05.探検発見竜の家と溜息の乙女
こちらで初めて名乗った時のことを思い出すと、少々舌先が痛くなる。
朝目覚めてから、夜布団に入るまで、早月にとって眼鏡は手放せない生活必需品だ。
買ったばかりの銀縁眼鏡も、歴代眼鏡ズの働きにもれずその役割を負っていた。だから消灯して布団に足を突っ込み、眼鏡を外そうか、としたその瞬間にこちらに迷い込んだのは、眼鏡を外す前だったという、その一点のみに於いては僥倖だったと言えるだろう。
夕暮れ時と思しき森の中に、布団に座ったときの格好のまま、ぽつねんと独り。泣くでも叫ぶでもなく放心していたのはどれほどの時間だったのか。薄闇から完全な暗闇に変わって、眼鏡を掛けていても手元すら見えなくなって限界が来た。そうして震える唇から声が溢れそうになった瞬間、――光が弾けた。
現れたのは、某魔法学校の生徒を名乗るには年の行き過ぎた、棍棒に近い形の杖を持った老爺――のちに年齢を聞いて、定年ジャストを老爺とは失礼した、と反省はしたものの、呼び方が『おじいちゃん』に固定されたこともあって結局『老爺』扱いのままの御仁――だった。
彼に拉致同然に保護された翌日、朝食の間に異世界に迷い込んだことを教えられた。そして、食後のお茶を構えてようやく名乗りの運びとなった。
ちなみに翌朝まで会話が成立しなかったのは、転移魔術で移動した際に早月が気絶したせいだ。夜の森に独りで居た恐怖と驚愕と緊張とその他色々で持たなかったらしい。
「儂の名前はゲーベル・アイガイオン・グリューネ。呼び名はアイガイオン、またはゲーベル・アイガイオンでよろしく」
「……アイギャディ……ッ!」
名乗られた音を繰り返そうとしたら舌を噛んだ。ドクダミ茶風味のお茶が地味に滲みる度にはがっちり噛んだ。
違和感なく聞こえていた言葉の中に、なぜか突然ネイティブ発音の異世界語。ヒアリングできず、それでも聞こえた通りを心掛けて唇に乗せようとしたら、まさかの惨劇。
「あれ、言い難い? アイガイオン、だよ」
「………………。わたしは、首藤早月です」
「あ、逃げたね? まあいいけど……。シュドー・シャチュキ? シュドーって変わった名前だねぇ」
噛んだ名前を再提示されても言える気がしなくて自分も名乗ってみたが、魂胆がバレていた。そして、老爺もこちらの名を発音できないことが判明した。
「……首藤は苗字で、名前――呼び名は、早月です」
「あれ、逆? シャッチューキ?」
苗字を呼ばれたときより音が悪い。蚊取り線香の仲間のようだ。
「さ・つ・き」
「サァチュッキィ」
首を傾げる老爺を前に、しばし瞑目し――――
「……サキ、とか、どうでしょう」
「サキ?」
「発音できそうですね、じゃあそれで」
「え、諦めた? うーん……」
納得いかないと数度『早月』を練習して見せる老爺だが、どれも舌足らずな外国人の訛り方に聞こえる。ただ黙って首を振り続ける早月に折れた老爺が「サキ」と呼んで、再度自分の名を言うように促す。
「……あが、……」
「アイガイオン」
「あいがり、……アイガジッ――!」
「…………」
「…………」
「……うん。おじいちゃん、は?」
「おじいさん」
「おじいちゃん! これは譲れないよ!」
思わず半眼になったのは悪くない、はずだ。
けれど、短くない沈黙を挟んで、結局は頷いた。
色々面倒臭くなったなんてことはない。決してない。
◆◆◆
こちらでの名前を『サキ』として以来、名乗っていなかったフルネーム。実に二年ぶりに口にしたな、と小さく笑いが零れる。
自主的に人と接しようとしないサキは、老爺を間に挟んで初対面の挨拶を済ませる。すると「儂の孫のサキね、以上!」という愉快な紹介しかされない。――アンタ孫どころか子供以前に嫁すらいねぇだろホラ吹いてんじゃねぇよ、とは満場一致のご意見らしいが、きっぱりと断言されるために相手もそれ以上は突っ込めず。当然、物臭代表乙女がフォローをして回るはずもなく。
気付けば早月は、『サキ』としか呼ばれなくなり、しかし、それに違和感も湧かなくなっていた。
