34.疾駆する荷馬車と無力な乙女
※2018.04.28 サブタイトル微修正
ガタガタと跳ねるように揺れる振動でサキは目を覚ました。妙に重く感じる瞼を押し上げて見えた世界は暗闇だった。頬に感じるのはささくれた板のようだ。不意に大きく揺れた床から跳ねて肩を打ち付ける。せめて壁際に座りたいと思うけれど身体を起こすことができない。
痛みに悶えながら確認した己の身体は両手が後ろに纏めて拘束され、両足首も同様の芋虫状態だった。口には布が詰められているらしく自分の唾液で濡れた感触が気持ち悪い。
――あ、なんか襲われたっけ。
非現実的な状況に、むしろ思考は一気に冷えた。
転がされた床の広さと蹄の音に荷馬車だろうと見当を付ける。棺桶のような狭い箱に閉じ込められていないことに安堵する反面、転がる余地があるだけに身体が跳ねては痛めつけられていくことに恐怖する。
幾度目かに大きく跳ねて腹を打ち、第二波で胸を打つ。顔面強打を逃れて良かったと思う間もなく臓腑から競り上がる物を感じた。
――吐く。
――吐けない。
――吐いたら窒息する。
呼吸に詰まりながら必死に飲み下す。口を塞ぐ布は突っ込まれただけで上から縛られてはいなかったらしく、しばしの奮闘後、げほりと吐き出すことに成功した。
が、同時に一度は収まった衝動が復活する。今度は堪えきれず、辛うじて横向きに顔を逸らした瞬間に吐瀉した。出て来るのは饐えた臭いの胃液ばかりだ。思えば固形物の出てくる道理がないな、と一頻り吐いたところで自嘲した。
夜会のドレスはこれまで以上にコルセットをきつく締め上げる。事前に宣告されていたこともあり昼食は控えめにして、着付けの直前に小さな茶菓子で腹の虫を宥めただけだった。そして夜会で口にしたのはジュース一杯。
どのくらい気絶していたかは分からないが、こんな状況でなければ腹の虫が盛大に大合唱しているくらいの時間にはなっているはずだ。或いは、お役目を果たして竜公爵と豪勢な夜食を楽しんでいただろうか。
「……なんで離れちゃったかなぁ……、ケフッ」
揺れに抗いながら吐瀉物から出来るだけ距離を取る。二度三度とこみ上げて来るが既に出せるものは無い。空咳を繰り返しながら必死に唾を呑み込み、自分の浅はかな行動を省みて眉根を寄せる。
――いや、離れる気はなかった。
少なくとも、あのバルコニーから更に遠くに行くつもりはなかった。むしろ状況が許せば会場内に戻る気さえあった。
何故、あの時、自分の足が反対方向へ動き出したかと思い返せば、榛色が脳裏に輝きを得る。
『お前はここに居て良い存在ではないでしょう?』
そう語り掛けてきた。
自分は異分子だという自覚があった。
だから、あの場に居てはいけないと――……
「……なん、で……痛ぅっ……!」
急カーブにでも出たのか、ガガガッと一際大きく揺れた世界に振り回されて再び壁に背を打ち付ける。不意打ちの痛みに泣きながら、必死に壁に肩を押しつけて僅かながら身体を固定させた。
「げほっ、うぇ……」
絶えない嘔吐感となにも吐けない気持ち悪さに呻きながら、自分自身の行動の不可解さに首を傾げる。――直接そんな言葉を投げられたこともないのに、どうしてそう思った?
