第6話 期限の外
その夜、私は眠れなかった。
かもめ亭の二階で、灯りを消したまま、指を折って数えた。四月の十日から、五月の一日まで。何度数えても、二十一日だった。
帳簿なら、合わない数字は直せる。どこかで写し間違えたか、足し忘れたか、誰かがごまかしたか。三年間、私はそうやって数字を合わせてきた。
この数字には、写し間違いがなかった。
期限の日を変えられないなら、もう一つのほうを変えればいい。
明け方、そう思いついたとき、私は寝台の上で起き上がっていた。動かすのは、灯りの日だ。
*
朝になると、ピップの屋台の脇の木箱で、私は紙を広げていた。
灯台の油が一晩でどれだけ要るか。灯台守の手間賃はいくらか。港の網元たちへの説明の手紙を、誰の名前で出すか。帳簿をつけるときと同じ手で、書き出していった。足りない分は、私が払う。家を出るときに持ってきたお金が、まだ少し残っている。
四月の九日。一晩だけ、灯りを早める。それだけで、あの人の一行目は、期限の内側に入る。
「姉ちゃん、なにそれ。借金?」
炭をおこしていたピップが、横からのぞきこんだ。
「灯台の油代よ」
「灯台?」
「四月に一晩だけ、灯りを早く灯してもらえないか、オルグさんに頼みに行くの」
「なんで?」
答えられなかった。
ピップは、火ばさみを持ったまま、私の顔をじっと見た。それから、紙の上の『四月九日』を見た。
「……兄ちゃんのことでしょ」
私は、何も言わなかった。
「一昨日、詰所から先に帰ったの、おれ、聞きたくなかったからだよ。セオの兄ちゃんの顔、見たら分かったもん」
ピップは、火ばさみを置いた。
「おれも行く」
「ピップ」
「網元のじいちゃんたち、みんなおれの焼き林檎食べてるもん。おれが頼んだら、聞いてくれるよ」
十歳の子の、精いっぱいの理屈だった。私は、それを笑えなかった。
「……姉ちゃん、顔が怖い」
ピップが、わざと明るい声で言った。
「計算しているときの顔よ」
「マーサのおばちゃんが、宿代をためたお客に会いに行くときの顔と同じだよ」
*
オルグさんは、今日も灯台の扉の前で、手すりを磨いていた。
私は、書き上げた紙を差し出した。油代。手間賃。網元への手紙の下書き。それから、一番下に、一行。
『四月九日、一晩だけ、灯台を灯していただけませんか』
オルグさんは、布を置いて、紙を最後まで読んだ。字を追う目が、ゆっくりだった。
読み終えると、紙を丁寧に二つに折って、私の手に返した。
「よく書けてる。網元への手紙なんか、わしが書くよりずっとうまい」
それから、紙の上の『四月九日』を、指で軽く叩いた。
「副団長さん、春の前に、王都へ戻されるのかい」
私は、答えなかった。オルグさんは、それ以上は聞かなかった。
「……灯して、いただけますか」
「だが、できん」
オルグさんの声は、少しも怒っていなかった。
「じいちゃん、おれからも頼むよ。焼き林檎、一年ただにするから」
「お前の林檎は、ただでなくても食う」
オルグさんは、ピップの頭に手を置いて、それから私を見た。
「お嬢さん。四月の海は、まだ荒れるんだ。漁師はな、この灯りを見たら、春が来たと思って沖へ出る。それが、何十年も続いてきた決まりだ。一晩でも灯したら、誰かが出る」
「事前に、全部の漁師さんに知らせれば」
「全部の漁師の耳に入る話なんてのは、この世にないよ」
オルグさんは、灯台を見上げた。
「親父の代に、一度だけ、早く灯した年があった。網元に頼まれてな。鰊が早く来たって、誰かが言ったんだ。灯りを見て、十二艘が出た」
私は、紙を握った。
「十艘、戻った」
それ以上、オルグさんは数を言わなかった。言わなくても、分かった。
「親父は、それから死ぬまで、四月のあいだは灯台の上で寝てたよ。誰も、勝手に灯さないようにな」
ピップが、私の後ろで、小さく息をのんだ。
「……すみませんでした」
「謝ることはない。あんたが、誰のために頼んでるのかは、分かってる」
オルグさんは、もう一度布を取って、手すりを磨き始めた。
「だからこそ、できんのさ。あの副団長さんは、自分のために誰かの舟が沈んだら、灯りなんか見ないで海に飛びこむ人だろう」
その通りだった。
それが分かってしまうから、私は何も言い返せなかった。
*
帰り道、ピップは一言もしゃべらなかった。屋台の前まで来て、ようやく、足元の小石を蹴った。
「……おれが頼んでも、だめだったね」
「あなたのせいじゃないわ。計算は、いい計算だった。数字は、全部合ってた」
「合ってるのに、だめなの?」
「合ってるのに、だめなこともあるのよ」
十歳の子に言いながら、それは自分に言っているのだと思った。
屋台の上では、いつの間にか来ていた大工が、破れた日よけを外して、新しい板屋根を打ちつけていた。昨日の、お釣りの使い道だった。とん、とん、と金槌の音が、港に響いていた。
「兄ちゃんの屋根」
ピップが、見上げて言った。
「雨の日も、串が濡れなくなるって。大工のおっちゃんが言ってた」
あの人は、自分のことは何一つ間に合わないかもしれないのに、十歳の子の串が濡れないことには、ちゃんと間に合わせる。
