16.雨に溶けた雫と揺らいだ心
竜公爵視点。
叫ばれるのは覚悟していた。
怯えられるのも諦めていた。
――――だが。
笑われるのは想定外だった。
初めて向き合った、扉越しに会話を重ねていた女性。淑女にあるまじき腹を抱えての大笑いを堂々と見せるサツキは、聞いた年齢より随分幼く感じられた。普段の落ち着いた、というより冷めた言動からかけ離れた姿だからかもしれない。
笑ってくれた彼女なら、と。意を決して髪を掻き上げ顔を晒すが、これにはきょとんと瞬く瞳だけが返される。
反応の薄さに、安堵と落胆を織り交ぜたような微妙で複雑な思いを抱えて腕を降ろしたところで、もしや、と問われて驚いた。
サツキの座り込む位置からディオネが立つ場所まで、目測十歩。黒子のような微細な特徴を見取るのは難しいかもしれないが、顔の作りや表情が読めない距離では無い。――少なくともディオネの感覚の中では。王城に居た当時、完全に魔力を抑え込んでみてもこの距離以上で侍女たちが顔色を変えていたし、官吏たちは竜眼から視線を逸らしていた。
だがサツキは平然としていた。銀に縁取られた薄く滑らかな硝子の装飾品のような『めがね』を目元に装着して、これで見えるぞさあ顔を見せろと距離まで詰めて来る。
一度は決意したはずなのに、思いもよらない反応続きで逡巡が生まれる。
それでも。
現状を変えようと。
彼女に賭けてみようと。
これ以上、逃げたくないと。
決めて一歩を踏み出したのだと鼓舞して。
改めて髪を掻き上げて、先程より間近で合わせた瞳の色は暗褐色。
遠目には黒に見えた深い色の瞳が、再びきょとりと瞬く。
本人が『面倒だからしない』と宣言した通り悲鳴を上げることもなく、ただ真っ直ぐに顔を凝視される。嫌悪も恐怖も見えない、さりとて感嘆も読めない呆けたような表情になんとなく圧されてディオネは髪を下ろした。
「おぉう……、残念」
そうして零される言葉は、どこまでもディオネの意表を突いていた。
◆◆◆
サツキが『雨の歌』と口遊んだ歌は、どこか寂しげな響きを帯びていた。
あまり感情を露わにしない彼女の歌声は、語り口と同様、基本的に淡々としている。なのに珍しく、この曲には何かがあるらしい――郷愁か、哀惜か。曲に籠められる感情を読み取ろうと耳を欹てたディオネを突き放すように、ふつりと沈黙が落ちる。
やや間を置いて扉の傍に陣取っていた微弱な魔力が移動する。ディオネも書斎の窓に寄って外を窺う。頼りなげな足取りで細く降る雨の中に彷徨い出た小さな人影は、そのまま水に溶けて消えてしまうのではないかと思わせるほどに儚く――気付けばディオネは動いていた。固く閉ざし続けた扉を難なく引き、開かれたままの窓から外へ。
足音を消すべく最低限の魔力を行使して遮音の結界を纏って、そっと近付いたところで、小さな呟きが零れ落ちた。
「――お迎えの来ない子供は、ずぅっと独りで泣いていろ、ってか」
成人女性の平均より一回り細い体躯、低い背丈。この国では珍しい漆黒の髪の先端から落ちる雫。サイズの合わない侍従見習いの制服が華奢な肩に張り付いていて、勢いはなくとも止めどなく降る雨に、彼女が芯から濡れてしまったことに気付く。
早々に部屋に戻さないと、と思えども手段はなく。天を仰ぐサツキの視界に入らないよう細心の注意を払ってその横顔を確認し――目を瞠った。
静かに故国の歌を口遊んでいた彼女の、閉じた瞼の間から流れ落ちた一滴。
だれひとり、なにひとつ、縁の無い世界に独り迷い込んで。しかし平然と過ごして見せる、淡泊なのか豪胆なのかも不明な、不思議な女性。心の強い人なのだろうと――そう、ディオネは思っていた。
そんな彼女の、静かだけれど悲痛な嘆き。
ディオネは再び踵を返して物音を立てない限界の最速で拭き布を引っ掴み、三度方向転換して雨の中へ戻る。
そうして勢いでサツキに布を被せて、――困った。
まだ姿を見せる覚悟はできていない。
しかし、このまま元の距離感に戻ったとして、サツキはきちんと身体を温めるだろうか。いつだったか、湯を沸かすのも重労働だから湯船は飾り物扱いだと言っていたことを思い出す。
……というか、普通に湯を沸かしていたら、その間に風邪をひく……?
