32.煌びやかな夜宴と逃走の乙女
扉を潜れば会場内に控えていた侍従が竜公爵とサキの名を高らかに呼ばわる。会場のざわめきが一瞬静まり、視線が扉に集中した。ざわめきはすぐに復活し視線も大半がすぐに外されたが、話題の多くはサキたちのことに移り、残った視線はかなりしつこくふたりを追って来た。
会場はとにかく広かった。離宮にも玄関ホールからすぐの一間が二階までぶち抜きの広間があったがその比ではない。むしろ離宮が丸ごと収まりそうな規模の大広間に、隅っこ待機が却下される訳だとサキは妙な納得を覚えた。
サキたちが入った扉からほど近い壁際が雛壇になっており、国王らが座るのだろう椅子が四脚。その視線を追ったのか、竜公爵が耳打ちをしてくる。
「もう少ししたら陛下方がお出ましになって、国賓から順次ご挨拶を申し上げる。私たちの挨拶は国賓の次だからすぐに終わるよ。あとは適当に時間を潰すだけ」
「椅子四脚って、あとどなたが」
「国王夫妻と王太子殿下とその御婚約者殿」
「ロゼ様って居場所固定ですか」
万一の命綱が雛壇から動かないとなると心細さがじわりと顔を出す。竜公爵用の椅子だと言われたら雛壇奥に見えるカーテンの裏にでも逃げ込んだのに。
「ロザリンド嬢の身分を考えれば伯爵位の挨拶までは応じないといけないだろうけれど、どうせ私たちもその頃までは退出できないし」
「うわぁ……、その時間潰しの間は極力歩きたくないって言ってもいいですか」
「ふふ、じゃあソファで休んでいたらいいよ」
くるりと見渡せば、壁際や柱の傍、窓の近くなどに適宜ソファや小さなテーブルセットが置かれている。一服用だろうか、それにしては料理が見当たらないと首を傾げれば、食事は別室に用意されているという。
「食べている横に立って話すのはマナー違反だけど、相席の名目で座られると面倒かな。でも座ってゆっくりはできるよ、行く?」
「いえ、部屋で食べましょう」
面倒以前の問題としてテーブルマナーに一切の自信がないサキである。立食なら多少は誤魔化せそうなものを、きっちりカトラリーを揃えてのディナーなどお断りだ。
そう伝えると、サキが思うほど酷くないけどなぁ、と竜公爵が小さく笑う。
顔を寄せて囁き合う姿が親密な様子に映ったのだろう、再び周囲に視線を巡らせればふたりへの視線が増えたようだった。
竜公爵を遠巻きに意識する人垣に既視感を覚えて視線を宙に投げたサキは、その先に佳人を見付けた。
感情の読めない完璧な微笑を浮かべた儚げな姫君。瞳の色の判別などつかない距離なのに、朝日に輝きを返した榛色が鮮明に見えた気がした。
交錯したと思った視線は、しかしすぐに人波に覆われて見えなくなった。
◆◆◆
件の姫君は使節団の実際的な責任者であるだろう壮年の男性と共に国王への挨拶の列に並んだ。国賓の列の中ではかなり後方の順番だ。昔は前半組だった、と竜公爵が余計な情報を囁くのを聞き流す。
国王は多分型通りの応答をしただけのようで、二言三言発して終わりだ。王妃は微笑んで頷いただけ、王太子に至っては完全に無の表情になって微動だにせず。その隣に座るロゼの居心地は最悪だったろうに、ただ穏やかに微笑んでいた。
国賓に次いで国内貴族の列が動く。一番手は竜公爵、手を引かれたサキも一緒に前に出る。
結局身に付かなかった宮廷式お辞儀を放棄して日本式最敬礼で凌ぎ、無事に挨拶が終了した。あとは隙を見て脱出を図るのみだが、しばらくは大人しくしているしかない。
人いきれに息苦しさを訴えたサキを気遣って竜公爵は窓際へ回ってソファへ座らせてくれた。移動距離は壁寄りに開場を四分の一周弱、その間竜公爵に声をかけて来た人数はサキが覚悟していたよりずっと少なかった。
「何のために夜会前に延々と面会を受けていたと思うの」
「あれって今日の挨拶省略のためのものだったんですか……」
「不在期間が長かったから軽い挨拶で終われないのが目に見えていたもの」
面会時に夜会では時間を取るつもりがないと釘を刺していたそうだ。会話が筒抜けな隣室に居たサキの記憶にはないが、八割方聞き流していたのでその範囲のことだろうと適当に頷いておいた。
