第9話 ニコの剣
胸の音を聞く先生になって、一週間がたとうとしていた。
一日目の朝、私は叩きすぎた。
「……フローラ」
「はい」
「それは、胸を叩く音じゃない。扉を叩く音だ」
指が震えて、力の加減が分からなかったのだ。カイル様は、真顔でそう言ってから、少しだけ肩を揺らした。
二日目からは、ちゃんと叩けた。
乾いた音。乾いた音。湿った土の音。セオさんが置いていった胸の絵の、細い線と同じ場所で、毎朝、音が変わった。
筒を当てると、心臓は、毎朝、速かった。
私は、帳面に毎朝そう書いた。日付。縁の位置、変わらず。音、速い。
三日目の朝、カイル様が、帳面を覗きこんで言った。
「……それは、書かなくていい」
「帳簿は、全部書きます」
「病と関係ない」
「関係あるかどうかは、セオさんが決めます」
窓の外を向いた耳の先が、赤かった。
六日目まで、線は動かなかった。
「同じです」
私がそう言うたびに、ボタンを留めながら、答えが返ってきた。
「同じなら、いい」
セオさんがいたころと、同じ言葉だった。それを、今は私が聞いている。
夜は、かもめ亭の二階で、手紙を書いた。国じゅうの施療院と、修道院と、北の村の教会へ。石心病で、四十年ほど前に春を越えた人の記録はありませんか。一週間で、二十三通になった。
マーサさんが、封筒の山を見て言った。
「焼き林檎と、同じ数だね」
「……数えていませんでした」
「あんたが数えないなんて、珍しいこともあるもんだ」
*
午後は、浜で稽古だった。
カイル様は、毎日、ニコさんに剣を教えた。ただし、半刻だけ。
それは、休む先生の決まりだった。
「半刻は、どうやって計る」
決まりを作った日、カイル様が聞いた。私が答える前に、屋台からピップが手を挙げた。
「焼き林檎がひとつ焼けるのが、ちょうど半刻だよ」
それで決まった。
毎日、稽古が始まると、ピップが林檎を一つ、炭の上に乗せる。蜂蜜の匂いがしてきたら、終わりの合図だ。
「力むな」
「はいっ!」
「腕で振るな。腰で振れ」
「はいっ!」
「肩が上がっている」
「はいっ!」
「返事だけは、毎日いい」
ニコさんは、毎日、力んでいた。
日を追うごとに、力みは、ひどくなっていった。
最初の日より、二日目。二日目より、三日目。木剣を握る指が白くなり、振るたびに歯を食いしばる音がした。
五日目に、カイル様が、木剣を下ろして言った。
「ニコ。お前、急いでいるな」
ニコさんは、答えなかった。
港の向こうの、広場のほうを、一度だけ見た。五日前、乗合馬車が出ていったほうだった。
あの日、ニコさんは、セオさんに聞いた。副団長は、本当に、何もなかったんですか。
答えは、もらえなかった。
もらえなかったから、急いでいるのだと思った。
急いでいるのは、カイル様も同じだった。自分が急いでいる人には、隣の誰かが、誰のために急いでいるのかが、見えないのかもしれなかった。
六日目の夕方、ピップの屋台の前で、ニコさんに呼び止められた。
「フローラさん。毎朝、夜明けに、詰所に行ってますよね」
串を受け取ろうとした手が、止まった。
「見張り台から、見えるんです。夜の見張りの交代のとき。副団長が詰所に入って、そのあと、フローラさんが入っていくのが」
夜明けの詰所なら、誰も来ない。あの人はそう言った。来なくても、上からは見えていたのだ。
「……焼き林檎を、届けに」
口から出たのは、自分でも呆れるくらい下手な嘘だった。
屋台の向こうで、ピップが、炭をおこす手で顔を覆った。セオさんに嘘の練習をさせた十歳の子の目が、姉ちゃんもか、と言っていた。
ニコさんは、私の手元を見た。林檎は、持っていなかった。
それでも、ニコさんは、少しだけ笑った。
「……副団長、林檎、好きですもんね」
それだけ言って、串を三本受け取って、宿舎のほうへ歩いていった。いつもは、副団長の分と、自分の分と、自分のおかわりの分。今日は、三本とも、袋に入れたままだった。
翌朝、新人たちのあいだで、副団長に毎朝焼き林檎を届ける女がいる、という噂が立った。言い出したのは、別の夜の見張り番だったらしい。その噂を、昼までに一人ずつ黙らせて回ったのは、ニコさんだった。
*
七日目の朝、詰所で、音が変わる場所が、ずれた。
とん。乾いた音。
とん。湿った音。
いつもの線の、少し手前だった。
私は、指を戻して、もう一度叩いた。とん。湿った音。
もう一度。
同じだった。
「……広がったか」
カイル様が、言った。私の顔を見ただけで、分かったらしい。
「爪の先、半分です」
自分の声が、帳簿の数字を読み上げるときの声で、少しほっとした。そういう声で言わなければ、言えなかった。
胸の絵の、細い線の少し外側に、もう一本、線を描き足した。日付を書いた。十月二十四日。
カイル様は、ボタンを留めながら、その線を見ていた。
「同じなら、いい」とは、言わなかった。
代わりに、こう言った。
「なら、今日だ」
「……今日?」
「教え終えるのは、終えられるうちだ」
*
その日の午後、ピップが炭の上に林檎を乗せると、カイル様は、ニコさんの前に立った。
「ニコ。今日、俺から一本取れ」
浜が、静かになった。