ぐるぐるとしていたディオネの前で、白い布の塊ごそりと動いた。布の裾を少しだけ引き上げた状態で、ゆっくりと歩き出すのを見てディオネは腹を括った。
淑女に許可を得ず触れるのはご法度だが、布越しであるし容赦してもらおう。体調を崩すのを黙って見過ごすことは到底できない。
「ふへぃ!?」
腕の中から上がった悲鳴は、はっきり言って色気も何もない。構わずに華奢な身体を落とさぬよう、しっかり抱きかかえて風呂場まで連れて行く。座らせたサツキが布を取ろうとするのを、その頭を抑えて止めたのは反射だ。肩や腕より近かったので、つい。
浴槽に湯を張り、彼女に入浴を促して書斎から廊下に出る。水場から廊下へ直接出る扉は無い。廊下に居ればサツキの移動に合わせて別室へ入り込める。
そうしたディオネの徹底的な雲隠れ行動に、……扉を蹴り込まれるとは予想だにしない結果だった。サツキが声を荒らげるのは初日以来だが、焦りではなく明確な怒りを表す彼女の剣幕に圧される。鎮まった隙を突いて扉を引けば何故か倒れ込むようにサツキが入って来たことにまた驚かされた。姿勢から見て、扉に足をかけたままだったらしい。…………意表を突くのが本当に上手い。
結局、有耶無耶のままに言葉を交わし。
一言を交わせば、もう強情を張れなくなると自覚していた。
その通りに再び沈黙を貫くことはできなくなって。
往生際悪く扉越しの交流を堅持したのは、淡々としたサツキの態度が恐怖に塗り替えられるのを恐れたからで。
――この時点で既に、何ら気負うことなく自分の傍に在れるサツキという女性に少なくない執着の念を抱いていたことは否定できない。
そんな執着心の欠片が、彼女に帰郷の意思を問わせた。
不機嫌そうな『そんなにわたしに消えて欲しいんですかね』という言葉を、ディオネは慌てて否定した。
「そう簡単に、いや簡単ではなかったかもしれないけれど、割り切ってしまえるものなのかと」
『…………どうして、そんな質問をされるのかを訊いても?』
かなりの間を空けて問い返された内容に、言葉を詰まらせた。
実を言えば、『何故』を問いたい訳ではなかったからだ。
最終的に「やっぱりいいよ」と礼儀を無視した言葉で会話を終わらせたのは情けなかったが、本音を晒すことはできなかった。静かに退室する足音と、やはり静かに閉ざされる扉の音を聞きながら、言えなかった言葉を小さく落とす。
「逆だよ、サツキ。……帰らないで欲しいんだ」
今のディオネが抱く魔力は、安定させていても上位の宮廷魔術士が威圧感を覚える程度には膨大で容赦がない。では他者を威圧しない、或いは魔力をほぼ感知させないレベルまで魔力を抑え込めばいいと、言うは易し行うは難し。完全なる抑制は、その保有魔力に比例して精神力を消耗していく。食事も睡眠も必要最低限で賄える身体になったが、精神は特に増強された訳ではない只人のままで、暴走させないよう気を張りつつ蓋をするのは非常な負担がかかる。
――否。かかっていた、のだ。
驚いたことに、サツキが傍に居るとほとんど消耗を感じない。魔力を内に籠める意識を持って深呼吸をひとつするだけで、抑制とその維持が簡単にできる。初日は色々とディオネも混乱していて――独身であった筈の恩師の孫ってなんだ――気付かなかったが、数日後にシャルナクの訪問に合わせて魔力を少し抑え込んだ際に違和感を覚えた。
その後、安定状態から抑制、再びの解放と、幾度か繰り返して確信に至った。
――サツキはどうやら、他者の魔力操作を補助する。
本人が意図して扱う技能ではなく、ただそこに居るだけで周囲に影響を齎す天恵のようだ。
ディオネが離宮に籠る理由の内に挙げる『竜の魔力は安定させても無差別で威圧状態』という問題を、サツキはその身ひとつで解消してくれる。
小精霊たちが彼女に懐くのも似たような理由だろう、精霊は魔力の塊だ。人間や動物たちのような肉の器を持たないが故に発生したばかりの彼らの存在は不安定だが、サツキを介せば負担を軽減しつつ――というか、おそらく一切の負担無しに、自身の存在を把握し馴染ませ、自己を確立させ得るだろう。
