第8話 治った人がいるらしい
翌朝、夜が明けてすぐの詰所で、セオさんは、昨日と同じ場所を、昨日よりもっと長く叩いていた。
とん。とん。
右から。左から。上から。何度も。
それから筒を当てて、長いあいだ目を閉じていた。
「……叩き方の違いでは、ありませんでした」
筒を離して、セオさんは言った。
「昨日と同じところまで、広がっています。一昨日より、爪の先ひとつ分」
カイル様は、黙ってシャツのボタンを留めた。昨日と同じ速さだった。
「それと、副団長」
セオさんの声が、少しだけ硬くなった。
「昨日、無理はしないとおっしゃいましたよね」
「……一振りだけのつもりだった」
「二振り目を、構えておられました」
カイル様は、何も言い返さなかった。
戸口のところで、私は、思わず小さく笑ってしまった。笑っていい話ではないのに。五日前、十歳の子に嘘の練習で叱られていた見習い医師が、今は副団長を叱っている。
セオさんは、懐から一通の手紙を取り出した。
「昨夜、王都から届きました。バーナビー先生からです」
*
封筒の宛名は、震えた字だった。『ルミエ港 かもめ亭気付 セオ殿』。
「お二人に、読んでいただきたいんです」
私は便箋を開いた。カイル様が、横から覗きこんだ。
『セオへ』のすぐ下に、三行、線で消した跡があった。インクが滲むほど、何度も上からなぞってある。字は、読めなかった。
三行とも、同じくらいの長さだった。
帳簿で、同じ長さの書き損じが三つ続くときは、同じことを三回書こうとして、三回やめたときだ。
『セオへ
書斎からは、出た。眼鏡は、まだ三回に一回しか見つからん。
詫びを書こうとして、三度消した。わしの詫びなど、港の副団長殿には何の足しにもならん。だから、詫びの代わりに、思い出したことを書く。
四十年ほど前、わしがまだ見習いだったころ、北から来た年寄りの医者が、酒の席でこう言っておった。
石心病で、一人だけ、春を越えた者がいる、と。
わしは、与太話だと思って聞き流した。その医者の名も、どこの施療院の者だったかも、覚えておらん。四十年、一度も思い出さなかった。
思い出したのは、診察簿の、副団長殿の頁を、三日、眺めておったからだ。
記録庫を、ひっくり返しておる。眼鏡が見つからんので、はかどらん。
戻ってこい。お前の目が要る。
バーナビー』
「……春を、越えた」
気がつくと、声に出して読んでいた。
「セオさん。春を越えた、というのは」
「宣告から一年を越えて、生きた、ということです。……治った、ということだと思います。たぶん」
セオさんは、たぶん、のところで、目を伏せなかった。
カイル様は、何も言わなかった。便箋の、『一人だけ』のところを、じっと見ていた。
「正直に、申し上げます」
セオさんが、背筋を伸ばした。
「私が写してきた十一人の中に、治った人は一人もいません。これは、言い伝えです。記録は、まだ見つかっていません」
声が、強くなった。
「ですが、まだ、見つかっていないだけです。先生は、四十年、思い出さなかった。誰も、探さなかったんです」
「なぜ、見せた」
カイル様が、やっと口を開いた。
セオさんは、少し言いよどんだ。
「昨日の浜を見るまでの私なら、お見せしませんでした。医者は、分からないことを、分からないと言うものです。言い伝えは、分からないことの中でも、一番あやふやです」
セオさんは、膝の上で手を握った。
「でも、見てしまいました。確かになるまで待つ時間が、あなたには、もうないので」
カイル様は、便箋から顔を上げた。
「……らしい、か」
「はい。らしい、です」
セオさんは、まっすぐ頷いた。
「今日の昼の馬車で、王都へ戻ります。先生と二人で、記録庫の底まで探します」
*
「それで、条件のことですが」
セオさんは、私のほうを向いた。
「私が王都に帰るまで、毎朝、と申し上げました。今日で、帰ります。……副団長の胸の音を、明日から聞く人が要ります」
カイル様が、私を見た。
私も、カイル様を見た。
「……フローラに、か」
「医者でなくても、叩いて、音を聞くことはできます。帳簿の数字が一つ違えば分かる方なら、胸の音が一つ違っても、分かります」
