第7話 いつかは、もうない
翌朝の詰所で、セオさんの指が、いつもより長く、カイル様の胸の上で止まっていた。
とん、とん。
場所を少しずらして、もう一度。とん。
それから筒を当てて、目を閉じた。
戸口の外で見ていた私は、知らないうちに息を止めていた。昨日も一昨日も、セオさんは筒を離すとすぐに「同じです」と言った。今日は、なかなか言わなかった。
ようやく筒を離したセオさんは、帳面に何かを書いてから、顔を上げた。
「……少しだけ、広がっています」
カイル様の、シャツのボタンを留める手が止まった。
「どのくらいだ」
「爪の先、ひとつ分くらいです。昨日より、硬いところの縁が、こちら側に」
セオさんは、自分の胸の、心臓の少し外側を指でさした。
「一日で変わるものではないので、もしかしたら、私の叩き方の違いかもしれません。明日、もう一度確かめます」
医者は、分からないことを、分からないと言う。昨日、この人はそう言った。
今の言い方は、分からない、の言い方ではなかった。
カイル様は、しばらく黙ってボタンを見下ろしていた。それから、最後の一つを留めた。
「先生。フローラ。頼みがある」
*
「騎士団には、言うな」
カイル様は、詰所の窓の外の、海を見ながら言った。
「団長にも。ニコにも。新人たちにも」
それから、窓の外を見たまま、付け足した。
「ニコには、もう聞かれた。診察の日の夜に、宿舎で。……何もなかった、と答えた」
健康診断の作戦が、何のためのものだったのか。ニコさんは、半分くらいは分かっていたはずだ。だから、聞いたのだ。
「副団長、それは」
セオさんが、椅子から腰を浮かせた。
「医者として、それは承知できません。痛みの間が詰まってくれば、見張り台の梯子も、剣の稽古も、いつか体が」
「分かっている。無理はしない」
カイル様は、窓から目を離さなかった。
「だが、言えば、王都へ戻される。静養でも、治療でも、名目は何でもいい。病を抱えた副団長を、海賊の出る港に置いておく騎士団はない」
それから、少しだけ声が低くなった。
「父も、この港から、呼び戻された」
昨日の夕方、灯台の下で聞いた話だった。あと何日か待てば灯る、と言った父親。その何日かを待たずに、呼び戻された父親。それきり、この人は灯りを見ていない。
「王都へ戻されたら、灯台はどこからも見えない。……一行目は、書き直さないんだろう」
カイル様は、私を見た。
昨日、私が「嫌です」と言ったのを、この人はちゃんと覚えていた。
「書き直しません」
「なら、俺はここにいなければならない」
セオさんは、何か言いかけて、口を閉じた。それから、長いため息をついて、帳面を閉じた。
「……毎朝、胸の音を聞かせてください。私が王都に帰るまでは、一日も欠かさずに。それが条件です」
「分かった」
二人の目が、私に向いた。
私は、懐のリストの紙に、服の上から手を当てた。
「私も、黙っています」
カイル様の肩から、ほんの少しだけ、力が抜けたのが分かった。
「そのかわり」
私は、紙を懐から出した。
「いつかは、もうなしです」
*
昼の桟橋は、風がなかった。
私は、リストの紙を裏返して、膝の上に置いた。角ばった字が二行。一行目と、線の引かれた三行目。そのあいだに、一行ぶんの白いところ。
「カイル様の『いつか』を、全部、ここに書いてください」
「全部」
「いつかやろうと思って、やらずにきたこと。全部です」
カイル様は、ペンを受け取って、しばらく紙の上で止まっていた。
「……そんなに、ない」
「嘘です」
「なぜ分かる」
「半年、毎朝、焼き林檎の最後のひと口を海鳥にやっていた人が、自分のことを後回しにしていないわけがありません」
カイル様は、何も言い返さなかった。
それから、三行目の下に、ゆっくりと書き始めた。
『四、父と来た岬に、もう一度行く』
「港の北の外れに、岬がある。子どもの頃、父と灯台を待ったのは、そこだ。この港に来てから、一度も行っていない」
「近いんですか」
「歩いて、半日もかからない」
「半年、半日を、取らなかったんですね」
「……行けば、思い出すと思った」
ペンが、次の行へ移った。
『五、ニコに剣を教え終える』
「あいつは、筋はいい。力みすぎるのが悪い癖だ。春までに、一人前にしてやりたい」
「春までに」
「……教え終えるまでに」
カイル様は、言い直した。
春は、この人の期限と同じ季節だった。今朝、爪の先ひとつ分広がったと言われた胸で、春の約束はしない。そういう言い直しだった。
『六、団長に一度だけ勝つ』
私は、思わず顔を上げた。
「団長、ですか」
「ルーファス団長だ。年に一度、視察で港に来る。手合わせを、一度も勝ったことがない」
「一度も」
「十年で、一度も」
カイル様は、真顔だった。
この人は、自分の残りが半年だと言われて、まだ三日しかたっていないのに、十年勝てない相手に勝つと書いている。
──無謀だ。
──でも、そのくらいでいい。
それから、ペンが止まった。
七行目のところで、カイル様は、長いこと動かなかった。
海鳥が一羽、桟橋の先に降りてきて、また飛んでいった。
「……思いつかない、ですか」
「いや」
カイル様は、ペン先を紙につけたまま言った。
