09.差し出される手と驚愕の乙女
使用人用の風呂場には湯船があるものの、それ一杯に湯を溜めようとすると非常な重労働になる。よってサキの夜の支度は、大きめの盥にお湯を張り、足先と腰を温めつつ身体を拭くだけという、お風呂大好き温泉サイコーを叫ぶ民族出身には侘しいものである。
そうして温めた足が冷える前にと急ぎ足で戻った客室の壁に貼られた暦を見て、サキは溜息を落とした。
「……いつの間にやら四月も下旬に入るじゃぁん……」
こちらの暦は一年十二ヶ月、基本は一ヶ月三十日で、一・三・六・九・十二月はプラス一日。一月初日の『年初め』の日と、春分・夏至・秋分・冬至の祭日が置かれているからだが、これらの日は『なんにち』という数字を持たない。『なんのひ』という記号がカレンダーの数字の中に置かれているだけだ。年初めの日以外は例年、該当月の二十日過ぎ辺りになる。
ちなみに竜公爵が竜の加護を得た『花の祝典』は春分のお祭りである。
蛇足すれば秋分のお祭りは『豊穣の祝宴』という。
こちらに来て丸二年を過ごしたので、一通りの年中行事は把握できた。
そうして感慨に耽ったサキは、最近とみに増加している溜息をまたも落とした。
サキがこちらに迷い込んで老爺に保護されたのは、社会人三年目の三月下旬。その当日、こちらの暦ではちょうど四月一日――サキの誕生日、だった。
数日足りてないけどまぁ面倒だし、と来たその日を誕生日に繰り上げたことで、サキは二十一の誕生日を祝うことなく終わらせた。二度目の誕生日は「去年お祝いできなかったからね!」と張り切った老爺に、森の暮らしなりに豪勢な食事でお祝いされた。そしてつい先日、三度目の誕生日を、やはりできる限りの贅沢で祝って貰ったところだった。
のだが。
その翌日の夜には「お城に行くよ!」と言われ。
更にその翌日の夜には王城に宿泊していて。
いつの間にやら離宮のゴージャスベッドで迎える夜が二桁に乗って。
老爺が、にこやかに祝う笑顔の裏で引き籠りの社会復帰をさせるつもりでいたなんぞと思えば、無表情を装った眼鏡の下でちょっと喜び照れをしていた自分が愚かしい。
離宮滞在も半月となるが、竜公爵の反応は未だにない。
ただ、極々小さな変化は生じた。朝、竜公爵の応接間に入るとカーテンが開けられているようになったのだ。これまではサキが、毎日朝食後に開けて夕食後に引いていたカーテンである。夕食後に引くのは今も変わらないが、朝のご挨拶に伺うときには光が燦々と入っている。今日で三日連続だったので、恐らく明日の朝も同じく開けられているだろう。
――離宮内に限りうろついているという話の裏付けが取れましたね、と。騎士さんに報告するレベルなのかどうなのか。
そもそも報告の義務は課せられていない。指示されたことは「竜公爵のお傍でお世話をしろ、外に引っ張り出せ」のみだ。お世話もできていなければ外に連れ出す算段もつかない現状では、変化の内にも入らないかもしれない。
「……まあ、別に期限が切られている訳でもなし。おじいちゃんもなにやら仕事を言い付けられて忙しくしてるみたいだし。のんべんだらりも過ぎると厳しいねぇ」
さすがに話し相手が恋しくなる。
独り暮らしの頃でも会社では事務連絡から雑談まで会話は発生したし、だから反動で休日を一言も発さないまま引き籠っていても気にならなかった。森暮らしでは朝夕に必ず老爺が居た。
しかし、事務連絡すら数日置きの現状は少々キツイ。室内に居ると小精霊たちに構って貰えないのも地味にくる。まめに物干し場まで行くしかないのか。
「……」
大した労働もしていないのに妙に疲れた気分になって、力なく布団に潜り込んだサキだった。
◆◆◆
日の光のない、薄暗い朝。風もなくしとしとと静かに、しかし止む気配は欠片も見せずに外界を滲ませるものがあった。
サキが竜公爵の離宮に放り込まれて二十日ほど、初めて迎えた雨の朝。
「竜公爵おはよーございますサキでーす。今日は雨です引き籠り日和です最高ですねー」
朝食を終え、雨なので洗濯には手を付けずにいつもより少し早目に竜公爵の部屋を訪れ、覇気のない挨拶を扉の向こうに投げる。今日も今日とて扉の向こうからは音もせず気配が無いが、応接間のカーテンはきちんと開けられていた。
そうして、いつもと同じ、長い静寂の時間を迎える。
離宮に来て以来、変わらず続くサキの独り言タイムである。
