03.氷の瞳の王子様と残念な乙女
三月終わりの金曜日だった。
仕事帰りに眼鏡を新調した。
シンプルなオーバル型で銀色のメタルフレーム。
ちょっと早いけど自分で自分に誕生日祝いだ、と笑って帰宅した一日の終わり。
前触れなく生まれ育った世界から切り離されるとは思いもしなかった、春の夜。
――あの日から、もう丸二年が経った。
◆◆◆
老爺の話を黙って聞いていた王太子は、薄青の瞳を訝しげに歪めてサキを見た。
「その顔に装着している、『めがね』か? それはなんの装備だ。まさか装飾品とは言うまい?」
「装備ではなく実用品で、視力矯正器具です」
両手で弦を掴んで軽く持ち上げて見せたあと、ブリッジを押さえて位置を直す。
どうせなら魔力が見えるとか相手のステータスが表示されるとか、せめて精霊たちが見えるくらいの特典が付いていたら良かったのに、などと思ってみても。新品の銀縁眼鏡は、やはり視力矯正の道具でしかなかった。
「視力補助? そなた、そうは見えぬが盲目か? それを補うような技術がそなたの生国にはあるのか?」
あったらイイネ! ……ではなく。
「……視力が悪いだけで、まったく見えない訳ではないです、よ?」
「そなたはまだ若いようだが」
「誰が老眼か。――失礼」
思わず突っ込んで目を据わらせたまま、近眼と老眼の違いと眼鏡の説明をした。眼鏡を注視する王太子の表情から考えは読めない。ただ静かに耳を傾けている。
こちらの世界に『眼鏡』が無いと知った時のサキの絶望は結構深かった。本気で両手両膝を床について項垂れたほどだ。
老爺が眼鏡に汚破損防止と探索用の魔術をかけてくれたのはサキの絶望と視力の問題を理解したが故の親切心だったが、この術に籠められた魔力が滲んでサキに魔力があるように誤認識されている。
取り敢えず眼鏡の役割については理解したらしい王太子から、新たな問いが発される。――老爺が刺した釘は旅にでも出たらしい、いつの間にやら質問攻めに遭っている。
「こちらに来て二年と言うが、ずいぶん流暢にジルニトラ語を話すな?」
「あー……、勝手に翻訳されてるみたいです。わたしは母国語しか話してませんし話せません」
「……ほう?」
これだけはファンタジーのお約束か。文化習慣の大幅に違う地に迷い込んでいながら意思疎通には辛うじて苦労せず、ゼロから異世界語を勉強せずに済んだのはありがたかった。恣意的な意訳がされていると思うこともあるが、問題は無い。弊害はあるが。
「でもって読み書きはできません」
「うん?」
秀麗な眉が片方、跳ね上がった。
「翻訳されるのは聞く話す、だけです。読む書く、は放置で。おじいちゃんが持ってる本で確認済みです。どれ一冊とて読めませんでした、一文字たりとも」
老爺の蔵書には禁書レベルの危ない物も含まれるらしいが、読めないサキにはただの紙束だ。よって、他に空き部屋もないからと書庫に寝床を与えられている。
「日常生活に使う単語は覚えましたけど、これ以上は望まないで欲しいなぁというところです」
自動翻訳の、唯一といえる弊害がこれだ。
装飾文字のような文字は尻尾や羽が生えた状態が基本仕様で、文字数も四十幾つと多い。一応表音文字のくせに文字の繋がり方で微妙に音が変化し、単語になると翻訳能力のせいでサキには母語として耳に届く。
結果、学習方法はほぼ記号の暗記で、物臭代表が真剣に取り組んだのは短い期間である。
なにせ森の生活ではほとんど文字を必要としない。
日常生活用語、即ち食料や薬、最低限の日用品などの名前を丸覚えしたあとは、気が向いたときに気が向いた単語や短い文章をつまみ食いしただけである。
眼鏡に文字の翻訳機能が付いていれば良かったのに、やはり無く。
唯一のファンタジー特典は会話能力のみで、あとは無い無い尽くしである。
ふむ、としばし考え込む風情だった王太子が、まっすぐにサキを見据えた。あちらでは滅多にお目にかかれない、淡い色合いの瞳。
――アレみたいだ、氷河の割れ目みたいな色。
