10.天岩戸の向こうと動転の乙女
サキは――首藤早月は、抱き締められたことの無い子供だった。少なくとも幼少期の物心ついた頃から、なんの手違いか異世界に迷い込むまでの約二十一年間、愛情表現として抱擁された記憶はない。
シングルマザーとして早月を産んだ母親は物心つく前に亡くなった。遺された母子手帳だけが唯一の繋がりで、名前の由来もそこに書き込まれていたから知れたことだった。愛情を持って産み育ててくれていたとは思えるが、しかし記憶に一切ないので返せる感情は無い。自分でも随分冷めていると思う。
母親の死後、引き取ってくれた祖父母は正しく『世話』をしてくれた。衣食住の保証、保育園を経ての小学校入学、それらに必要な会合や道具など、過不足なく対応してくれた。彼らの意に沿わないことをすれば厳しく咎められたが、手を上げられたことも食事を抜かれたことも無かった。
けれど、それだけで。
亡き母の思い出を語ってくれることはなかった。運動会の保護者競技のような、共同で行うイベントに参加してくれることも。
死んだ娘の子供、一般的には孫と呼ばれる存在だから。養育できない経済状況ではないから。手元に置かないことは世間体が悪いから。
だから。
早月の母親は、彼らにとってはたった一人の娘だった。そして、母親が早逝したのは早月のせい――父親の知れない子を産んで育てることで心身を削り、結果、無理が祟ったからだと思っていたようだ。母親の死因すら知らされていない早月には事実かどうか判らない。はっきりしていたことは、祖父母にとって早月は『可愛い娘を奪った、憎い子供』でしかなかった、ということだ。
その祖父母も、早月が八つのときに揃って亡くなった。
他に親類縁者はいなかったようで、そのまま養護施設に引き取られた。
とうに狭く浅くの距離感を図る性格が出来上がっていた早月は、施設職員らとは良好だが立ち入り過ぎない適度な関係を築いた。上の子らには従順な妹、下の子らにはそこそこ面倒見の良い姉の顔が出来る、手の掛からない子供として約十年を過ごした。
入所早々に世話役の戦力と見做された早月にとって、小さな子を抱っこすることはあっても、自分が誰かに抱き締められることは無いまま。
施設育ちというオマケが付いて以来、周囲の人間から距離を置かれることも増えた。だから、親友と呼べるような仲間も、彼氏と呼ばれるお相手も、居たことの無いままで。
名前が『早月』から『サキ』になって、そうして初めて、愛情を持って抱擁を交わしたのは老爺だった。間違いなく『独身男性』な相手ではあったが、完全に『おじいちゃんと孫のほのぼのスキンシップ』の範囲だった。
――よって、推定イケメンの高貴な青年に抱き上げられるという未知の経験をした場合、女子力遠征中物臭代表を自任すれども清らかな乙女であるサキが、動揺するのは致し方ないのだ。
「うぅうぅぅ……」
考えまいとしても忘却の彼方に出かけてはくれない『姫抱っこ』の感覚に、サキは唸るしかできなかった。
◆◆◆
壊れ物でも扱うかのごとく丁重にサキを抱き上げた竜公爵は、恐らく建物に入る手前で、足を止めて魔術で水気を払った。熱乾燥ではなく『水を弾いた』だけのようで冷えた感触は残ったままだったが、濡れて張り付いていた衣服がさらりとした。乾燥機いらずで便利なもんだと感心している間に移動が再開される。
乾かしてくれたなら窓際で降ろしてくれてもよさそうなものを、どこまで運ぶ気だろうか。恐る恐る「どちらまで?」と問えど返る声は無い。しかし、返事くらいしろやこらぁ、と大判の布の下で拳を握ったところで竜公爵の歩みが止まった。
ゆっくりと降ろされたのは、ふかふかソファではなく、やや固めな座面の長椅子だった。完全に竜公爵の手が離れたことを確認したサキがタオルを取ろうとすると、無言で頭を鷲掴みにされる。……ちょいと一言あってもいいと思う。老爺に『言葉を惜しむな』と言われるサキでは説得力に欠けるだろうが。見るな、と言われれば大人しくしておくのに。多分。
ばっしゃん、という勢いのある水音と少し遅れて漂ってきた熱気に、お湯? と考えたところで肩を叩かれた。首を傾げるが、沈黙のままに今度は被っていたタオルを僅かに引っ張られる。そして、――扉が閉まる軽い音が、まだ被ったままのタオル越しにサキの耳に届いた。
しばらく待ってみたが、こそとも音はしない。
「……おいコラ仮にも紳士が沈黙ごり押し放置って」
悪態を吐きつつタオルを取れば、居たのは見覚えの無い空間。
永遠にも感じられた姫抱っこによる移動だが、階段を上り下りしていないので厨房や客室ではなかろうとは思った。そもそも階段に辿り着くほどの距離を歩いてはいないとも思ったが、これはまさかの。
「…………竜公爵の、私室内……?」
サキの座らされたベンチがある場所から一段下がった床には繊細なモザイクタイルが張られ、明り取りの窓が切られた壁の傍に湯船――床と一体の箱型、同じくモザイクタイル仕様――があり、その中にはたっぷりのお湯。
「風呂……」
意味が解らない――とは言わない。否、なんで竜公爵の部屋だよ、という突っ込みはあるのだがそれは一旦置いておく。
これはつまり、服は乾かしたけど身体は冷えたままだから温まれ、と。
他人様の御好意はありがたく頂戴すべきだよね、折角のお湯が冷めたらもったいないもんね、お久し振りの全身浴だよやっほう!