割とシリアスに取られる身の上話を三回繰り返しても無反応だった時点で、サキは色々諦めている。まず、真面目な話をするのは放棄した。自分が疲れるだけだからだ。そうして思いつくまま日本昔話に学校唱歌、無駄に暗記した文法の活用形や元素周期、うろ覚えの落語ネタに教科書文学のダイジェスト、これまたうろ覚えの邦楽メドレーなどを転々と。返事を求めない一方的な独り言を垂れ流している。
今日はどうするか、と思いつつ窓を見遣る。格子状の枠に嵌められた板硝子は滑らかだが、サキの眼鏡の硝子に比べて透明度はやや低い。それでもその向こうに、濡れる庭が見えた。
「雨。雨の話……思いつかない。うーん、雨の歌。――あぁ、」
思いついた懐かしい童謡の一節を口遊んで、ふと沈黙する。
淡く水に霞む外の世界、穏やかに落ち続ける雫、周囲を切り離すような――或いは周囲から切り離されるような、静寂の空間。
緩慢な動作で立ち上がり、覚束ない足取りで掃き出し窓に寄り、ぎこちない手付きで開けて、濡れた石畳に踏み出した。
ぱしゃり、ぱしゃりと、一歩ごとに小さく水音が弾ける。髪に服に柔らかに降り注ぐ雨は静かなのに、大地に落ちてしまえば妙な存在感を醸し出す。建物の周りに整えられた石畳を越えて庭に足を着ける。びしゃ、と濡れた芝生とその下の土が先程より大きく水の存在を伝えた。
サキが履くのは柔らかな布の靴、浸水は早い。暦は四月の終わりに近いが、水遊びにはまだ寒さを覚える気温だ。――けれど、サキは雨除けになる樹には眼も向けず、腰丈の灌木の傍で天を仰いだ。
眼鏡を隔てるから雨粒は目に入らない。雫は音を立てずにただレンズを濡らし、僅かな傾斜を辿って縁から零れ落ちて行く。鼻先に額に頬に、静かに降り注ぐ雨はまろやかな輪郭に沿ってこめかみに、顎から首に耳朶にと流れて行く。
「――――……」
先よりも一節長く口にして、唇を固く引き結ぶ。
嫌いな歌だ。
傘を持たない雨の日。母親の迎えを喜んで、水と戯れながら帰る途中に傘を持たない子に傘をあげて、自分は母親とひとつ傘に寄り添って。そんな素朴で温かな情景を謳ったものだ。
でも。
「――お迎えの来ない子供は、ずぅっと独りで泣いていろ、ってか」
サキの視点は傘を与えられた子供の側になる。雨に濡れて木の根元で泣いている、家に帰れない子供。
――帰れないのは傘が無いからじゃない。同情して傘を貰ってもどうしようもない。むしろ見覚えの無い傘なんて持ち帰れば、どこから盗って来たかって怒られるオチが付く。
自嘲が零れる。歪んだ解釈だと自覚しているけれど、もうずっと昔に芽生えた思いを変えるのはなかなかに難しい。
眼鏡を外して胸元に垂らし、瞳を閉じて再び天を仰ぐ。両手を広げて雨を抱く。
「……――――」
嫌いなのに、すべて歌えるのはどうしてだろう。きっと同級生らは一番しか、或いは特徴的な擬音しか、覚えていないだろうに。
閉じた瞼の隙間から熱を帯びた水が走り、けれど、こめかみに辿り着く前に冷たくなって、雨粒に紛れて流れて落ちた。
どれほどそうして突っ立っていたのか。頬や掌を撫でていた感触が途絶えたことに、小精霊たちかな――と、思った瞬間になにかが頭から被せられた。
「おほぅっ!?」
奇声を上げて瞳を開けばそれまで灰色だった上空が白一色に覆われている。腕を振れば大判の布を絡め取った。風呂上りに使う拭き布を被せられたと気付いて、頭から胸元までを覆う布を取り去るのを躊躇った。
この離宮に近付く人物は限定される。騎士殿と、サキが来てからは未訪問だが王太子。老爺も立ち入りは問題ないが布を被せる前に一言あるだろう。それ以外の人間が玄関より奥の敷地に入ることは無いと聞いている。
だから、足音をさせずにサキの背後を取り、気配を感じさせないままに布を被せて来た人物は。
とりあえず布から顔を出すのは避けて、濡れて冷えた身体を抱き込むように乾いた布を巻き付ける。途端、ぶるりと背筋が震えた。霧雨レベルと甘く見たかもしれない、完全に浸水した靴の中で、冷えた足先が痛みを訴え始めている。布を握り締める指先はその柔らかさを感じ取れず、代わりにじんじんとした感覚を伝えて来るから、こちらも大分危うそうだ。
「……ぁあ、あったかい。うん、寒い。冷えた。風邪ひける。てか、しもやける」
風邪はともかく、しもやけは情けない。熱に魘されるより痛痒さに悶える方が、周りから見てもかける言葉が無いだろう。間抜けすぎて。
うんうん、と、ひとり頷いて、しかしどうするかと動きを止める。
窓から庭に出て、適当なところで止まって立ち尽くしていたから、戻るべき建屋は後方にある。そして、その前に――というか、恐らくはサキのすぐ背後に、障壁が居る。
――来たとき同様に足音なく部屋に戻ってたりは…………してない。ヒッキーがヒキコモ日和に出歩くでない!