セオさんは、椅子を一つ、カイル様の正面に引いて、私に座るよう手で示した。
「副団長。申し訳ありませんが、もう一度、上を」
カイル様は、留めたばかりのボタンを、一つずつ外した。
近くで見ると、傷跡は、詰所の小窓ごしに見たときよりずっと多かった。刃の跡の上に、縫った跡が重なっていた。この人は、何度も、誰かの前に立ってきたのだ。
「左手の中指を、胸に当ててください。指の腹を、ぴったりと。その上を、右手の中指で、軽く、とん、と」
言われたとおりに、指を置いた。
温かかった。
当たり前のことなのに、指先が驚いた。この胸の中で、硬くなっていくものがあるなんて、触っても分からなかった。
とん。
乾いた、軽い音がした。
指を少しずらして、もう一度。とん。
同じ音。
もう一度。
とん。
音が、変わった。
乾いた木を叩いていたのが、急に、湿った土を叩いたような音になった。
私の指が、そこで止まった。
「そこが、縁です」
セオさんの声が、静かに言った。
「覚えてください。毎朝、同じところから叩き始めて、音が変わる場所を探してください」
私は、もう一度、叩いた。とん。湿った音。指一本ぶん戻して、とん。乾いた音。
その境目を、指でなぞった。
ここから先が、この人の残りを、少しずつ食べている場所だった。
目の奥が熱くなるのを、私は、指先に力を入れてこらえた。今、泣いたら、音が聞こえなくなる。
*
「次は、筒です」
セオさんが、木の筒を私の手に乗せた。思ったより軽かった。
広がった口をカイル様の胸に当てて、反対の端に、耳をつける。
どくん。
どくん。
思っていたより、ずっと大きな音だった。
どくん、どくん、どくん。
「……セオさん。これ、速くありませんか」
セオさんが、私の手から筒を借りて、耳を当てた。
「速いですね」
そして、帳面を開いた。
「副団長。新人の皆さんの見本をしていただいたときより、だいぶ速いです」
「……速くない」
「速いです」
「先生。それは、帳面に書くな」
セオさんは、書いた。
カイル様は、窓の外を見た。耳の先が、赤かった。
私は、筒をもう一度借りて、耳を当てた。速い音の下に、かすかに、何かが擦れるような音が混じっていた。誰かが、ずっと遠くで、砂の上を歩いているような音だった。
この音を、明日から、毎朝、私が聞く。
セオさんは、帳面から一枚を破いて、私に渡した。胸の形が描かれていて、左の胸の上に、細い線が一本、引いてあった。今朝の縁の位置だった。
「毎朝、この線と比べてください。広がっていたら、日付を書いて、線を描き足してください。手紙で、私に知らせてください」
「日付と、数と、線」
「帳簿と、同じです」
セオさんの口元が、ゆるんだ。
「フローラ様の帳面なら、たぶん、私のより正確です」
「場所は、ここでいい」
ボタンを留めながら、カイル様が言った。
「夜明けの詰所なら、誰も来ない」
*
「探します」
詰所を出たところで、私は言った。
カイル様が、足を止めた。
「王都の記録庫は、セオさんとバーナビー先生が探してくれます。それ以外の全部を、私が探します。国じゅうの施療院と、修道院と、北の村の教会に、手紙を書きます」
「全部」
「全部です」
カイル様は、しばらく黙って、私の顔を見ていた。
「……期待は、するな」
低い声だった。
「らしい、だ。四十年前の、酒の席の話だ。外れたら、君がまた、そういう顔をする」
「外れても、探した分だけ、どこにないかが分かります」
私は、胸を張った。
「ずっと、帳簿をつけてきました。合わない数字は、全部の頁を見れば、必ず見つかります。どこにもない、ということも、全部の頁を見なければ、言えないんです」
カイル様は、何か言いかけて、やめた。
それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「……君の手紙は、長そうだな」
「長いですよ。帳簿をつけてきた人間の手紙ですから」
*
昼前、広場に、王都行きの乗合馬車が止まっていた。