竜公爵が会場を動き回っていた給仕から細身のグラスをふたつ受け取り、一方をサキに渡してくれる。緊張もあって喉はカラカラだったので、ありがたく受け取り口に含んだ。
魔術なのか、氷は入っていないのに冷え切った喉越しを喜び、しかし味わいを確かめたところで薄らと眉根を寄せてしまった。
「………………ぶどうじゅーす……」
「空きっ腹にアルコールを入れない」
「御意……」
黄みを帯びた透明な液体に白ワインを期待したら独特の臭気も苦味辛味もない、甘いだけのジュースでしょんぼりする。部屋での食事の際に出てくるのを期待しようと、取り敢えずジュースを飲み干した。
挨拶の順番が遅い下位貴族たちも徐々に列を成し始め、逆に挨拶を終えた国賓と高位貴族は玉座の前から思い思いに散っていく。
しばらくは国賓や高位貴族同士で挨拶交換をしていたようだったが、それが一巡すれば当然まだ挨拶していない相手を探し始めるもので。
「やあ、ディオネ殿下……失礼、アンシェンス・ディオネ。ご無沙汰しておりました」
「ああ、ウェイス王国の――……」
国賓らしい人物が竜公爵に声を掛けたのを皮切りに周囲に人が集まり出した。
ところでそちらは、と水を向けられては座っていられない。立ったサキの手から空いたグラスを竜公爵が引き受けて給仕に下げ渡し、その流れのままサキの腰に手を当てて人々に紹介した。スマートな立ち居振る舞いとやらのお手本だな、と思考を遊ばせながら「サキ・グリューネと申します」の挨拶を機械的に返す。
壇上から、まだ席を立てずにいる王太子が視線を寄越したようだったがこうなれば仕方がない。援軍の到着を待たずに始まった戦いをどうにか凌ぐしかないだろう。
事前の宣言通り、竜公爵はサキに振られる話題も片端から拾って対応してくれた。同時多発的に声を掛けられれば捌き切れないだろうと思うのに、慣れた調子で多彩な話題を揚々と渡って行く。
それでもサキにずずいと迫ってくるご婦人が居た。竜公爵の回答を遮ってサキに話しかけてくる。やむなく最低限の言葉で応じ、応じ切れない話題には曖昧な笑みで竜公爵に視線を送る意味深な態度で逃げる。
意味深といっても実際に意味は無い。各種お問い合わせは竜公爵へ、というだけだが、サキが視線を投げれば竜公爵は確実に拾って微苦笑を返してくれて、「まあ」「きゃあ」と女性陣が盛り上がる要素になっている。楽しそうで何よりだ。
サキの腰に添えられていた竜公爵の手は、ご婦人が割り込んできたことで外れた。そうして気付けば更にひとりふたりと人が割り込み、じりじりと距離を空けさせられている。マズイと思っても人垣を掻き分けて移動する訳にもいかない。
サキがヒールで底上げされたように周囲の女性陣も踵の高い靴を履いていて、サキが見上げる視線の高さは竜公爵に向けるそれと拳ひとつ分も違わない。そして竜公爵は、サキから見れば長身だが一般的には平均身長の部類だ。サキの視界を覆う人垣が二重になると姿を視認できなくなった。
「サキ」
人垣の向こうから竜公爵の声だけが届く。
サキを取り囲んでいるのは若いご令嬢方が多く、その母親らしきご婦人がちらほら。香水の甘い匂いが複雑に混じりあっていい加減気持ち悪い。じりじり押されて掃き出し窓の桟に足をかけたところで開き直った。
「――竜公爵。すみません、少し風に当たって来ますね」
気持ち声を張って呼びかけに答え、ひょいと窓を抜けてバルコニーに出る。夏の夜の爽やかな風が心地よく、さりげなく深呼吸をする。
竜公爵から、或いは竜公爵を囲む紳士たちから離れたからか、女性陣の言葉の響きが変わる。社交に慣れない初々しい少女――サキのことだ――を気遣う優しげな様子から、場違いな田舎者を嘲るねっとりとした陰湿な調子へと。
「アンシェンス・ディオネを『竜公爵』とお呼びするなんて、随分と親しくていらっしゃるのね?」
「称号を戴く方は、正しくその称号を以ってお呼びするものですのに」
「このような場では不敬にも取られかねないとご存知でしょう?」