綺麗だなぁ、などと暢気なことを考えていたら、その薄青から、ゆらりと蜃気楼が立ち昇ったように感じた。――小精霊の存在を感じるときの、あの第六感的なにかが、何かある、と告げている。
レンズの向こうから射抜いてくる氷雪の瞳を黙って見返すことしばし、先に視線を逸らしたのは王太子だった。伏せられた頭からくつくつと笑い声が漏れてくる。
首を傾げるサキの隣で、老爺が薄い胸板を懸命に反らしてご満悦な表情を作っていた。つい、と視線をそちらに流すが、老爺はドヤ顔で王太子だけを見ている。
「……成程」
「ね、お役立ちな気がしてくるでしょ?」
「少なくとも兄上のお傍に付けるのに問題はなさそうで」
「ね、お役立ちなこと請け合いでしょ?」
低く零された王太子の一言に、老爺が満面の笑みで応じる。王太子もなにを納得したものか、ニヤリと少々黒い笑みを口元に残したまま背凭れに身を預け直した。
「年齢の割に受け答えもしっかりしている。言葉遣いはやや難ありだが、まあ不快と言うほどでもなし。この辺りは兄上の方が許容範囲は広いでしょうしね」
ゆっくりと氷色がサキを見詰める。笑みを消した真剣な眼差しで。
「そなた、兄上のお傍に仕えよ」
――うん、意味が解らない。
思考を放棄しそうになる脳ミソを叱咤するが、『王太子殿下のお兄ちゃん』とは何ぞ。この世界は末子相続だったろうか、王権も家督も男子優先の長子相続だと教わったような気がするが記憶違いだったか。
「……意味が解らない」
結局考えることを諦めて隣に視線を移せば、いつもの笑みが返る。
「サキ、意味が解らないって言って投げ出さずに、説明してって言おうね、っていつも言っているでしょ」
「面倒臭い」
「年頃の女の子が……ま、今はいいや。――現王陛下の御子はお二人、どちらも男子でね」
老爺が諦めたように経緯を説明する姿勢になった。
……王城に連れてくる前にその姿勢を見せて欲しかった。
目の前に鎮座されるティタニア殿下は現王陛下の第二子。
第一子はディオネ様と言って、三年と少し前に王位継承権を放棄し臣籍に下られたという。
四年前の夏、ティタニア殿下はジルニトラ王国の成人年齢である十八歳を迎えられた。それ以前から放棄の根回しをしていた兄王子は、この日を境に怒涛の勢いで国王陛下の許可と宰相以下主要重臣らの承認を取り付け、その年の冬至の祭に合わせて王太子交代を王国全土に広く宣言したそうだ。
――弟王子の了解だけを得ないままに。
憤慨した弟王子が、兄王子を始め父王や重臣らに宣言の無効を申し立てるも時すでに遅し。以来、兄王子は王城敷地内にある離宮に引き籠り、公式行事を含め一切外に出てこないという。
「ヒキコモニートな元・王子様……。羨ましいと言っていいのか残念男と評するべきか……」
「うらやましい……ざんねん……」
「なんもせんと引き籠っててご飯が食べられるなんて贅沢の極みですよやっぱ羨ましい」
「…………」
兄王子に対してサキが漏らした感慨に、王太子は口をぱかんと開けて固まった。しばし唖然としていたが、やがて頭痛でも覚えたのか片手で顔を覆うようにして左右のこめかみを揉みだした。老爺が「サキはこういう子だから~」と暢気な声を掛けているが、決して慰める声音ではない。諦めろ、の意を多分に含んでいる。
王太子は頭を押さえて俯いたまま老爺の話を引き継いだ。声が陰鬱に聞こえるのは床に向かって吐き出されるから――だけではないだろう。
「兄上は竜公爵として、公爵領の管理運営は全うされている。なにもされていない訳ではない。ただ、外に出られない。人との接触を極端に絶っておられるのだ」
「りゅう、こうしゃく?」
こちらには爵位制度による貴族が存在する、とはサキも学習済みだ。臣籍に下った王族が貴族として最高位の『公爵』を名乗るのは理解できるが、なにか妙な音がくっついている。首を傾げたサキに、隣から補足が入る。
「うん、竜公爵。ディオネ様のように竜の加護を得て臣下となった方は公爵家を立てて、通称として『竜公爵』って呼ばれるの」
「竜の、加護?」
「うん。ほら儂、〈竜〉に会ってみたくなぁい、って言ったでしょ?」