……一応妙齢の未婚女性だろ自分、とか。ここは同じく妙齢の独身男性の私室だぞ乙女、とか。引き籠り様の天岩戸の内部だよ主を捕獲しに行けよお前、とか。
多少の異論も無くはなかったが、痛みを訴える指先の感覚に、サキの脳内会議は一瞬で結着した。
動かぬ指でボタンと格闘しつつも服を脱ぎ、畳んだ上に眼鏡を置く。一気に曖昧になる視界に、そろそろと足を動かして湯船に辿り着くなり湯に潜る。だはぁ、と息を吐くのは反射だ。かじかんでいた指先がピリピリするのも気にならない。
ひとり暮らしを始めて数ヶ月でシャワー派に転じ、こちらに来てからは湯を浴びるどころか少量のお湯で清拭するのが精一杯で。この離宮に来てからも、時間と燃料が豊富にあるからと用意する湯の量が手桶から盥に増えた程度だ。到底湯船に溜める気力は湧かなかった。
――王宮に一泊した夜にお湯をたっぷりと湛えた湯船の待つ浴室に案内されて一瞬上がったテンションは、直後に勃発したお風呂のお世話回避の戦いで叩き落とされた。女官さんを脱衣所に追い出して大急ぎで入浴を終えたため、じっくりまったりお湯に浸かるのは本気で数年振りである。
ぼへぇと天井を仰いで温もりの恩恵を全身で享受する。
風呂場スペースになっている場所の天井は石か木かタイルか。湯気がなくとも裸眼では見えない世界なので、ただ視線を投げるだけだ。
そうして脱力して、ここまでの状況を反芻すれば浮かぶのは。
「……姫抱っこ……」
お湯のせいだけではない熱が顔に上がって思わず頭の天辺まで湯に沈む。
ついでなので湯の中で髪を――というか、頭皮をがしがし擦っておく。湯船の傍に石鹸があった気がする、と思い至って湯から顔を出した。湯船の縁に沿って手探りして行けば、新品同様の石鹸に辿り着いた。
一度湯から上がって髪も身体も徹底的に洗い上げて流し、再び湯に戻る。
さっぱりした気分で湯に浸かり直したものの、放心すると否応なしに竜公爵の腕の感触を思い出す。照れるのも面倒臭い、と放り出したいのに上手くいかない。
うーうー唸っていたら茹蛸になりそうなほど熱くなって、諦めて上がることにした。
手狭な一室は、風呂場と脱衣場が段差だけで区切られた細長い造りだ。短辺の一方が脱衣場側の壁で、タオルや石鹸その他の日用品のストックが並ぶ棚が置かれている。被せられたタオルで一通りは拭いたが、髪を乾かすのにもう一枚タオルを拝借する。無許可だが、そもそも連れ込んだのは竜公爵だ、構うものか。
新しいタオルで髪を拭きつつ風呂場側を振り返る。こちらは幅が三分の一ほど狭くなっている。風呂場を浸食する形で張り出している壁には脱衣場側に扉があり、覗いてみればトイレだった。
トイレ以外の扉は、長辺の壁の両方に存在している。
――窓が西側の筈だから、向かって左が応接間の扉……いや、応接間の隣が書斎かなんかの筈だから、応接間・書斎・風呂場・寝室、な並びか……?
