黒ユリの不安
陽がのぼった時間帯。
レインとティアに割り振られた部屋に、前日と同じように全員が集まっていた。
慣れた手つきで俺が注いだ紅茶を、ノクスがゆっくりと口へ運ぶ。
ひとくち。
味わうように間を置き、静かに飲み込む。
そして、こちらへ視線を向けた。
金の瞳が細められる。
「それで、逃げられちゃったんだぁ」
そしてにっこりと笑い、ひと言。
「お・間・抜・け・さん♪」
明るい声音で、人の神経を逆撫でする言い方。
そんなノクスの言い方に苛立ちが込み上げるが、なにも言い返せない。
理由はどうあれ、取り逃したことは事実なのだから。
「だいたいおまえもなにぐっすり寝てるんだよ。おまえも起きて来れば取り逃がすことも無かっただろうが」
苛立ち混じりに言うと、ノクスがくすくすと笑った。
「やーだね。八つ当たりはみっともないよー?夜間は部屋の外に出るなって言われたじゃーん。それにボクたちが来たところで一緒一緒~」
片手の袖をひらひらと振る。
「別にそんなこと無いと思うけどなぁ」
ノクスの向かいの席で、レインが紅茶を飲みながら呟いた。
普段ならばレインの隣に当たり前のように座るティアの姿が、そこには無かった。
夜中の襲撃の一件以来、彼女はずっと壁際に座り込んだまま動かない。
そんな彼女が突然立ち上がる。
なにも言葉を発さないまま、まっすぐにこちらへ向かってきた。
そして、ぐいっと強い力で俺の腕が引かれた。
抵抗する間もなく、そのまま部屋の外へと引きずられる。
「おい!?どこに連れて行くつもりだ!?」
驚きのあまり、思わず声が上がる。
問い掛けても、ティアは一切答えない。
黙ったまま、部屋の扉へと向かっていく。
彼女が何を考えているのか分からないまま、俺は半ば強引に部屋の外へ連れ出されていった。
先ほどの部屋の隣に位置する部屋。
俺が使っている部屋へと、ティアに半ば強引に押し込まれた。
「急になんなんだよ!?なにがしたいんだおまえは!?」
強引に連れ出され、苛立ち半分、困惑半分で問い掛ける。
だが、ティアは無言を貫き、なにも答えない。
こちらに背中を向けたまま、黙っている。
「ティア?」
呼び掛けても、すぐには反応が返ってこない。
しばらくして、ようやく小さく口を開いた。
「あの、私って……」
ゆっくりと、ティアがこちらに振り向く。
口にすることすら、躊躇っているような声。
言い出しづらそうに、自信無さげに、表情を曇らせていた。
そして、ぽつりと零されたひと言。
「臭い……?」
そのひと言に、少しの間、沈黙が流れる。
なにを言い出したのか、理解が遅れ、
「……はぁ?」
思わず、素の声が漏れた。
手袋を嵌めた手で、こめかみを押さえる。
ここに来てから、ズキズキとずっと続いている鈍い頭痛が、さらに強くなったような気がした。
思わず頭を抱えたくなる衝動を押し殺しながら、深く息を吐く。
「はぁ……」
溜め息を吐くと、ティアが余計に不安そうな顔を浮かべた。
「あの子どもに言われたことを気にしてるのか」
「だって、生臭いって言われた」
その言葉に、もう一度深い溜め息を漏らす。
「誰もそんなこと思ってないから安心しろ。あの子どもの鼻がおかしいだけだ」
「でも……」
まだ納得出来ないといった様子で言い淀む声に、さらに言葉を続けた。
「それこそ、レイン様に訊けばいいだろうが」
「訊けないよ!」
即座に返される、切羽詰まった声。
「そんなの、訊けないよ。もし、臭いとか、体臭気になるとか言われたら、……立ち直れない」
「ならノクスやセレナでもよかっただろう。おまえの保護者みたいなものだろうが。それなのに、なんで俺に訊く」
呆れ混じりに返すと、ティアは真っ直ぐにこちらを見ながら答える。
「セレナはそういうことはっきり言ってくれないし、ノクスが真面目に答えてくれると思う?」
「あー……」
思わず声が漏れる。
(確かに)
頭の中で、あの軽薄そうな笑みが浮かぶ。
まともに答える姿は想像できない。
茶化されてからかわれて終わるのが目に見えていた。
その光景を想像して、肩を竦めた。
「思わないな……」
「でしょ」
「はぁ……」
もう何度目か分からない溜め息が、自然とこぼれてしまう。
「ノクスも言ってただろう?おまえたちには体臭も、花の匂いもしない。したとしても、衣服についた香水や石鹸の香りくらいだ」
自分で口にしておきながら、気まずくなり、思わず苦い顔を浮かべてしまう。
「……というか……。その理屈だと、レイン様が臭うということになるんだが……」
目の前に立つティアへと視線を向ける。
レインに頼まれるまま、ティアの体躯に合わせて調整したレインの黒い上着。
彼自身がティアに譲ってしまったのだから、今では完全に彼女のものなのだろうが、元を辿ればその上着はレインのものだ。
この会話がどういう意味を持つのか考えて、複雑な思いを抱いてしまった。
そんな俺の胸の内に気付くわけも無く、ティアが不思議そうに首を傾げる。
「?レインは良い匂いだよ?」
「知ってる」
即座に返した。
「だからあの子どもだけが感じる臭いだろうさ。同じ呪華同士、おまえたちだけで感じ取れるなにかがあるんだろ。前にもあった筈だ」
ティアと同じ、黒ユリの呪華。
コレットを目の前にした時。
言葉を交わす前より先に、ティアは彼女のことを明らかに警戒していたのだから。
はっきりと嫌いだと口にして、警戒心を露わにして、レインの後ろにさえ隠れる。
普段のティアは掴みどころがない。
初対面でも物怖じせず、興味を持てば距離を詰めてくる。
その一方で、気に入った相手には驚くほど素直に懐く。
まるで気まぐれで動くネコのように。
そんな自由気ままな彼女からは想像できないほど、明確に拒絶していた。
無意識に同種の呪華間で、感じるものがあるのだろう。
「そういえば……、なんとなく近付きたくないって思うかも」
ティアがぽつりと呟いた。
「そういうことだ。だから気にするだけ無駄だ」
「そっか……。そう、だよね……」
しみじみと呟く声。
ようやく納得してくれたようで。
その表情にはようやく安堵が浮かんでいた。
「……そうだ。もうひとつ」
ティアが背中を向けかけて、ふと思い出したように口を開いた。
「クローディアスは、ここを知っているの?」
その問いに、首を左右に振る。
「そんなわけ無いだろう?ここに来るのはおまえたちと同じ、これが初めてだ。そもそも他に入り込む手段も無いのにどうやってここに来るんだ」
「それもそうだよね……」
ティアは小さく頷いた。
納得したようで、まだどこか引っ掛かりが残っているような表情を浮かべている。
「なんでそんなことを訊くんだ?」
「……ううん、なんとなく」
曖昧な返事を返すと、小さく首を振る。
そのまま、ティアは背中をこちらに向けてしまった。
「変なこと訊いた。ごめんね」