――自動翻訳はとても恣意的だ。固有名詞、特に人名・地名については即時翻訳をしない。流暢な日本語を喋る外国人が、自分の名前や出身地だけはカタカナ発音せずに母語発音してくる感じだろうか。そのくせ、老爺の名の頭に付く『智慧者』については、サキの耳に『ゲーベル』の異世界語発音が届くと同時に脳裏に『智慧者』の字面が走る。これは王族や極一握りの上位功績者のみに送られる『称号』だというので、個人名ではないから半端に翻訳されていると推測している。
これを『読み書き不可』の弊害と同列に断じないのは、何度か繰り返し聞いて耳が慣れると、突然カタカナ音で聞こえるようになるからだ。
この不便な仕様に気付いたとき、サキは老爺にもう一度名前を教えてもらった。只管ヒアリングすること二桁を数えた頃、若干の違和感を残しつつも『アイガイオン』というカタカナ音を拾い、口にすれば老爺が満面の笑みを咲かせた。老爺も同じ過程を踏んで『サツキ』と問題なく発音できるようになった――が、この時点でサキが老爺に拾われてから二ヶ月以上が経過していた。とっくに『サキ』と『おじいちゃん』で定着していたので、互いにそのままだ。礼儀として了解していればいいだろうと思っている。
――さて、竜公爵は『すどう・さつき』を発音できるかな?
こちらでの自分は『サキ』だ、と割り切っている。そこを敢えてフルネームで名乗ったのは、竜公爵を引き摺り出せとのお達しからだ。耳慣れない名前に反応して、会話の糸口となれば儲けもの。……老爺が既に「サツキって子を置いていくからね~」とでも宣言していたら、母語話者同士であるから問題なく聞き取られている可能性が高いが、王太子にすら「儂の孫のサキね!」で終わらせた御仁のことである。多分それはない。
麗しの(と思われる――王太子が普通に美形だったので)貴公子様が、幼児よろしく舌を噛み噛み自分の名を復唱する声を少々意地の悪い笑いを口元に佩いて待っていたサキだが。
体感時間でたっぷり五分は待ったと思う。
閉じられた扉が開くことはもちろん、その向こうから声が応じることもなく。
というか、本当に物音ひとつしないまま。
「………………」
なんとなく『休め』姿勢で待っていたが、そっと右手を持ち上げる。緩く拳にして、指の背で扉を軽く叩く。
「――重ねて失礼します。竜公爵はこちらにいらっしゃいますでしょうか? 居られましたらお返事いただきたく。――――もしもーし。言葉で応じるのが面倒なら叩き返すなり蹴るなり投げつけるなりして反応くださーい? ――――いやマジで扉に向かって独り言とか悲し過ぎるんですけどもしもーーーし!?」
コンコン、という軽いノックから、徐々にコココココン、と忙しくなり。最終的に指の背でなく拳本体でゴンゴン叩く。それでも一切の反応がない扉に、騎士殿のようにゴツンと拳を喰らわせて、そのまま額を当てた。
……うわぁい。挨拶すら駄目とかどんだけ根が深いんですか……。
あちらでは、他クラスなどに登校拒否児がいる云々の話は聞いても直接関わることが無いまま学校生活を終えた。会社では出社拒否=退職ということで、やはり縁などないままで。狭く浅くをモットーに培ったサキの対人能力ではこの時点で限界が見えてしまう。
だが、肺が空っぽになるほど深々と息を吐いていると、額の辺りで小さな振動を感じた。あまりに小さくて気のせいかとも思えたが、すぐにもう一度、コツ、と。小石が当たったかのような微かな音。
「…………大変控え目なお返事ありがとうございまする……」
額を扉に付けていたから分かった、ささやか過ぎる気配。爪の先だろうか、室内だから小石は無いだろうが――ペン先とかだろうか。
「えぇと……どの程度説明があったか不明なんですが、とりあえず、当分こちらでお世話になります……させていただきます? ので、よろしくお願いします」
再びコツ、との反応。
許可なのか拒否なのか。明言されない以上は前者とさせていただこう。沈黙は肯定なりって言葉もあることだし。
――さて。
ネタ切れである。
