救済という名の取引
「――ダメだよ。その人たちを殺したら」
突然、どこからか声が差し込まれた。
聞き覚えのある、低く穏やかな少年の声。
少女の大鎌が振り下ろされる、その直前。
ティアと少女の間に割り込むように、一人の少年が立っていた。
朱殷色の髪の少年。
黒いロングコートを纏ったその後ろ姿には、見覚えがあった。
カーディナ家の禁書庫で、俺たちに後ろから声を掛けてきた、あの呪華の少年だ。
少女の振り下ろした漆黒の刃が、少年へと届いたと思った直後。
大鎌の刃先が、音もなく崩れ始めた。
黒い刃だけではない。
弧を描きながらティアへと迫っていた鎖までもが、少年に触れた先から、赤い光の粒となってほどけていった。
『え……』
少女の目が、驚愕に見開かれ、小さく声を漏らした。
そのまま、どしゃりと鈍い音を立てながら床に倒れ込んでしまう。
「この人たちを殺したら……、君の苦痛も、怨嗟も、無意味なものになってしまう」
朱殷色の髪の少年は、倒れ込んだ少女を見下ろしながら静かに言った。
『なに、わけわかんないこと言っているの……。邪魔をしないで!おまえも!こいつらと一緒に殺してやろうか!?』
少女が床に手をつきながら叫ぶ。
彼女の紅い瞳にはまだ、憎悪と激情が滲み出していた。
「君には無理だよ。あくまでも記憶の再現でしかない君には僕は殺せない。君は特別だから、侵入者である彼らに干渉出来る。でも、だからといって、夢の主である僕にまで危害が加えられるわけないじゃないか」
少年の言葉に、引っ掛かりを覚えて、立ち上がる。
警戒は緩めないまま、彼の背中を睨み付けた。
「おまえが、俺たちをここに閉じ込めた張本人か」
そんな俺の様子に、少年は困ったように小さく笑う。
「ごめんね。これも僕の契約者の命令なんだ。思う存分恨んでもらって構わない」
謝罪の言葉を口にしながらも、悪いとは思っていない。
まるで仕方なかったと言いたげな声音だった。
「ここで負った怪我は、そのまま現実に反映されてしまう。まだ、こちらとしても、そこの少年を殺されるのは困るんだ。この子も大怪我なんて負ってしまえば、そこの少年が死を覚悟してでも治療しようとするかもしれない。よほどの馬鹿か、根っからのお人好しならやりかねない。そんな事態はこちらも望んでいないんだ。ただ、ここの記憶を見せて揺さぶりを掛けるだけで良かったのに」
不意に。
ダンッ!!と、渇いた衝撃音が廊下に響いた。
少年は表情ひとつ変えないまま、倒れていた少女の頭に片足を叩き付けていた。
「ごめんね、リリィ。君はもう用済みだ。――ゆっくり、おやすみ」
まるで壊れた道具でも処分するように、躊躇いの無い動作だった。
リリィと呼ばれた少女が、『あ……』と小さく声を漏らす。
その呟きを最期に、靴底で叩き付けられた箇所から崩れ始めた。
粒子となって。
先ほどの大鎌と同じく。
赤く淡い光へと変わりながら。
頭から足先に向かって、順番にリリィの身体がほどけていく。
その光景を見届けるよりも先に、俺は反射的に動いていた。
少年の背後へと踏み込み、短剣をその背中に突き付けた。
狙いは心臓の位置。
呪華の核があると言われている場所だ。
「どういうつもり?」
刃を向けられているというのに、動じることも無い。
振り返ることもせず、穏やかな口調のまま少年が問い返してきた。
「おまえがこの空間の主だって言うんなら、俺たちを現実に帰せ。出来ないとは言わせない」
短剣を握る手に、自然と力が入る。
俺たちがこんな場所にいる原因はこいつだ。
安全な場所だろうが危険な場所だろうが、関係無い。
ただ一刻も早くここを出たかった。
いつまでもこんな場所にいたら、ティアが苦しそうで、見ていられない。
今は戦闘の緊張で、先ほどまでの苦痛を忘れられているように見える。
けれど、それがいつまたぶり返すか分からない。
静かに涙を零していた顔。
そして、頭が痛いと苦し気に訴えていた姿が、まだ頭から離れない。
そんな焦りと苛立ちが、そのまま冷たい声となって口から出てしまう。
「それが助けてもらった相手に対する態度なんだ。……ま、別にいいけど」
少年は肩を竦める。
そして顔だけをゆっくりとこちらに向けた。
「安心してよ。最初からそのつもりで割り込んでるんだ。信用しろなんて言っても、無理だと思うけど」
途端に、一際大きな揺れが襲った。
「軸に設定していた彼女を完全に潰してしまったから、ここももうダメだね。じきに崩壊する。半分壊された時点でだいぶ不安定になってたけど、もう限界のようだ」
少年は崩壊していく天井を見上げながら、どこか他人事のように呟いた。
そしてこちらへと身体ごと向き直る。
俺たちの前に、すっと片手を差し出してきた。
「僕は君たちを失うわけにはいかない。それは契約者の命令に背くことになる。だから、ここはただ、僕を利用してくれればいい。この手を取ってくれれば、僕は君たちを安全に元いた場所へと戻すと約束しよう。……それでも、信用出来ないって言うのならば、僕に魅了でも掛けて言うことを聞かせれば良い」
「なんでそれを……」
気付けば、疑問が口を突いて出ていた。
ティアの能力なんて、この男の前で見せていない。
それなのに、何故そのことを知っている。
ティアの契約者である俺でさえ、本当にその能力が使えるのかさえ確信を持てていないままだったというのに。
元々はコレットが使用していた能力。
見つめた相手、
あるいは触れた相手を魅了し、意のままに操る力。
禁書庫で、ティアがコレットの武器をそのまま使っていた姿を目にしてから、その可能性を考えてはいた。
だが、実際に使ったことは無い。
だからこそ推測の域を出なかった。
けど恐らくティアは。
コレットの能力も。
特性も。
戦い方さえも。
すべてを取り込み、自分のものとしている。
けれども、少年は答えなかった。
ただ一言、口にするだけ。
「今はそんなことを話している時間なんて無いでしょ」
と。
視界の端で、大きく壁が崩れ落ちる。
少年の言う通り、時間があまり残されていないことは明白だった。
「どうする……?」
判断を求めるように、ティアが問い掛ける。
視線は少年へと向いたまま、警戒は解いていない。
「……変な真似をしたら殺す」
短剣の切っ先は、今もまだ、少年の背中に突き付けたままだ。
もし少しでも、危害を加える素振りでも見せれば、このまま核を貫く。
あるいは、こいつの言う通りに、ティアの力で魅了して命令を聞かせるか。
元居た場所に戻させた後、自害をさせるという手もある。
そんな物騒な考えを浮かべながら。
空いている左手を伸ばし、少年の手を取った。
「交渉成立」
少年は満足そうに、小さく呟く。
その口元には小さく笑みが浮かべられていた。
直後。
目の前に、ひらひらと幾つもの彼岸花が舞い落ちた。
まるで視界を覆い隠すように、視界が鮮やかな赤に染まっていく。
それと同時に、足元がひどい浮遊感に襲われた。
「――そうだ。行き先が決まっていないのなら、ソリトゥスに向かうといい。きっと、君たちの知りたい情報が得られるよ」
少年の声が、花の向こう側から聞こえる。
身体にまわされたティアの強い腕の感覚だけを感じながら。
やがて、意識が徐々に薄れていった。