しかし再度の大揺れに壁から離され転がって、冷静な思考は恐怖にとって代わられた。
――こわい。
多少の面倒事は覚悟していたが、それも精々は女同士の陰険な悪口合戦や嫌がらせレベルのことだと思っていた。
老爺が警備に入っていて、ちょっと距離が空いたと言っても声の届く距離に竜公爵がいて、更に大声を上げれば届くだろう範囲に王族や騎士の一団まで控えていたのだ。まさか暴力に曝されるとは思いもしなかった。
――こわい。怖い怖い怖い。おじいちゃんおじいちゃんおじいちゃん。
噛みあわない歯を食いしばって揺れるままに床を転がる。あちこちを打ち付けすぎて、最早どこが痛いのかも分からない。ただ声に出来ない悲鳴を叫び続ける。
細い息と共に涙が零れ落ちるのを感じながら、サキは再び意識を暗闇に沈めた。
短い間隔で意識の断絶と浮上を繰り返していたサキは、完全に車輪が止まったことで幾度目かの覚醒をした。絶え間ない揺れと衝撃、それにより与えられる苦痛と嘔吐感から解放されると安堵して、けれどすぐに新たな恐怖に襲われる。
ぎい、と音を立てて箱馬車の扉が開かれた。僅かに光が差し込むが、早朝なのか曇天なのか、とても弱々しい明るさだった。
「……あーあー。吐いちまったのかよ、汚ねぇな。まぁ漏らしてなけりゃまだマシか? ククッ」
知らない男の声。酒焼けしたような、ガラガラとして耳障りな音をしている。
窒息するほどの物も出ないと、途中から顔を背ける行為すら放棄して胃液や唾液を垂れ流していた。そりゃあ汚いだろう、口元どころか顔や首まで饐えた臭いに塗れている。――そう内心で毒づいて、けれどサキの嗅覚は麻痺して自分の臭いなど分からない。
荒っぽい足音を立てる男に腕を掴まれ引き上げられるが、足首を縛られているため立つこともできない。歩けないサキの状態に舌打ちをした男は、力任せにサキを馬車から引き摺り落とした。
「――――っ!!」
辛うじて足から落ちて頭は打たずに済んだが、盛大に膝を打ち付けて悶絶する。反射的に身体を丸めたところで足首を掴まれ、拘束が解かれた。
なんで、と思った次の瞬間、全力で足をばたつかせた。本能的な嫌悪が恐怖を凌駕する。
「いっ……やだ、放せ離れっ、げほっ、やめ、――くぅっ……!」
胃液で焼かれた痛みを無視して叫びだしたサキの頬を、舌打ちした男が殴りつける。片手はサキの右足首を握ったままで。
夜会用にと仕立てられたドレスは、すとんと落ちたシルエットだったが、腰から下はたっぷりと布が使われていてフレアスカート並に裾が開く。地面に転がされたサキの足を持ち上げれば容易に太腿より奥まで露わになるということで、――男がなにを考えて足首の拘束を解いたのかを察してしまえば抵抗の一択だ。
殴られても構わずに暴れる。散々打ち付けて痛みしかない身体は、更に痛め付けられたところで鈍痛しか覚えない。必死にもがき、突き上げるように振った左足の踵がなにかを抉るような衝撃を感じる。華奢に見えて頑丈な造りの細いヒールは、凶器として役に立ってくれたらしい。「ってぇ……!」という潰れた声と共に足を掴んだ力が緩む。後ろ手に拘束されたままの手が致命的で、辛うじて反転させた身体を起こす余裕もなく肩と足で這う。
いくらも移動しない内に男に髪を掴まれて上半身を引き上げられた。
「暴れんなよ、最期に楽園見せてやるから、よっ!」
ぶんっと勢いよく髪を離されて地面で額を削る。バウンドして斜めに落ちた右足の太腿に走った、抉るような痛みにその存在を思い出す。アンダードレスの内側に縫い付けた小さな巾着袋の中身は、竜公爵に貰ったお守りの瑠璃石だ。
瑠璃石を貰ったあの日は終日、竜公爵は王太子の執務室に籠っていた。自動的にサキは隣室待機となり、有り余る時間に端切れで小さな巾着袋を作ったのだ。お守りと言うなら持ち歩こうか、という単純な発想で、サキに与えられたドレスにはどれもスカート部分にポケットがあるから問題ないという判断もあった。
夜会用のドレスにポケットは無いと言われて置いて行くかを悩み、やっぱりお守りだしな、とリリィに無理を言ってドレスのラインを崩さない位置を選んで縫い付けて貰ったのだ。
……お守りって言ったくせに。
ちっともご利益は無い。危険に反応して結界が展開されるでも、狼藉者を退けてくれるでもない。痛みを軽減してはくれないし、石を出口に転移魔術で助けに来るなんて大技はもっとない。
高い鼻筋の綺麗な横顔が、長い瞼を伏せて形の良い唇を青い石に落とす、一枚の絵画のような情景を覚えている。
『守護のおまじないだよ』
