。
名乗った本人は、それ以上何かを言うつもりはないらしい。
ただこちらを見据えたまま、反応を待っている。
「よろしく、でいいのか?」
軽く肩を竦めて言うと、シオンは一瞬だけ目を細めた。
「……好きにしろ」
そっけない返答。
だが完全に拒んでいるわけではない。
その曖昧さが、妙に彼らしいと感じた。
「じゃあ、よろしく」
そう言って笑ってみせると、シオンは露骨に視線を逸らした。
「馴れ馴れしいな」
「名乗ったのそっちだろ」
軽く言い返した、その時。
「レイン様。……そろそろ」
気の抜けたような声が、横から差し込まれた。
振り向くと、少し離れた位置に一人の男が立っている。
壁にもたれかかるようにして、こちらを見ていた。
「クロ」
短く彼の愛称を口にする。
それを合図に、シオンが柵にもたれていた身体を離した。
金属が微かに鳴り、支えを失ったように空気が動く。
「お仲間も待ち惚けのようだし、俺はそろそろ行くよ」
すたすたと歩き出しながら、こちらを振り返らない。
「……じゃあな」と呟きのような別れの言葉が聞こえた気がした。