私は、屋台の脇の木箱に座りこんだ。
半年前の私なら、こういうとき、こう言った。まあ、どうせ死ぬし。そう言えば、帳簿も、婚約も、家も、全部投げられた。
今、その言葉は使えなかった。どうせ、と言えたのは、それが私の残りだったからだ。人の残りの数字に、どうせ、なんて言えない。
*
昼過ぎ、私は詰所の裏で、帳面を広げているセオさんをつかまえた。
「セオさん。一年、というのは」
自分の声が、思ったより早口になった。
「必ず、一年なんですか。一日も違わずに」
セオさんは、ペンを置いた。それから、少しのあいだ考えて、正直な顔をした。
「およそ、です。早い人もいますし、遅い人もいます」
セオさんは、帳面の後ろのほうをめくった。細かい字で、名前の頭文字と、日付が並んでいた。王都を出る前に、施療院の古い記録から、自分で写してきたのだという。
「宣告から十か月の人も、一年と二か月の人もいました。……写せたのは、十一人分だけですが」
「一年と、二か月」
「ただ」
セオさんは、そこで言葉を選んだ。
「三週間の差は、医者には分かりません。先に延びるとも、縮むとも、私には言えません。……すみません。分からないことを、分からないと言うしかないんです」
それは、きっと、医者として一番誠実な答えだった。
一番誠実な答えが、一番、何の役にも立たなかった。
「王都に帰ったら、施療院の記録を、もう一度全部見ます」
セオさんは、帳面を閉じて言った。
「延ばす方法が書いてある記録があるなら、私が見つけます。……ないなら、ないと、ちゃんとお伝えします」
*
夕方、灯台の下に、カイル様がいた。
見回りの途中なのだろう。制服のまま、海を背にして、灯りのない灯台を見上げていた。
私は、少し離れたところで立ち止まった。何から話せばいいのか、ひと晩と半日考えて、まだ決まっていなかった。
「オルグに、頼みに行ったそうだな」
カイル様のほうが、先に言った。
「……どうして」
「港の人間は、みんな俺たちを見ている」
カイル様は、こちらを見ずに続けた。
「灯台が五月に灯るのは、知っている」
私は、息を止めた。
「この港に来た日に、オルグに聞いた。春のいつ灯るのか、と」
カイル様は、灯台の上の、灯りの入っていない硝子を見上げた。
「子どもの頃、父と来たのは、四月の終わりだった。あと何日か待てば灯る、と父は言った。その何日かを待たずに、呼び戻された。……だから、正しい日を知りたかった。父が、何日待てばよかったのか」
五月の一日。この人は、この港に来た日から、その日付を知っていたのだ。
「……では」
「一昨日、詰所で、君が百七十九日だと言った。宿舎に戻って、俺も数えた」
カイル様は、ようやく私のほうを向いた。いつもの、静かな目だった。
「二十一日、足りない」
この人は、昨日、それを知っていて、焼き林檎を二十三個買ったのだ。知っていて、一番簡単なところからやろうと言ったのだ。
「なぜ、言ってくれなかったんですか」
「君が、そういう顔をするからだ」
カイル様は、懐から手帳を出しかけて、やめた。代わりに、私の懐のあたりを見た。
「一行目は、書き直そう」
声は、穏やかだった。
「『来年の春に』を消せばいい。灯っていなくても、灯台は見られる。毎晩、ここで君と見ればいい。それなら、期限の内側だ」
この人は、いつもこうだ。叶わないと分かったら、自分の願いのほうを小さくする。誰の迷惑にもならない大きさまで。
「嫌です」
自分でも驚くほど、すぐに声が出た。
「書き直さないでください」
「フローラ」
「灯っていない灯台なら、もう何度も一緒に見ました。カイル様が書いたのは、灯りです。灯りの下です。消さないでください」
カイル様が、少しだけ目を見開いた。
「だが、二十一日だ」
「医者は、私の日も決めました」
私は、懐からリストの紙を出して、裏返した。角ばった字の一行目が、夕日の色に染まっていた。
「余命一年と、紙に書いて。外れました」
波の音が、一度、大きく寄せて、引いた。
カイル様は、しばらく私の顔を見ていた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
笑った。
声は出さなかった。けれど、目の端が、確かに笑っていた。
「……君は、外れた日の当人だったな」
「当人です。だから、言えます。医者の日付は、外れます」
「なら、外れるほうに賭けるか」
「賭けません」
私は、紙を胸に当てた。
「外させます」
「……君が言うと、本当に外れそうな気がするな」
「外れます。合わない帳簿だって、私が見れば合うんです」
「病は、帳簿じゃない」
「知っています。だから、帳簿よりも本気でやります」
カイル様は、それ以上は言わなかった。代わりに、灯台を見上げた。
私も、隣で見上げた。
白くて古い灯台は、今日も灯りが消えたままだった。
期限まで、百七十七日。
灯りまで、百九十八日。
あいだの二十一日を、どこからか、持ってこなければならない。
ピップ(10)。焼き林檎屋。屋根が新しくなった。
次回、いつかは、もうない。
期限まで あと177日