下ろされたベンチの位置関係から考えると、竜公爵が出て行ったのも左の扉だと思われる。寝室に引き籠った訳でないなら追い易いか。
とりあえず応接間もしくはそこに続く部屋に出ることを期待して左の扉に向かう。念のためノックして「サキです開けます」と声をかけてからドアノブを握る。ほとんど音も立てずに動いた扉の隙間から、そぉっと様子を窺う。
深みのある緑色の絨毯に、どっしりと構えた大きなデスク。壁には本が詰まった書棚も設置され、いかにも『書斎』といった雰囲気の部屋だ。カーテンは開けられているが薄暗い。西向きの部屋なので雨が降っていなくても午前中はこんなものかもしれない。
そして人の気配はない。
「……もしもーし。入りますよー?」
周囲を見回しながら完全に入り込み、後ろ手に扉を閉める。隠れるようなスペースは無い。唯一デスク下くらいのものだが、さすがにそんなところに成人男性(推定イケメン)が膝を抱えて縮こまっているとは思いたくない。
窓と向き合う位置にある扉は廊下に続くものだと判断して、風呂場側の扉と向き合う扉にまっすぐ進む。この向こうが応接間の筈だ。
再びノックと声掛けをしてドアノブに手を掛ける。ガチャリと回して押して――
「開かない? まさか鍵かかって…………あ、内開き」
風呂場のが外開きだったのでつい同じように押したが、実際は引く方だった。
独りで苦笑いしつつ開いた扉の向こうを覗けば、予想通りの見慣れた応接間。
「ついに天岩戸が開きましたよー……」
感慨の呟きと共に応接間に入る。ぐるりと見回すがここにも人影はない。
「竜公爵~? お風呂頂きました~」
ほてほてと中央のソファセットに近寄りながら虚空に声を放る。応じる声はやはり無く――しかし、無情に響く物音だけは返された。
ぱた、と。軽くて微かな音。
振り返れば、開け放ったままだった書斎と応接間を繋ぐ扉が、閉じられていた。
応接間の二ヶ所の窓は開いていない。建物内に小精霊たちは入って来れず、サキに魔術は使えない。
つまり、廊下から書斎に入って閉めたということだ。
誰が? ――竜公爵が。
サキの中で何かが切れる。或いは壊れる。
……お・ま・え・は、
「ポルターガイストか座敷童かってんだこらぁぁあああっ!!」
げしっ、と扉に打ち込まれたのは足裏だ。げしげしと室内履きの柔らかい靴底で蹴り込みながら、物臭代表乙女はキレていた。
「ふっざけんな、恐がられるのが怖くて引き籠ったんだろうに人を驚かして楽しいんか! なにがしたいか一言くらい言やいいだろうが物臭か! ヒッキーさんじゃなくてものぐさ太郎か! 関わる気が無いんやったら徹底して無視しとけよ半端に手を出すな足を出すな口を出せ!! 帰れってんなら帰す努力をせんかいバカたれがっ!!」
扉に打ち込んだ右足をそのままに、ぜー、と息をつく。離宮に来て以来の運動不足で鈍った身体は腿上げの姿勢がなかなかきつい。上げた右足に体重を乗せるように前傾してアキレス腱伸ばしー、とか。
してみた瞬間に開く、天岩戸。
「ぅお、」
「っえ、」
大きく右足を踏み出して――はい、着地――ずどん。
物凄く大きな一歩を踏み込んで辛うじて体勢を保ったサキの、視界の隅に白い物体が映り込む。全体像は把握できないが、とりあえず末端の白い物体は多分、雨に濡れた芝生を踏みつけていた物と同一だろう。ついでに自分が上げた奇声とは別の音声が聞こえた気がするので、
「…………竜公爵?」
「………………」
「お・へ・ん・じ!」
「…………はい」
たった一言。だが、ようやくの。
最初からこのくらい暴れておけばよかったのだろうか。いや、これまでの穏やかな時間からのブチ切れだったからかもしれない。
「で、わたしは顔を上げてもいいです?」
「…………」
「わたしの故郷には沈黙は肯定と見做すという便利な言葉が」
「っ、駄目です!」
……うん、いいお声をしていらっしゃる。
そしてお顔はまだ見れないらしいです。
辛うじて1月中に上げれました、難産…orz
穏便に出てきてもらおうと思うのにどうにも引き籠りたがるので切れました。乙女がまさかのヤ〇ザキック繰り出すくらい煮詰まってました(汗
……ヒッキー氏の第一声までに10話て。亀過ぎる…。