「書くことは、決まっている。書いていいのか、分からない」
それから、一文字ずつ、ゆっくり書いた。
『七、休む』
私は、その二文字を、しばらく見ていた。
「休む」
「騎士団に入ってから、一日も休んだことがない。休めと言われた日も、何かしらしていた」
「夏の終わりに、桟橋で一日、何もしなかったじゃないですか」
「あれは、君の六番目だ」
カイル様は、ペンを置いた。
「君が休むのを、見張っていた。俺の休みじゃない」
それから、少しだけ困ったように、紙の上の二文字を見た。
「休み方が、分からない」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
この人の七つの願いの最後の一つは、何かを手に入れることではなかった。何もしないことだった。半年、私のリストに付き合って、冷たい海に入って、桟橋で私が眠るのを夕方まで待っていた人が。あの一日でさえ、私のために見張っていた人が。自分のための一日を、一度も持ったことがなかったのだ。
私は、目の奥が熱くなるのをこらえて、わざと胸を張った。
「それなら、私が教えます」
「君が」
「帳簿を投げて家を出てきた人間ですよ。休むのは、得意です」
カイル様が、少しだけ目を見開いた。それから、口の端が、ほんの少し上がった。
「……先生が二人もいて、心強いな」
「先生?」
「胸の先生と、休む先生だ」
──真顔で言わないでほしい。笑っていいのか分からない。
*
紙を返すとき、カイル様が、ふと表側を見た。
私の七つ。六つには、線が引いてある。
七行目だけが、まだ白いままだった。
『七、一度だけ、恋をする』
「……君の七行目は、まだ線が引いてないな」
心臓が、跳ねた。
半年前、屋台の前で風に飛ばされて、この人に一度だけ読まれた字だ。あのときのこの人は、知らない誰かのリストを読む顔をしていた。
「そ、それは」
「叶っていないのか」
「……そのうち、です」
カイル様は、少しだけ首をかしげた。
それから、なぜか、耳の先を赤くして、海のほうを向いた。
「……そうか。そのうち、か」
自分で「そのうち」と言って二行目を隠している人に、「そのうち」と言い返したのだと、言ってから気づいた。
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
桟橋の上で、リストの紙の表と裏に、一行ずつ、白いところが残っていた。
*
夕方、浜で、カイル様がニコさんに剣を教えていた。
さっそく、五行目だ。
「力むな。剣は腕で振るな。腰で振れ」
「は、はいっ!」
「肩が上がっている」
「はいっ!」
「返事だけはいい」
ニコさんが木剣を振るたびに、砂が舞った。新人たちが、波打ち際で並んで見ていた。セオさんも、ピップの屋台の脇から見ていた。私は、少し離れた舟の陰に座っていた。
「もう一度だ。見ていろ」
カイル様が、ニコさんの木剣を取って、構えた。
ひと振り。
空気が、すっと切れる音がした。新人たちが、そろって息をのんだ。
二振り目を構えたところで、カイル様の動きが止まった。
木剣の先が、ゆっくり下がった。
左手が、胸に上がった。
押さえた、というより、つかんだ。シャツの上から、指が白くなるほど。
カイル様の膝が、砂に落ちた。
「副団長!」
ニコさんの声が、裏返った。
私は、舟の陰から立ち上がっていた。セオさんが、屋台の脇から走り出すのが見えた。
カイル様は、砂に片膝をついたまま、うつむいていた。肩が、大きく上下していた。息を吸うたびに、喉の奥で、ひゅっと細い音がした。
三つ数えるほどのあいだ。
五つ。
七つ。
それから、カイル様は、木剣を杖にして、ゆっくり立ち上がった。
「副団長、大丈夫ですか! 顔、真っ白ですよ!」
「……古傷だ」
カイル様は、いつもの声で言った。
「昔、海賊に胸を打たれた。冷えると痛む。それだけだ」
「で、でも、この前の診察では、何もなかったって」
「だから、古傷だ」
ニコさんは、それ以上、何も言えなかった。
「今日は、ここまでだ。全員、宿舎に戻れ」
新人たちが、顔を見合わせながら、浜を上がっていった。ニコさんは、何度も何度も振り返った。
セオさんが、カイル様の隣に駆け寄った。カイル様は、首を小さく横に振った。ここではない、という合図だった。
それから、カイル様は、舟の陰に立っている私を見た。
何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ、目で言った。
言うな、と。
私は、頷くことしかできなかった。
カイル様は、木剣を肩に担いで、浜を上がっていった。いつもの、誰かの後ろを守る人の背中だった。少しだけ、ゆっくりだった。
三日前、詰所で宣告を受けたあの日、この人は一度も「古傷だ」と言わなかった。
今日、また言った。
今度は、自分でも、嘘だと分かっていて。
期限まで、百七十六日。
カイル(27)。騎士団副団長。十年、団長に勝ったことがない。休み方も、まだ知らない。
次回、治った人がいるらしい。
期限まで あと176日
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