36.慙愧の深更と意外な訪問者
※竜公爵視点
月の去った空に静かな星々が輝く。サツキを見失って二度目の夜は、ディオネたちの焦りも知らず静寂に包まれている。
眠れないディオネは開け放った窓の桟に腰を下ろし、星が彩る濃い藍色の空を漫然と眺めていた。
……もう少し明るい青なら、瑠璃のようだと言えるかな。
ディオネが贈った瑠璃の守り石をサツキはドレスの下に忍ばせていたと、シャルナク経由で伝えて来たのはリリアリアだ。サツキが珍しく強く望んだからドレスの外観を損ねない位置に縫い付けたのだ、と。なにか魔術を掛けていたならその魔力を辿って探せないか、と。
――あの石に魔術は施していなかった。
リリアリアの申告に、ディオネは自身の浅慮を呪った。
飾り物として部屋の片隅にでも置いてくれたらいいと、サツキが正しく「お守り」として持ち歩いてくれるとは思っていなかったのだ。渡す前に口付けて見せたのは、ディオネからの贈り物だと印象を残しておきたかっただけで。
――ばかだ。
サツキの『めがね』に掛けられた老師の魔術に干渉しないよう、余計な魔力を纏わせないよう、なんて。
身を守る手段を持たないサツキに護身用の魔術道具を持たせることを、どうして優先させなかったのか。
虚空に投げていた視線を下ろしていく。煌めきを抱く藍色に、くっきりと黒い境界を描く地平に辿り着いたところで動きを止めた。
あの地平に現れた夏の知らせを共に見たのはほんの数日前のこと。
表情の変化が乏しい――ただし、嫌な顔、という一面だけは非常に素直な――サツキが、夜の帳に光を踊らせる〈精霊の宴〉には目を丸くし口を開いて見入っていた。滑らかな頬が色付いていたのは、精霊の光が映ったからではないはずだ。
――サツキが喜ぶだろう美しい景色が、現象が、この世界にはたくさんあるよ。
彼女に見せたいものがたくさんある。
彼女が零す感嘆の声を、珍しくはしゃぐ姿を。
表に出にくい感情の動きを、その傍ですべて拾い上げたい。
ぐるぐると回る思考に引き摺られて溢れそうになる魔力を、深い呼吸と共に捻じ伏せる。私室周囲は完全に人払いがされている。必要以上に抑え込まずとも構わないが、なんとなくディオネは自身に魔力の抑制を強いていた。
自責の念から来る自虐か、サツキに寄りかからずに立てるという証明のためか。
瞳を閉じて、窓枠に頭を凭れさせる。
「サツキ……無事でいてくれ」
零れ落ちた小さな声を、初夏には珍しい冷えた風がさらって行った。
◆◆◆
一睡もしないままに朝を迎えたディオネの許に、弟が無の表情で訪れたのは正午前だった。
ディオネが座るソファの向かいに黙って腰を下ろすなり膝に肘を突き、両手の指を組んで作った拳に視線を落とす。共に入室したシャルナクは静かに扉の脇に控えたが、こちらも常の賑やかさは鳴りを潜めて静かな表情をしている。
「……あれは魔眼持ちでした」
アンクリーク王国の王女と、昼食前の僅かな時間に面会した結果の報告は、その一言から始まった。
魔眼持ちとは、その名の通り目に魔力を宿した存在だ。視線で人を殺す――などという物騒な能力が発現したという話は寡聞にして知らないが、往々にして人心の掌握・操作という、精神干渉系の能力に特化する。
厄介なのは、魔眼の発動は呪文も術式も必要なく、ごく微量な魔力を放出するだけで事足りる点だ。平常の魔力に同化して、発動の気配をほとんど感知させない。
今回のように『なにかある』という前提で向き合わない限り魔眼を看破することは難しい。面会の場には老師も控えていたそうだが、今まで見落としていた事実に珍しくも苦い表情を見せたという。
「兄上があの女に気を惹かれたのは魔眼によるものだろう、と。私の場合は会う前から不満があり碌に目を合わせることもしなかったために影響を受けなかったのだろう、とも」
――そうなのだろうか。
ディオネは僅かに首を傾げた。儚げな少女を守ろうと思ったのは自身の意思ではなかっただろうか。
自分の意思だと信じられるほど自然に誘導されていたのなら、確かに恐ろしい能力だ。
