近すぎる距離
裂けた空間の向こうから、一歩、踏み出す。
遅れて、背後で空間が閉じた気配がした。
紙を裂くようでも、扉が閉まるようでもない。
ただ、そこにあったはずの“向こう側”が、静かに消失する。
「これで移動してたってわけか」
最初にティアの襲撃を受けた時も、遅れて姿を現したセレナとノクスも、どうやってあんな屋敷の奥まで入り込んだのかと思っていたのだが。
この力で移動していたのならば、警護の目も無視して目的の場所に来れるかと納得出来てしまった。
「便利でしょ~?お姫様のこの能力」
「便利ってレベルか?それ」
「そうですね……。疲れますし、使えるのも夜だけですから大したものではありませんよ」
「大したものじゃないってレベルじゃないだろ、それ……」
呆れたように息を吐く。
空間を裂いて移動する。
警護も壁も関係なく、目的の場所へ辿り着く力。
どう考えても、規格外だ。
その言葉を最後に、部屋を後にした。
——
自室に戻るなり、ベッドへ倒れ込む。
「……疲れた」
ようやく一人になった空間で、力を抜いた。
背中を預けたベッドは、上質な羽毛を惜しみなく詰め込んだものらしく、身体を包み込むように支えてくる。
深く沈みすぎず、それでいて反発も強すぎない。意識を預ければ、そのまま眠りに落ちてしまいそうな絶妙な硬さだった。
天井は高い。
視線の先に広がる白い漆喰には、細やかな装飾が施されているが、決して主張しすぎない。
窓から差し込む午後の光が、それらを淡く浮かび上がらせていた。
静かだ。
屋敷特有の、どこか現実感の薄い静寂。
部屋としては広くない。
それどころか貴族の屋敷としては狭いのに居心地が良い。
ふと思い出すのは先ほどの出来事。
呪華であるティアに4度……、既に1度使用済みだから残り3度、勝手に能力を使われたらあの男のように自分も命を落とす。
それをさせない意味でも、呪華であるティアに能力を使わせるのなら命令をしなくてはならない。
見たところ、強制使用時と命令による使用時は刻印の見た目すら変わるようだ。
先ほど確認した時に、首筋の紋が変化していた。
ただ蔓が巻き付いただけで、中心には何も無かった筈の紋だったのに、首の中心に完全に閉じた状態の蕾のような紋が増えていたのだ。
ベリス、といったか。
そのマスターであっただろう男の首にも紋があり、咲き掛けの花の状態だったというのに、最後の1回をべリスによって強制的に能力を使用された途端、紋の花が完全に開ききった。
1度目で蕾。
3度目で咲き掛け。
4度目で花が開く、といったところか。
あとは、強制使用時には見られなかったが、マスターからの命令での使用時にのみ、首の紋が淡く光を放っていた。
ノクスは強く念じるだけでもいいとは言っていたが……、出来るのだろうか。
「……はぁ」
小さく息を吐く。
身体は休んでいるはずなのに、思考だけが妙に冴えている。
さっきまでの出来事が、頭の中で何度も反芻されて頭が落ち着かない。
「……?」
ふと、微かな違和感を感じた。
それは音というより、触覚に近い何かだった。
布団の内側、すぐ隣。
もぞもぞと、不自然に生地が押し上げられる感触。
(まさか、……な……?)
嫌な予感が過ぎり、布団をそうっと捲った。
「………………」
そこにいたのは、まるで当然のように収まっているティアの姿だった。
このまま寝る気満々だとばかりに目を伏せている。
「いやいや!ちょっと待て!?」
驚きのあまり、思わず声が裏返る。
だが、当の本人はぴくりとも動かない。
寧ろ僅かに眉を寄せただけだった。
「うーん……、なに……?」
「なに?じゃない!なんでいる!?」
「眠いから……」
「眠いなら自分のベッドに行けばいいだろう!?流石にあるだろ!?自分のベッドくらい!」
唸るだけで目を開けようともしない。
これは間違いなくここで寝ようとしている。
「マスターは……、契約者と一緒にいるべき……」
「男と女が同じ部屋はマズいだろ!?」
そこまで言ってようやく目を開けて起き上がった。
その目には何故?と言いたげに疑問の色が浮かんでいる。
「セレナとノクスは一緒に寝てるよ?」
あー……、なるほど?
そういうことか?
普段一緒にいる人たちが男女だというのも関係無く一緒に寝てるのを知っているのなら、これがマズいなんて認識は皆無だろう。
というか、一緒に寝てるのかあの2人!?
さらりと告げられた事実に衝撃を隠せない。
マスターと契約相手の呪華。
人間同士ではないのだから良いのか……?
いやでも……。
悶々と考えを巡らせていると、突然視界がまわる。
「うわっ!?」
肩に手を回され、そのまま強引にベッドへと引き倒される。
ふわりとベッドの柔らかな感触が背中を受け止めた。
「なっ、おい!?」
慌てて身を起こそうとするが——
「……」
返事がない。
「……は?」
すぐ隣を見れば、ティアはすでに目を閉じていた。
さっきまで会話していたはずなのに、呼吸はもう静かに整っている。
完全に眠ってしまったようだ。
腕だけはしっかりと回されたまま、逃がす気もないらしい。
「……マジかよ」
溜め息混じりに呟く。
こうなったら抵抗するのも疲れるだけな気がして、力を抜いた。
隣から伝わる体温と、規則正しい寝息。
「……どうすんだよ、これ」
ぼそりと呟き、天井を見上げる。
当然、答えが返ってくることはない。
仕方なく、俺も目を閉じることにした。