もぞりと布の中で眼鏡を掛け直し、裾を引き上げて斜め後ろを覗いてみれば、濡れた芝生の深緑を踏んで白い物体を確認。白い靴は泥汚れが半端なく目立つから雨の日に履いて歩くんじゃない、などと、どうでもいい突っ込みと共に、引き籠りが本当に出て来ているらしいことに理不尽な罵りを心中で繰り広げる。
「えぇと。まさかの竜公爵ご本人様でしょうか」
いつまでも突っ立っていたのでは折角の拭き布も雨に濡れになるのを待つだけだ。思い切って声を掛けてみたサキだったが、返ってくるのは重苦しい沈黙のみという非情な現実。
「あーのー……、タオルは有難いんですけど、これ被ったまんまじゃなんも見えないんで顔は出したい訳ですよ。そうすると竜公爵のご尊顔を拝見することになるんですけど。よろしいでしょうかね、わたしはいいんですけどね」
身動ぎした気配だけは察せられた。やはり顔を見るのはマズイらしい。
ならば一足先に戻ってくれれば良いものを、しかし白い靴は動くことなく深緑を踏み締めたまま。どうしたものかと膠着した状況に溜息を落とす――より先に、ぶるりと再び背筋が震えた。完全に身体が冷え切っている。
視線を地面に固定して行けばなんとかなるか、と開き直って回れ右。布は被ったまま、裾を前に浮かせて足元が確認できる状態にして、建物に向かっての第一歩を踏み出したところで膝が笑う。冷えて動きがおかしい。ついでに歯の根が合わなくなってカチカチ鳴り出している。
危なっかしい足取りで二歩目を踏み出したところで、なにかが行く手を塞いだ。
恐らく、竜公爵の、腕。
通せんぼ、というより軽く抱き止めるような、微妙な感覚に眉根を寄せたところで腕が離れ、――サキの身体が浮いた。
「ふへぃ!?」
再び奇声を上げた。
ぎしりと身を固めて全神経を研ぎ澄ます。
――――まさかの姫抱っこ。……貴族様の基本仕様デスカ……?
背中と膝裏に腕を回されて抱えられていた。
とても慎重に思える、ゆっくりとした歩みで運ばれる。
いちいち驚くのも面倒臭い、と言って憚らない物臭代表のサキだが、これはさすがに意表を突かれた。
推定イケメンの竜公爵。三年の引き籠り生活で、ひょろりなモヤシになってはいないかと危惧したことも実はあるのだが、今現在、サキを軽々と抱えている状況を鑑みれば相応の筋肉は持ち合わせているようだ。いわゆる細マッチョくらいの筋肉は所持しているのだろう。
高貴な身分の青年に丁重に抱えられている自分。
いっそ米俵よろしく肩に担がれた方が気は楽だったと思う。心底思う。
被った拭き布を力の限りに握り締めて身を縮めた。
潤う気のない枯れ具合でも紛う方なき乙女である。
嫋やかな淑女ではないが清らかな乙女なのだと全力で主張させていただく。
不意に軽く揺すられて喉の奥で叫びを押し殺した。抱え直しただけかも知れないが、硬くなっているサキを宥めたようにも感じられてますます居心地が悪い。
――早く降ろしてクダサイ。
降ろされるまでの時間が、永遠にも感じられた。
作中の雨の歌は、ぴっちでちゃっぷなアレです。
引用はしませんでしたが、詩・曲とも著作権失効の条件を満たしているようです。