「……それで、姫君はサキの失踪についてなにか知っていそうだったかい?」
だが、魔眼の影響範囲の考察など現状に於いて必要ない。小精霊たちを証人として立てることが難しい以上、当事者周辺から事実関係を押さえるしかない。彼女らが関わるなら外交に影響が出るために一方的な真似はできないが、手札はいつでも切れるように備えておかなくては。
伏せられていた薄青の瞳がディオネを見た。サツキはこの色を『氷の割れ目』と評したが、その奥に炎が揺らめくように強い光を帯びた今のティタニアの瞳を見たならなんと評するだろう。
「兄上に会わせろと言い出しましたので、体調を崩したグリューネ嬢の看護に忙しく無理だと断ってみましたら――」
再び瞳が伏せられた。
「不思議そうな顔で、『あの女性はまだここにいらっしゃるの?』と」
微妙な回答だ。「サツキは王城にいない」という前提がある発言だとして、それが自身の手の者が誘拐したと知っているからか、宴が終わって城を下がったと思っているだけなのか。
実際、国内貴族の多くは既に王城を去り、城下に構えた屋敷に帰宅している。
「兄上はグリューネ嬢にかかりきりだと再度伝えてみれば、それはアンシェンス・ディオネのすることではないだろうと、まぁ真っ当なことを返して――その発言以降はグリューネ嬢のことには触れずひたすら兄上への一方的な言い分を垂れ流しておりましたので適当に切り上げて参りましたが」
恐らくティタニアの我慢が効かなくなる寸前までは耐えてくれたのだろう。行方不明の事実を伏せて動いているので追及は難しい。
「成果としては姫君が稀有な『魔眼』持ちだと判定できたことくらいか」
「あまり意味がありませんね。まあ、あの女の周囲がやたらと甘くできている原因は理解できましたが」
「それでもアンクリーク国王が盲目的に姫君を溺愛しているかと言えば違うようだから、自在に操る、というほどには強くもないのだろうね。ティタに無効だったのも、目を合わせなかったからって言うより、ティタの『気に喰わない』って意思が強くて好意へ誘導できなかったんじゃない?」
軽く笑って目を細めれば、ティタニアは鼻で嗤って返事とした。
「ですが、グリューネ嬢には有効だった」
「そう思う?」
「呪文を聞かせる必要もないなら可能でしょう、多少離れていても視線は交わるものですし。あの女自身、見掛けたとは言ったのでしょう?」
ティタニアの確認に、ディオネは頷いた。
あの夜、サツキを見失ってすぐに遭遇した姫君が語った言葉を思い出す。
「『ここに居たくないのでは』とサキの心情を慮っていた」
つまり、サツキに『ここに居たくない』或いは『居てはいけない』と訴えかけ、場を去るよう誘導した可能性は高いだろう。
そしてティタニアに発した『まだここに居るのか』という言葉。
「限りなく黒。――なんだけどなぁ」
物的な証拠がない。精神干渉の影響を考えれば周囲の人間からの証言を取るのは難しいだろうか。
どっかりとソファに身を預けて、扉脇に直立するシャルナクを見遣る。意を汲んだ乳兄弟は苦笑を見せて口を開いた。
「姫君付きの護衛騎士に声を掛けてみたけど、異変は無いか、って振り方しかできないから収穫なし。姫君の客室担当の女中から姫君の侍女連中にも探りを入れて貰ったけど不審な動きはない。――帰路の手配確認の名目で、騎士がひとり城を出ていたのが分かっただけだ」
事前の申請は無く、話を聞いて一団の長である外務卿に確認を取れば『急ぎの知らせがあり転移魔術で送りだした、夜会の直前のことでご報告が後手となり申し訳ない』旨の回答が返されたらしい。
――恐らくは「夜会の最中」のことだが、まあ、想定の範囲内である。
「賓客でありながら筋を通さぬとは、と追及するのは容易ですが……小さなことで大袈裟な、と周囲に引かれる可能性もありますね」
そして、既に一昼夜が過ぎている。件の騎士が今もサツキを伴っているとは限らない。むしろ早々に手放して建前の帰路確認を行っているだろう。