セオさんは、まだ乗ってもいないのに、もう青い顔をしていた。
マーサさんが、小さな布の包みを、セオさんの手に握らせた。
「生姜の砂糖漬けだよ。気持ち悪くなったら齧りな。亭主も、船に乗る前は、いつもこれを齧ってた」
ピップは、手ぶらだった。
「焼き林檎は、やめとく。前に、蜂蜜のにおいで酔ったでしょ」
「……覚えていてくれたんですね」
「お客の顔は、全部覚えてるよ」
新人騎士たちも、ぞろぞろとやってきた。遺書を書いた新人が、一番前に出て、深々と頭を下げた。
「先生。あのとき、生きています、って言ってくれて、ありがとうございました。あれから、遺書は燃やしました」
「燃やしてください。もう、要りません」
セオさんは、大真面目に頷いた。
最後に、ニコさんが前に出た。いつもの元気な顔ではなかった。
「先生」
「はい」
「副団長は、本当に、何もなかったんですか」
広場の空気が、すっと冷えた気がした。
私は、息を止めた。セオさんは、嘘が下手だ。四日前の朝、倒れた椅子で、それはもう証明されている。
セオさんは、ニコさんの顔を、まっすぐ見た。
「私が港に来たのは、新人の皆さんの健康診断のためです。皆さん、全員、健康でした」
ニコさんは、しばらくセオさんの顔を見ていた。
やがて、「……そうですよね」と言って、一歩下がった。納得した顔では、なかった。
「医者の兄ちゃん、嘘、うまくなったね」
ピップが、小声で言った。
「嘘は、ひとつも言っていません」
セオさんは、もっと小さな声で答えた。
それから、私にだけ聞こえるように、付け足した。
「……それが、一番、苦しいです」
御者が、出発の声をかけた。
セオさんが馬車に乗りこもうとしたとき、広場の向こうから、騎士団の制服が歩いてきた。
「見回りの途中だ」
カイル様は、誰にともなくそう言って、馬車の前で止まった。
「先生」
「はい」
「記録が見つからなくても、手紙をくれ。見つからなかった、と」
セオさんは、一度だけ、強く頷いた。
「必ず。ないなら、ないと、ちゃんとお伝えします」
馬車が動き出した。
窓から顔を出したセオさんは、もう生姜を齧っていた。それでも、見えなくなるまで、帳面を振っていた。
*
広場に、私とカイル様だけが残った。
私は、手の中の筒を見下ろした。セオさんが、王都には先生の筒があるからと、置いていったものだった。
「胸の先生が、いなくなったな」
カイル様が言った。
「休む先生と、兼任します」
「……忙しい先生だ」
「忙しいのは、得意です。休むのも、得意です」
「どっちなんだ」
「両方です」
カイル様が、短く息を吐いた。笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
*
〈カイル〉
夜の見張りの交代に、見張り台の梯子を登った。
途中で、一度止まった。
三段登って、もう一度止まった。
宣告の日の午後は、一度だった。彼女が、下から見ていた日だ。
上に着いて、手すりにもたれ、息が整うのを待った。沖の島影に、船の灯りはない。
今朝、彼女の指が、胸の上で止まったのを覚えている。乾いた音が、鈍い音に変わる、その境目で。
指先が、震えていた。その指が、ゆっくり動いて、縁をなぞった。覚えようとしていた。帳簿の数字を、頭に入れるときの顔で。
筒の向こうで、自分の心臓がうるさく鳴っていたのを、あの見習い医師に聞かれた。書くなと言ったのに、書いていた。
春を越えた者が、一人いるらしい。
らしい、だ。
期待はするな、と自分に言う。外れたとき、泣くのは彼女だ。
それでも。
気がつくと、沖ではなく、北を見ていた。
見張りは、沖を見るものだ。俺は、目を沖へ戻した。
交代の鐘が鳴るまでに、もう一度だけ、北を見た。
胸の奥で、今朝、彼女の指が見つけた縁が、鈍く痛んだ。
期限まで、百七十五日。
バーナビー(68)。誤診の張本人。書斎からは出た。眼鏡は、まだ額の上にある。
次回、ニコの剣。
期限まで あと175日
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