――駆け足で廻った離宮をもう一周して来ようそうしよう。荷物も放り込んだだけだし片付けて来よう。ついでにお茶を淹れて一服付けさせていただこう。
まだ昼前だというのになんだか疲れた。名前を呼んでもらうことも名乗ってもらうことも挨拶を交わすことも諦めて、一旦別なことをしに行こうと決める。敗走ではない、戦略的撤退だ。……今後の戦略は何ひとつ思い描けていないが。
「竜公爵、ちょっと荷物の片付けなどして来ますので、なにかありましたらお声かけください。では、失礼しましたぁ~」
礼儀として退出の挨拶だけはして、まずは東向きの玄関口まで戻る。扉を背にして建物内に向き合えば、無駄に広いエントランスホールに立つことになる。正面に伸びる廊下、左手は壁、右手には豪華な大扉がそれなりに間隔を置いてふたつ。
正面の廊下を進んだ西側の一面が竜公爵の部屋。突き当りを右に折れたところにも扉があるが、騎士殿は左手の扉に入り、そこで内扉を叩いているので二間続きなのだろう。ひょっとすると廊下への扉がない一室を挟む三間続きかもしれない。
正面廊下突き当り右奥、北側の面に書庫があるのはちら見した。その並びで廊下の中程にある大階段は実際に上り下りした。
ということで、とりあえずエントランスホール右手の大扉に手を掛けてみる。
鍵はかかっておらず、サキの身長二倍超の巨大扉は覚悟したほどには重くなかった。頭が入るだけの隙間から覗き込み、くるりと視線を一周させて扉を閉じた。
――ダンスホールとか言うやつかな……天井の高さ的に二階までぶち抜き……。
広く豪奢な壁紙や緞帳やシャンデリアが吊るされた、空っぽの異空間だった。
反対側の壁は、伝えばすぐに角になってやや細めの廊下へ回ることになり、先程の大扉に比べれば控えめな扉が、廊下を挟んで左右に出現した。
それぞれ隙間から覗いた結果は、騎士殿が使っていないと言っていた食堂や居間であるらしかった。長大なテーブルが部屋の中央を占めるのが向かって左手の部屋で、ソファと大きな暖炉が存在を主張するのが右手の部屋だった。
中央の廊下に戻って、もう一部屋あるなと回ってみる。やたらと場を取っている書庫と階段の向かい側、扉こそないが竜公爵の部屋とも向き合う、建物の南側中央の部屋だ。
――んー……、居間よりちょっと気張った感じで観葉植物がわさわさ……。本来の応接室ってこっちか?
よく分からないが、まあ使う予定もないのでいいか、とスルー。
大階段の裏側から半地下の台所へ潜るのだが、先に荷物の片付けをしようと階段を登る。踊り場で反転して登り切れば、開けた空間の左右に廊下が割れる。正面は窓で、小さなテーブルセットが置かれている。
確か右手前の部屋だったよね、と一番手前の部屋の扉を開ける。首だけを突っ込んで扉脇を見れば、果たして置き去りにされた荷物が鎮座していた。
うん、と頷いて中に入って――――荷物を引っ掴んで逃げ出した。
――無理! 白とピンクとフリルとレースの姫仕様とか苦痛でしかないって!!
いくら寝るだけの部屋になるだろうと言っても多少は落ち着ける空間であって欲しい。二階の部屋はどこを使っても良いとの言質は取っている。――主である竜公爵からではなく案内役の騎士殿からではあるが、そこは気にしたら負けだ。
その後、階段の右側はすべて可愛い・キラキラ・ふわふわ、とサキ的に落ち着かない部屋が続き、反対側――ダンスホールのせいで部屋数が少なくなっている東側で、ようやく暗色系で纏められた装飾が少ない部屋を引き当てた。
――あっち側が女性用で、こっち側は男性用の部屋、なんだろうなぁ。
あっち側の部屋には無かった少々お堅い感じのデスクを見て思う。クローゼットを開けばビッグサイズの寝間着――丈が長めのシャツとゆったりしたズボンのセット――が出て来たのでほぼ確定だ。
別に煙草臭いとか脂っぽいとかの不快な状態にはなく、きちんと掃除が行き届いた清潔で爽やかな空間なので問題はない。
深々と息を吐いて、ちょっと遠い目をしたくなる天蓋付きの巨大ベッドに手荷物を開くところから始めた。




