ベリス
気がつけば、空はすっかり色を変えていた。
茜色はとうに消え、街は夜の灯りに包まれている。
昼間の喧騒が嘘のように、どこか落ち着いた空気が流れていた。
「……そろそろ時間か」
「時間?」
「言ってたでしょ?見せてあげるって」
「ああ……そういえば」
昼間のやり取りを思い出す。
能力を見せると、確かにそんな話をしていた。
あまりにも普通の観光をしているように穏やかな時間を過ごしていたものだから、すっかり頭から抜け落ちていた。
「ま、そんな大層なもんじゃないけどね」
肩をすくめる仕草は相変わらず軽い。
だが、その足取りには迷いがなかった。
人の流れを抜け、賑やかな通りから外れていく。
やがて、足音だけがやけに響くような、人気の少ない路地へと入った。
明かりはまばらで、別の空間に迷い込んだのかと錯覚する。
「こんなところでやるのか?」
思わず問いかけると、ノクスはくすりと笑う。
「人目は少ない方がいいでしょ?」
それもそうか、と納得しかけた、その時。
ふと、足が止まる。
「……なんだ、これ」
ぽつりぽつりと足元に咲く可愛らしい花。
白い花弁が円を描くように広がり、その中心には小さな黄色が覗いている。
どこにでもありそうな、素朴でありふれた花。
1輪程度なら何も気にも留めずに通り過ぎるだろう。
しかし、目線の先には等間隔に同種であろう花が咲いているのだ。
白だけでなく、淡い桃色や、薄く青みがかったもの。
中心の色も、黄色だけでなく、橙や深い紅。
今立っているところは石床だ。
土など見当たらない。
ひび割れ一つない、硬く均された石の上。
それでも足元に咲くいくつもの花は、当然のようにそこに根を張り、咲いているのだ。
よく見たら石と石の隙間から咲いているのではない。
ただの平らな面から、花は伸びていた。
「うわぁああああああ!!」
辺り一面に響き渡る悲鳴。
聞こえてきたのは路地裏の先。
不自然に花が咲いている方向だ。
反射的に足が動く。
石畳を蹴る音が、やけに大きく響いた。
角を曲がった先で、視界が開ける。
足を踏み入れた瞬間、甘い匂いが鼻をついた。
むせ返るようなそれは、どこか場違いで、石畳の隙間や壁際から、白い花がいくつも咲き乱れていた。
その中心で、一人の男が尻餅をついていた。
腰が抜けているのか、後ずさることもできず、ただ必死に手を振り回している。
「来るな……!来るなぁっ!!」
既に下半身が白い花に埋め尽くされていた。
腰。腹。胸へと這い上がるように、白い花が次々と咲き広がっていく。
「やめろ、やめ――っ!」
腕を振り払おうとしたその手にも、指の隙間から、小さな蕾が押し開かれた。
ぶつり、と嫌な音を立てて花が開く。
「ぁ……ぁ……」
声が、細くなる。
首元へ。
顎へ。
そして――顔へ。
視界を覆うように咲き乱れる白の中で、男の動きが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、糸が切れたようにその場へ崩れ落ちる。
花に埋もれた体は、わずかに軽く見えた。
まるで、中身を吸い尽くされたかのように。
「あーあ。もう壊れちゃったの?」
場違いな程に明るく軽い声。
白い花畑の奥。
その向こうから、小さな影がひょこりと現れる。
ぱたぱたと足音を鳴らしながら歩み寄り、倒れた男の傍でしゃがみ込んだ。
細い指が、つんつん、と男の頬をつつく。
男がぴくりとも動かないのを確かめて、つまらなさそうに口を尖らせた。
「つまんないのー」
軽く息を吐いて、立ち上がる。
足元の花を踏んでも、気にした様子はない。
白い花弁が、かすかに揺れた。
「あれ?お兄さん達、ベリスの新しい玩具?」
こちらの存在に気付いたその小さな影は立ち上がり、嬉しそうに声を弾ませた。
その姿を見て、思わず「え」と声が漏れる。
ふわふわとした2つに結んだオレンジ色の髪。
蜂蜜色の大きな目。
可愛らしい白いワンピースを纏ったその幼い少女は、昼間のクレープ屋の店員だ。
「あ!お兄さん達お昼にクレープいっぱい買ってくれたお客さんじゃん!」
ぱっと顔を輝かせ、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
無邪気な足取り。無防備な笑顔。
「また来てくれたの?うれしいなぁ」
くすくすと笑いながら、べリスと自分を称した少女は首をかしげる。
きらきらとした蜂蜜色の瞳が、まっすぐに向けられる。
「さっきまでおじさんと遊んでたんだけどね、すぐ壊れちゃったの。だからね――」
一歩、こちらへ踏み出す。
足元の花が、ぞわりと波打った。
「今度は、お兄さん達がべリスと遊んで?」
にこり、と。
昼間と同じ笑顔で、べリスはそう言った。
「お兄さん達は、どれくらいもつかなぁって」
無邪気な声。
べリスが一歩踏み出した瞬間、足元の花が一斉に弾けた。
「下がれッ!」
クローディアスの叫びとも取れる声と同時に後方へと引っ張られる。
途端に地面から白い花が一斉に噴き出す。
鋭く伸びた茎が、槍のようにこちらへ襲いかかった。
先ほどまで立っていた場所を、鋭い茎が貫いた。
「あは!すごいすごい!」
ぱちぱちと手を叩く音と共に、楽しげな声が弾む。
「ちゃんと避けられるんだね!」
べリスは嬉しそうに笑う。
その足元では、次々と花が芽吹き、領域を拡大していく。
「すぐに壊れちゃ嫌だからね?」
にこり、と。
無垢な笑顔のまま言った。