「あぁでも、慣れぬ舌では絡まっておしまいかしら」
――うーん。分かりやすく悪口だと理解できる言葉を正面から投げてくるって、親切なのか低レベルなのか一周回って高等技術なのか……。
生憎とその生い立ちから陰口悪口後ろ指は珍しくない環境だったサキにはむしろ新鮮味に欠ける。もっと陰険さを学んで出直せ、と明後日な評価を内心で下す程度にしか響かない。それでも表情には出さず、分かっていない雰囲気を醸して小首を傾げるに留めておけば、「この程度の常識も理解できないのか」と侮蔑は一層顕著になった。
爽やかな夏の夜が台無しだなぁと空を見上げれば、満天の星空が広がっている。煌々とした室内の灯りが届かない場で見上げたならもっと星の数は多く見えるのだろう。老爺と共に森の木々を透かして見上げたように、或いはひとり離宮の裏庭で見上げたように。
「――聞いていらっしゃいますの、グリューネ様?」
「失礼いたしました」
苛立ちを押し殺し切れていない若い声に呼びかけられて反射的に謝罪を返す。
素直に視線を戻そうとしたとき、その人を窓際に見つけた。
幾つもの人影の隙間を綺麗に縫って、榛色の瞳がまっすぐにサキを射抜く。人形の眼差しに似て無機質な、けれど纏わりつくなにかが見えるような、妖しげな瞳がゆっくりと瞬きをする。
見詰め合う必要はないと思うのに、何故だか視線が引き寄せられる。
話しかけてくるご令嬢に、礼儀として視線を向けるべきだと思うのに。
僅かに引き戻した眼が、やはり自然と人並みの隙間を縫おうと動き出す。
ご令嬢たちがサキに浴びせる侮蔑の言葉に傷付く程、柔な心臓はしていない。
――していない、けど。
かち合う榛色、止まぬ罵詈、脳裏に巡るのは。
――わたしは、異分子だ。
人垣に隠されて竜公爵の姿は見えない。
老爺は結界担当の警備要員として会場近くに付くと言っていたが当然視界には映らない。
王太子やロゼはまだ壇上に居るのだろうか。
――わたしが居るべき場所はここじゃない。
老爺につれられて、竜公爵に望まれて、こんなキラキラした場所に、華やかな衣裳を纏って綺麗にお化粧をされて立っているけれど。
――だってここはわたしが所属すべき世界じゃない。
榛色が淡く輝く。眼に映るすべてが輝いて見える空間にあってなお埋没することのない輝き。
――わたしはここに居てはいけない。
湧き起こる焦燥に、周囲に立つ令嬢たちの壁に視線を走らせる。やや後方、バルコニーの端から庭園に下りる階段が見える道筋を見出し、じり、と一歩退がったら、あとは一気に足が動いた。リリィたちがシンプルを合言葉に仕立ててくれたドレスはスカートの無駄な膨らみもなく身幅の感覚はいつも通りで動ける。裾を踏まないことと慣れないハイヒールで足を挫かないことだけを意識して狭い隙間をすり抜ける。
走れないなりに追ってくる言葉たちには拒絶を示す勢いの歩みで階段を下り切り、石畳を踏んで真っ直ぐ歩き続ける。自分がどこに居るのかなど端から分からないのだから、どこに向かっている訳でもない。ただ、ここに居てはいけない、という一念だけで足を動かし続ける。
庭園区画に入れば高低取り混ぜた木々が繁る。背後の煌びやかな空気が僅かにでも遮られたことで、完全に榛色の視線から逃れた、と安堵の息を吐き――ようやく冷静さが戻る。
「……って、範囲外になってる気が」
慌てて来た道を戻ろうと振り返った、その瞬間。
背後の茂みが、ガサリと不穏な音を立てて揺れ、もう一度振り返る余裕を与えないままにそれはサキの背にぶつかって来た。
「――――っ!?」
鼻と口を塞ぐ布越しの手。サキの腕ごと腹を拘束する手。背後から襲い掛かって来たのは間違いなく不審者で暴漢だ。
反射で抵抗し身体を捩るがびくともしない。塞がれた呼吸の中に異臭を嗅ぎ取り遮二無二動かした頭はそれでも僅かにしか動かず、襲われた衝撃でずれていた眼鏡が落ちて事態はむしろ悪化した。
けれど力強さに反して華奢だ――微かに残っていた理性がそう告げたところで、サキの意識は暗闇に落ちた。