この世界に於いて、異物とも言えるサツキ。
『智慧者』の称号を持つ、前宮廷魔術士筆頭の恩師が『帰す方策は無い』と断じた以上、現状の人智を超えていることは確実だ。
界渡りの可能性を持つ術式を挙げるなら転移魔術しかない。術者本人の移動を行う術式で、送付魔術同様、入口と出口の二ヶ所に転移陣を必要とする。
サツキはこちらに出て来た場から動いておらず、ほどなく恩師が駆け付けているというから、少なくともこちら側の転移陣を恩師は確認できた筈だ。直前に繋がれた座標の特定をすることも、恩師ならば不可能ではなかっただろう。
それだけの知識と魔力を持ち合わせる恩師を以ってして『方策無し』。読めないような未知の転移陣だったか、――転移陣自体が存在しなかったか。
就寝間際に異界に行こうと思い立つ筈も無い。事実、彼女は驚愕と恐怖に囚われたと語った。そもそもサツキには魔力が無く、魔術を扱えない。
――自身にはなんの力もなく、けれど小精霊に懐かれているサツキ。
小さな欠片を拾い集めてみれば、界渡りの謎に精霊が関わっている可能性が浮上する。
恩師がサツキを帰す方策を探すために『研究』しようとしたのは、精霊の詳細だろうか。
『竜であれば』と可能性を提示したのは、精霊と同じく人の理を超越した存在だからだろう。
ディオネを通して竜に接触することが可能かは分からない。
接触できたとして、人間の要望に応じてくれる可能性は低いだろう。
それでも、一片の望みを懸けるに相応しい存在であることは間違いない。
だが。
ディオネは既にサツキを手放し難く思っている。
どれほど自己中心的で浅ましいと謗られようと、彼女が居てくれるなら自分はヒトとして生きていけると思ってしまったから。
――彼女の意思として、『帰る方法が見付かったとしても帰らない』という言葉が欲しい。
だから、『素直に森に帰してくれるのかなぁ』という言葉に思わず反応した。
重ねて行く会話のどこに不快を覚えたのか、常には平坦なサツキの喋り口に微細な棘が混じる。饒舌に語る言葉は徐々に辛辣さを帯びて――ディオネを拒絶した。
『――あぁ、本当に面倒臭い』
彼女の口癖。けれど、これほど重く痛い響きを持っていたのは初めてだった。
『文句があれば面と向かってどうぞ』
それは、無理。
『紳士失格貴公子様の言葉には従いませんので悪しからず』
まだ貴公子とは認めてくれてるんだ?
僅かに茶化しながらも、心は沈んでいく。
そのまま退室していく彼女を追うほどの覚悟もなく、ただ名を呼びかけるだけ。
あまりの情けなさに消沈して、なにもなかったように振る舞うサツキに合わせることもできずに鬱々と応じて数日。
妙に既視感を刺激される忙しないノックのあとに、
『帰れって言うなら帰す努力を見せませんかー。帰るなと言うなら引き止める誠意を示しませんかー』
――帰るなと言うなら、誠意を示せ――。
響いた言葉に心が揺れる。
呆けた意識の片隅に不穏な気配が過ぎる。
「……蹴りはやめようね、サツキ」
舌打ちが返されたと思うのは空耳だろうか。
強行突破の手段が蹴りとか、妙なところで荒々しい。
謝罪以外の言葉を要求されて、――面と向かっての言葉しか受け付けないと言われたことを思い出す。
ならば、向き合うしか。
けれど惰弱なこの心を固めるに、あと一押し。
……欲したのが今や一等の好物となった料理だったのは許されて欲しい。
脈絡が読めなかっただろうに深追いせず応じてくれたサツキには、本当に頭が下がる思いである。
◆◆◆
「瑠璃石みたいですごい綺麗なのでもうちょっと眺めていたかったです」
揺らがない瞳は素直に好奇心を露わにして。
「竜の眼、もう一回」
――ああ、もう。
五年と少し。
ディオネが心の奥底に抱え続けた懊悩を、ほんの僅かな時間の内に吹き飛ばしてしまったこの女性は。
――竜の執心の深さを、思い知ればいい。
一ヶ月以上空きました、すみません…。
気を抜くとディオネが乙女化するのを必死で引き戻しつつ…大丈夫でしょうか、このヒーロー。
流れとしては竜公爵サイドの、15話目◆10・13・14話目◆15話目、な感じでした。