そういえばその言葉に釣られて王都の王城まで来たのだった。お城のどこかに棲んでいるのだろうか、会わせて貰えるのはいつになるのだろう。
――こちらには竜が実在すると言う。あちらのように伝説の存在ではないのだ。が、残念なことに簡単にお目にかかれるほど気安い存在でもない。そんな貴重種に会えると言われたら、物臭代表を標榜するほどありとあらゆることに関心の薄いサキであっても「行く」の一択だ。
こちらの竜はいわゆる西洋竜、蜥蜴に角と鬣と蝙蝠羽を付けたような姿をしているという。あちらでの西洋竜は邪悪の象徴な扱いが一般的だったが、聞く限りでは守護神扱いなので存在としてはむしろ東洋龍に近い。
そんな守護神たる竜は極稀に、人智を超えた魔力をジルニトラ王国王家直系血族に限定して与える。
その理由は今となっては不明だそうだ。かつては在ったとされる伝承書も、長い歴史の中に幾度か起きた大戦の際に、守り切れずに焼失だか散逸だかしたらしい。
ただ、人の言語を解すが人の心情を解する訳ではない竜が人のように血筋に拘ることから、遥か昔に人の容を取って王家に入った竜が居るという説と、古き時代の建国の祖が竜の棲家を不届き者から守ると誓ったことへの返礼だという二説が有力だという。
「そもそも竜はこの大陸北部ではジルニトラ王国でしか棲息が確認されていない。非常に希少な種であり謎の多い存在だが――その『加護』で以って大陸北部の安寧を維持しているとも言えるから、ありがたいとは思っている」
当事者である王太子もあっさりしたもので、虎の威ならぬ竜の威を借る王国という評価でも気にしていないようだ。
さて兄王子の引き籠り問題は、五年前にその発端を遡る。
この年の初めに十八を迎えた兄王子は、早春に行われる花の祝典で立太子式を済ませて正式に王太子となった。
だが、その直後。
王太子として最初の公務と臨んだ聖殿での祝詞奉納に際し。
気紛れな竜の一体が、彼に加護を与えた。
「一口に『竜の加護』と言っているが、主に与えられるものはふたつ。生来の魔力の底上げと、竜の片鱗を頂くこと」
軽く言えば、人外規格のトンデモ魔力持ちになり、竜の特徴をその身に顕現する。つまり、角とか翼とかが生える、と。
前触れなく気紛れに人外にされるって加護じゃなくて呪いじゃないの、という率直な感想は辛うじて飲み込んだサキである。
「……で、だ。兄上は、その……」
比較的淡々と語っていた王太子がここにきて歯切れが悪い。
なんだろうと首を傾げていると、隣から暢気な声が湧いた。
「ディオネ様は鱗と竜眼を与えられたの。鱗はお顔と手足の一部に」
具体的には額から右の頬に掛けてと、右手の甲から肘に掛けて、左は肘から肩。同様に右足は甲から膝下、左足は太腿が青味を帯びた銀の鱗に覆われた。竜眼は右目、金を帯びた青で瞳孔が縦に裂けた瞳となったという。
「半端」
「…………」
「本当にサキは時々本気で容赦ないよねぇ」
「どうせなら『これぞ竜な人!』ってくらい竜竜してればいいと思う」
表情を変えずにさらりと応じるサキに王太子は絶句し、代わりのように沈黙の人だった騎士殿が問うてきた。
「……お嬢ちゃん、怖いとは思わないかい? 気持ち悪いとは?」
「聞いた限りでは別に。元は真っ当な王子様だったんですよね? 性格が凶暴化した訳でもないんですよね?」
「ああ、まあ……」
「…………」
「サキって妙なところで許容範囲が広いよねぇ」
「妙なて。一応、人を外見や噂で差別してはいけません、てな教育を受けましたから。あ、でも本人を目の前にしてドン引きしたらごめんなさい」
あ、でも引き籠りなら会うこともないのか。
独り呟くサキに、騎士殿も絶句した。
そうして室内を沈黙が満たしてしばし、老爺が笑顔のまま言った。
「その引き籠っちゃってる竜公爵を引っ張り出すのが、サキのお仕事だよ」
――帰っていいですか。
即答した心の声を老爺は読んでいたかもしれないが。
サキが竜公爵の引き籠る離宮へと放り込まれることは既に決定事項だった。
竜公爵の登場が遠いです…orz




