ユルサナイ
少女はひょいっと軽い身のこなしで、スツールから飛び降りた。
膝の上に乗せていた黒ネコのぬいぐるみを、ぎゅっと胸に抱き寄せる。
鼻歌を歌いながら、円を描くように歩き出した。
俺とティアの周囲をなぞるように、ゆっくりと。
先ほどまで彼女がピアノで奏でていた曲。
柔らかく、どこか懐かしさえ感じる旋律が、口遊まれていく。
不意に、袖が引かれる感覚がした。
手元を見ると、ティアが俺の袖をぎゅっと掴んでいる。
「ティア?」
彼女の名前を口にしながら顔を上げる。
視界に映り込んだ彼女の様子に、息が止まってしまった。
目元に溜まった涙が耐えきれずに溢れ、ぽろぽろと静かに頬を伝い落ちている。
声も出さず、静かに泣いていた。
「レイン……、なんでだろう」
絞り出すような、小さい声だった。
ティアは顔を上げたまま、何度も瞬きを繰り返した。
止めようとしているのに、止まらない。
瞬きをするたびに、堪えきれなかった涙の粒が頬を伝って零れ落ちていく。
「なんでか分からない。分からないけど、勝手に涙が出てくるの……私、この曲なんて知らないのに。全然知らない筈なのに……。涙が出てきて、止まらないの……」
握りしめられた袖が、さらに強く引かれた。
まるでそこだけが、この場に繋ぎ止めてくれる唯一の支えであるかのように。
離してしまえば、何かが一気に崩れてしまいそうな不安が、その指先に滲んでいた。
俺はその手を振り払うことも出来ず、ただティアの横顔を見つめることしか出来なかった。
「この曲を聴いていると、どうしてかな……。私……、なにか、とんでもないことをしたような……。そんな気がして仕方ないの……」
不意に、少女が足を止める。
口遊むのもやめ、ティアの顔を下から覗き込んだ。
『泣いて、いるの?』
柔らかい声音で問い掛ける。
その声は、夢で彼女の姿を見た時よりも、先ほどよりも、大人びた声音をしていた。
もっと無邪気で、年相応とも思える声をしていた筈なのに。
目の前で問い掛ける少女は、落ち着いた声をしている。
『泣いて……、いるの……?』
少女がもう一度、同じ言葉を繰り返す。
ティアの頬を伝う涙を見つめながら、少女は小さく首を傾げた。
『どうして?どうして、あなたが泣いているの?どうしてあなたが悲しんでいるの?
何度も“どうして”と繰り返される。
それから小さく笑う。
口端に弧を描き、歪んだ笑みを浮かべながら言葉を続けた。
『4つに引き裂いて、記憶すらも、感情すらも捨てたくせに。ねぇ、どうして?』
(記憶と、感情を捨てた……?
それも、4つに裂いて……?
どういうことだ……?)
言葉の意味は分かる。
だが、理解が追いつかない。
(記憶を捨て、感情を裂くなんて、そんなことが本当に可能なのか?
もし、本当にそんなことが可能だったとして……。
どうしてそんなことをする必要があったんだ……?)
隣では、ティアが小さく肩を震わせていた。
涙に濡れた瞳を揺らしながら、必死に首を横へ振る。
ここに踏み入る直前とは打って変わって、弱々しい様子を見せている。
「なにを、言っているのか分からない……。私はそんなこと、知らない。覚えていない」
知らないはずなのに。
覚えていないはずなのに。
完全に否定しきれていなかった。
少女はそんなティアをじっと見つめたまま、静かに口を開いた。
『忘れるべきでは無かった。目を逸らすべきでは無かった。背負うべきだった。私の罪を。あなたの罪を。それなのに、あなたは忘れてしまった』
淡々としているのに、どこか重い響きで告げられる。
事実を並べるように、ティアを責め立てていた。
それまで笑っていた少女から笑みが消える。
ティアの両頬に手を添えて、顔を寄せた。
次の瞬間、少女が纏っていた空気が一変した。
『ユルサナイ……』
ぽつりと零される言葉。
それを皮切りに、少女は言葉を続けた。
『ユルサナイ。ユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイユルサナイ――』
壊れた機械のように、何度も繰り返される言葉。
まるで複数の声が重なっているみたいに、不気味に反響して頭が痛い。
耳を塞ぎたくなるのに、頭の内側へ直接流し込まれてくるような感覚。
「嫌……。嫌、聞きたくないっ……!そんなの知らない!私は!何も知らないっ!!」
ティアは咄嗟に耳を塞ぐ。
けれど、それでも声は止まらない。
頭の奥を掻き回すみたいに、何度も、何度も響いてくる。
悲鳴のような叫びだった。
涙で濡れた瞳が大きく揺れる。
呼吸は乱れ、今にも崩れ落ちそうなほど追い詰められている。
それでも少女は笑っていた。
口元はこれでもかと歪んでいるのに。
その顔は泣きそうな顔を、
壊れてしまいそうなほど悲しそうな顔を浮かべていた。
反射的に、体が動いた。
気づいた時にはもう、一歩踏み出していた。
ティアを背後に隠すようにして、少女の前へと割って入る。
背中越しに、かすかに震える気配が伝わってくる。
振り返ることもしないまま、真正面の少女を睨み付ける。
「やめろっ!!それ以上、ティアを苦しめるなら、俺がおまえを許さない」
少女はその言葉を受けて、瞬きをした。
まるで予想していなかった反応を見た子どものように。
そしてゆっくりと、唇の端を歪めた。
『きゃはははははは!!!』
弾けるような笑い声が庭園内に響き渡った。
「な……、なにがおかしい!」
『おかしいわ。おかしいわよ。こんな滑稽なことがあるかしら。こんなの!おかしくって、笑わずにいられないわ!だって――』
『あなただって、あの人の魂の入れ物として用意されただけの、身体なのに』