「とっとと放り出してくれてりゃいいんだよな。お嬢ちゃんなら物怖じせず周囲に声掛けて帰り道を探すなり対策取るだろうし」
シャルナクの、敢えて軽く作られた言葉に頷きたい。そうであって欲しい。転移魔術で距離を取られて、戻って来るのに時間がかかっているだけなら。
ディオネが唇を噛んだところで、短いノックの音が響く。シャルナクが開いた扉から姿を見せたのは老師だった。
「お邪魔致します。……落ち着いていらっしゃいますね、ディオネ様?」
疑問というより確認の響きに、静かに頷いた。
「荒れてもどうにもなりませんから。姫君の面会に立ち会って頂いたようで、私自身は動きもせずに色々と頼ってしまい申し訳ありません」
「いえいえ、かわいい教え子と大事な孫のことですから」
にこりと変わらぬ笑みで老師は応じ、「うん、大丈夫そうだね」と何事か納得したらしい。向かった先は昨夜から開け放したままの窓で、ひょいと身を乗り出して上空を仰ぐ。
「師匠?」
「小精霊たちから続報が取れました」
思わず立ち上がった。視界の端でティタニアも同様に立ち上がったのが見えた。
「サキは無事だそうです」
もつれかけた足に力を入れる。強い視線を老師に向ければ、喰えない笑みが返された。
「詳細を知る御方をこちらにお招きしても宜しいでしょうか?」
「……もちろん」
小精霊ではないらしい証言者の存在を怪訝に思えど、了承するしかない。
頷いた老師が窓際から身を引いた途端、それまで穏やかに吹き込んでいた初夏の風が冷えた突風に変貌した。
「ほーい、お邪魔するよ!」
瞬きの間だけ暴れた冷風が吹き止むと同時に出現したのは白い髪の少年と。
「…………」
青みのある銀の髪を垂らした、二十代後半ほどに見える男だった。
「師匠……」
「小精霊曰く『からっぽを拾った大きな精霊』だそうです。儂も幼児サイズより大きい姿の精霊には初めてお目にかかりますねぇ」
何者か、と問うティタニアの声に老師はにこやかに返した。
精霊は竜以上に謎の多い存在だ。気紛れに人間と交流を持つことはあれど自分たちの在り様を詳細に語ることはしない。
それでも知られているのは、精霊は本来、形を持たない魔力の塊だが人間のように意識を持ち思考を行う存在で、必然か気紛れか、人間に対する際に人型を取って見せる。その姿は基本的に能力の成長と共に大きくなる。発生したばかりの小精霊は掌に収まるほど小さく、存在が安定すれば人間の赤子から三歳児程度の大きさに落ち着く。そこから更に大きくなるには相当の時間がかかる、ということだ。
人懐っこい笑顔で立つ少年は十四、五の姿に見える。その隣でやや陰気な表情を見せる男は背が高い。シャルナクよりも大きい姿に、どれほどの年月を生きる精霊なのかと畏怖を抱く。
「俺はこの辺一帯の北風を司る精霊です、よろしく! あ、頼むから青銀のの眷属は魔力暴走させないでね!? さすがの俺でも無事じゃ済まないから!」
右手を挙げて元気よく言い切り、にぱっと底抜けに明るい笑みを作る様子は普通の少年にしか見えない。その両足が床から僅かに浮いたままであることや肌に感じる魔力の片鱗から、内包するそれが計り知れないものだと分かるだけに恐ろしい。
「ほら、青銀のも挨拶くらいしろよ」
「……うむ」
「おーい?」
「…………虚ろのは怪我を負い、動かすに難があるものの生命の心配はない」
低く重い声は、少年精霊の促しを無視して本題を切り出した。
思わぬ来客に状況を呑み込みかねて立ち尽くすディオネたちを気にもせず、大精霊はサツキの現状を語る。
全身の打撲と擦過傷、両腕は筋を傷め、右肩の矢傷は骨に達していること、命に別状はないが消耗が激しいこと、しかし今朝になって意識が戻り明瞭に受け答えができていること、鎮痛解熱の薬が効いて苦痛は抑えられている様子だが、抱えて空を飛んで来るのでは怪我を悪化させるだろうこと。
「故に、転移魔術で以ってこちらへ戻す算段を付けたく、こうして訪ねて参った」
陰のある声音でそう締め括って、ひたりとディオネを見据えた瞳は金の散る深い青。
――サツキに贈った瑠璃石と、同じ色をしていた。