だけど、おまじないはちっとも効いていない。これはクレーム案件だ。意地でも文句を言わねばならない。
――こんなところで、いいようにされて終わる訳にはいかない。
瑠璃石がこれ以上足に喰い込まないよう体勢を維持しつつ、芋虫のようにのたうって逃げようとするサキの背中に男が圧し掛かってくる。それでも絶望はしない。少しでも動く肩を首を、必死に使って隙を探す。
濁声が嘲笑いながら言葉を落とす。
「キレーなドレス着てよぉ、どこのお嬢様だか知らねぇけど災難だよなぁ? 遠くに運んだ上で殺して捨てて来いだとよぉ」
生温い息が耳朶にかかって総毛立つ。気持ち悪い。同じように耳に息がかかる距離で囁かれた甘い低音を思い出して歯を食いしばる。
「……だれ、が」
「さぁなぁ? 俺は金払いの良い仕事なら事情も雇い主も選ばねぇんだぁ」
下卑た笑い声が首筋に触れて、一瞬戻った理性を再び吹き飛ばす。
またも暴れ出したサキを軽々と抑え込んだ男はサキの手を掴み、ドレスの背に手を掛けると引き裂く勢いで剥ぎ取った。
「やぁ――――っ!!」
男は抵抗をものともせず、簡単にサキをひっくり返しながらドレスを足から抜き取った。
「……ち、こいつは剥ぐのも面倒だな。まぁ下さえ開きゃあいいんだけどよ」
ぎっちりと締め上げられた厚い造りのコルセットを忌々しげに撫でた男は、それでも構わずに仰向けにしたサキの膝を割って覆い被さって来た。後ろ手に縛られたままの腕は最早感覚がない。
「へへ、大人しくしてりゃあ優しくしてやるぜ?」
顔に吐きかけられたどこか獣じみた息を嗅いでサキは顎を反らし――すぐに勢いよく振り戻した。
「がっ……!」
渾身の頭突きはサキにも少なくないダメージを与えたが、ともかく男が身を起こしたのは幸いだ。もういっちょ、と足を振り上げて踵を打ち込む。ヒールが肉に埋まった感触をバネに必死でその場を這い出す。所詮は儚い抵抗だと頭の片隅で囁く声がするけれど、だからと言って流される気は毛頭ない。それでもすぐに身体がバランスを崩して、駄目か、と思ったところで男の声が届く。
「あっ、クソッ!!」
どこか焦燥を滲ませたその言葉に、男に捕まった訳ではないと気付く。傾いだ身体が落下を始めて、這うべき地面が無くなったのだと知った。
「――――ッ!!」
ほぼ断崖絶壁のような斜面を小枝や小石で削られながら一気に滑落し、ばしゃりと冷たい感触に半身を突っ込んで止まる。流れる水の感触に川だと知る。顔を反らせただけで呼吸が確保できる深さだったのは幸いだ。ばしゃばしゃと妙に水の跳ねる音が響くのは小魚でもいたのだろうか、驚かせて申し訳ない。
半端に仰向いた姿勢で荒い息をしていると、上方から男の罵声が降ってきた。
「あぁ、畜生! 手間だけ掛けさせやがって愉しみのひとつもなしかよ、クソッ」
それなりに険しい斜面なのだろう、下りて来てまでどうこうする気はないようだと察して、非常事態でありながら薄い笑みが浮かぶ。
――ざまぁみろ。
だが、その一瞬あとに熱が右肩を射抜いた。嘲りが通じてしまったのか、依頼は完遂する性質だったのか、弓矢でトドメを刺されていた。
「アッ――……」
鋭い痛みに身体を仰け反らして、どしゃりと水に落ちる。曖昧な視界に明け方らしき深い青色の空を見て、そこに散る星がないことを残念だと思いながら、サキは静かに瞳を閉じた。
ばしゃばしゃと騒がしい水の音だけが、最後まで耳に響いていた。
◆◆◆
木立に隠れた傾斜の下に流れる小川は、普段はさらさらと静かでほとんどその存在を主張しない。
だが今朝に限っては、ばっしゃんざっぱんと随分騒がしい。
「――――はいはいはい、っと! 呼んでんのは分かったしこうして来たからちょいと静かにしろよ、清流の!」
一陣の風が舞って、跳ねていた水面が収束する。
「遅いよ、朔風の」
「あのねぇ、俺は普段北の御山駐在なの、そこそこ離れてんの、お分かり?」
「その距離を一駆けで動くのがお前じゃない。――ともかく、これ」
「はいはい、どれよ、……って、これ?」
清流が抱え込んでいたモノを見て、朔風は目を丸めた。
「私の手に余る。癒しの類は大樹のの得手でしょう」
「あー、そうね……。てか青銀のの方が間違いないかな」
「どちらにせよ北の御山でしょう、だから呼んだの」
「なるほろろ。んじゃ預かるわ。ところでなんでコレがここに居るか分かる?」
「いいえ。小石のか青葉のたちを辿れば少しは分かるかもね」
「んー、じゃそれ含めて預かるわ。じゃあな」
朔風はソレを大切に抱えて、空を一蹴りした。