波打ち際で見ていた新人たちが、顔を見合わせた。
「取れたら、教え終わりだ」
ニコさんの顔から、血の気が引いた。
「……終わり、って」
「教えることが、なくなるという意味だ」
「嫌です」
すぐに、返ってきた。
「まだ、力んでます。まだ、肩が上がってます。副団長、毎日そう言ってるじゃないですか。終わりなんて、まだ」
「だから、取れと言っている」
そう言って、木剣を構えた。
「構えろ」
ニコさんは、唇を噛んで、構えた。
*
一本目。
ニコさんの木剣は、まっすぐカイル様の肩を狙って、軽く払われた。
二本目。
払われた。
三本目、四本目。ニコさんが力めば力むほど、木剣は遠くへ弾かれた。カイル様は、ほとんど足を動かしていなかった。
新人たちが、息をのんで見ていた。屋台の陰で、ピップが林檎を返す手を止めていた。
十本目を払ったとき、カイル様の息が、少しだけ乱れた。
左手が、ほんの一瞬、胸のほうへ上がりかけて、木剣の柄に戻った。
私は、舟の陰で、立ち上がりかけた。
ニコさんも、見ていた。
ニコさんの木剣が、下がった。
「……副団長。今日は、やめましょう」
「構えろ」
「でも」
「ニコ」
カイル様の声は、低かった。怒っている声ではなかった。
「俺の胸を見て、剣を止めるなら、俺の教えたことは、全部無駄だ。海賊は、止まらない」
ニコさんの肩が、震えた。
それから、顔を上げた。
泣いていた。
声は出していなかった。目から、ぼろぼろと落ちるものを、拭おうともしなかった。
ニコさんは、木剣を、ゆっくり構え直した。
肩が、上がっていなかった。
指も、白くなっていなかった。
歯を食いしばる音も、しなかった。
泣いている人の体からは、力が抜けるのだと、私は、そのとき初めて知った。
ニコさんが、踏みこんだ。
腕ではなかった。腰から、まっすぐに。
カイル様の構えは、崩れていなかった。それでも、ニコさんの木剣は、その構えの上から、まっすぐに届いた。
とん、と。
カイル様の肩に、木剣の先が、軽く当たった。
浜が、しんとした。
波の音だけが、寄せて、引いた。
「……今のだ」
カイル様が、言った。
「力が、抜けていた」
それから、カイル様は、笑った。
口の端を上げるだけではなかった。目の端が下がって、顔じゅうが、ほどけるように。
こういうとき、一番に騒ぐのは、ニコさんのはずだった。副団長が笑った、と。
ニコさんは、叫ばなかった。木剣を握ったまま、砂の上に膝をついて、泣いていた。
代わりに、波打ち際の新人たちが、叫んだ。
「副団長が、笑った!」
「笑った! 今の、笑ったよな!」
屋台のほうから、甘い匂いが流れてきた。
「……焼けたよ」
ピップの声が、少しだけ鼻声だった。
「半刻です」
私は、舟の陰から言った。自分の声も、少しだけ鼻声だった。
カイル様は、木剣を下ろした。
*
ニコさんは、膝をついたまま、カイル様を見上げた。
「副団長。教え終わっても、明日も、稽古、見てくれますか」
「……見るだけなら」
「見るだけでいいです」
ニコさんは、袖で顔をこすった。
「俺、もう、何も聞きません。副団長が言わないことは、聞きません」
カイル様の手が、木剣の柄の上で、止まった。
「だから、見ててください。二本目、取りますから。三本目も。十本目も」
カイル様は、しばらく何も言わなかった。
それから、ニコさんの頭に、手を置いた。乱暴に、一度だけ、髪をかき混ぜた。
「……ああ。見ている」
ピップが、焼き上がった林檎を、黙ってニコさんの手に乗せた。蜂蜜多めだった。
「一本の、ごほうび」
ニコさんは、林檎を両手で抱えて、また泣いた。
*
夕方、桟橋で、私は懐からリストの紙を出して、裏返した。
カイル様が、黙ってペンを差し出した。
「線を、頼む」
私は、ペンを受け取って、五行目に、まっすぐ線を一本引いた。
『五、ニコに剣を教え終える』
カイル様は、引かれた線を、黙って見ていた。
十日前、三行目に線を引いたとき、この人は、少し惜しいと言った。叶ったら、そこで終わる、と。
「……惜しいですか」
「いや」
カイル様は、首を振った。
「あいつの二本目は、ここには書いていない。あれは、あいつの分だ」
線を引いたら、そこで終わる。そのはずだった。
でも、今日の線の先には、ニコさんの二本目がある。三本目も、十本目も。この人がいなくなっても、続いていくものが。
この人は、それを残すために、急いでいたのだ。
*
その夜、かもめ亭の二階で、私は、机の上に二枚の紙を並べた。
一枚は、リスト。五行目に、今日の線。
一枚は、胸の絵。細い線の外側に、今日の線。
今日、私は、二本の線を引いた。
一本は、叶ったしるしで。
もう一本は、減っていくしるしだった。
どちらも、同じ私の手で、同じ日に引いた。
セオさんへの手紙に、胸の絵の線を写した。リストの線のことも、一行だけ書き足した。
期限まで、百六十八日。
ニコ(17)。新人騎士。今日、一本取った。二本目は、まだ。
次回、実家からの手紙。
期限まで あと168日
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