第5話 焼き林檎を、店の分ぜんぶ
夜が明けてすぐ、見張り台の下の詰所で、セオさんがカイル様の胸に筒を当てていた。
昨日、もう少し港にいさせてくださいと言ったセオさんは、本当に翌朝から来た。私は戸口の外で、それを見ていた。
とん、とん、と指で叩く音。それから、長い沈黙。
「昨日と、同じです」
セオさんが筒を離して言った。カイル様は、シャツのボタンを留めながら頷いた。
「同じなら、いい」
良くなったわけではない。悪くなっていないだけだ。それでも、カイル様はそれを、毎朝の見張りの報告みたいに受け取った。
*
それから、ピップの屋台の前で、カイル様が革の小袋を逆さにした。
銅貨と銀貨が、じゃらじゃらと台の上に広がった。
「全部くれ」
ピップが、串を返す手を止めた。
「……全部って、何を」
「焼き林檎だ。店にある分、全部」
ピップは、屋台の奥の籠を振り返った。それから、カイル様の顔を見た。それから、私の顔を見た。私にも分からない、という顔をしたら、ピップはもう一度籠を見て、指で林檎を数え始めた。
「……二十三個あるけど」
「全部だ」
「焼くの、昼までかかるよ」
「待つ」
ピップは、口を開けたまま固まった。それから急に我に返って、炭を足しに走っていった。
私は、台の上に広がった銅貨と銀貨を見下ろした。焼き林檎二十三個分にしては、明らかに多すぎた。
「カイル様。これ、お釣りが」
「いい」
「よくありません」
「なら、ピップの屋台の屋根代にしてくれ。雨の日に、串が濡れている」
カイル様は、屋台の破れた日よけを見上げた。半年、毎朝ここに来ていた人だけが、気づくことだった。
*
林檎が焼けるのを待つあいだ、カイル様は桟橋の端に座った。私も、隣に座った。
「フローラ。あの紙を、貸してくれないか」
「紙?」
「灯台の下で、俺が書いたやつだ」
私は懐から、くたびれたリストの紙を出した。表に私の七つ。裏に、カイル様の一行。
『一、この灯台の灯りを、フローラと見る。来年の春に』
カイル様はペンを取り出して、その一行の下に、角ばった字で書き足した。
『三、焼き林檎を、店の分ぜんぶ』
私は、その字をじっと見た。
それから、もう一度、上から読んだ。
一。
三。
「……カイル様」
「なんだ」
「二が、ありません」
カイル様のペンが、止まった。
「二は、もう書いてある」
「どこにですか」
「別のところに」
「何て書いたんですか」
「……そのうち」
カイル様は、それ以上何も言わずに、紙を私に返した。耳の先が、ほんの少しだけ赤かった。
私は紙を受け取って、一行目と三行目のあいだを、しばらく見ていた。
たった一行ぶんの、白いところだった。
*
「どうして、焼き林檎なんですか」
聞くと、カイル様は海を見たまま答えた。
「子どもの頃、父に連れられて、この港に来たとき。屋台で、一つだけ買ってもらった」
「焼き林檎を」
「ああ。蜂蜜がかかっていた。食べ終わってから、もう一つ欲しいと言ったら、父は『いつか、店の分ぜんぶ買ってやる』と言った」
カイル様は、膝の上で指を組んだ。
「その『いつか』は、来なかった」
灯台に灯りがともるのを見せてやる、と言った父親。見る前に呼び戻されて、それきりになった父親。
二つの「いつか」を、この人は、二十年近く抱えてきたのだ。
私のリストは、全部、私のためのリストだった。我慢してきた私が、最後に自分にあげるもの。
この人のリストは、違う。誰かが言って、叶えられなかった「いつか」で、できている。
「父のいつかは、俺が叶える。……それなら、一番簡単なところからやろうと思った」
カイル様は、少しだけ口の端を上げた。
「急がないといけないと、言っただろう」
私は、何も言えなかった。何か言ったら、声が震えてしまいそうだった。だから、ただ頷いた。
*
昼前に、二十三個の焼き林檎が焼き上がった。
屋台の台の上に、湯気の立つ林檎がずらりと並んだ。蜂蜜の甘い匂いが、港じゅうに広がった。ピップは汗だくで、それでも得意げに胸を張っていた。
「二十三個! 一回でこんなに焼いたの、初めてだよ!」
カイル様は、一つ目を、黙って食べきった。
二つ目にかじりついて、半分で手が止まった。
三つ目に手を伸ばしかけて、そこで止まった。
「……多いな」
「二十三個ですから」
「数は、聞いていた」
「聞いていて、全部と言ったんですよね」
カイル様は、私の顔を見て、それから、残りの二十一個を見た。
そのとき、通りの向こうから、匂いにつられた新人騎士たちがぞろぞろと現れた。先頭は、もちろんニコさんだった。
「副団長! なんですか、この林檎の山は!」
「食え」
「えっ」
「全員、一つずつ取れ。命令だ」
新人たちは顔を見合わせてから、わっと台に群がった。
「副団長、ごちそうさまです! 一生忘れません!」
「大げさだ」
ニコさんは林檎を一つ、両手で大事そうに抱えて、本当に泣いていた。
それから、セオさんが来た。蜂蜜の匂いで、馬車の酔いがぶり返したと青い顔で言いながら、差し出された林檎は、しっかり受け取った。
「私も、いいんですか」
「二日、吐き通しだったんだろう。食え」
マーサさんも来た。手に皿を持っていた。
「あたしの分はいいよ。宿の客に持ってくから、三つおくれ」
「持っていけ」
それから、ピップに一つ。
「おれ、焼いた人だよ」
「だから、一番いいのをやる」
カイル様は、一番大きくて、一番蜂蜜のかかった林檎を、ピップの手に乗せた。
ピップは、林檎とカイル様の顔を見比べて、それから、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
最後に、カイル様は、さっき手を伸ばしかけてやめた三つ目を取って、黙って私の手に乗せた。
「……私の分も、あったんですか」
「最初から、入っている」
残りの林檎は、匂いにつられて集まってきた港の子どもたちが、一つずつ抱えて走っていった。
*
桟橋の上に、たくさんの人が座っていた。
新人騎士たちが蜂蜜で指をべたべたにして、セオさんが林檎の芯を律儀に布で包んで、ピップが海鳥に皮を投げて、マーサさんが「行儀が悪い」と言いながら自分も皮を投げていた。
その真ん中で、カイル様は食べかけの二つ目を、ゆっくり食べていた。
私は、懐のリストの紙に触れた。
『三、焼き林檎を、店の分ぜんぶ』
一人で食べきるはずだった二十三個は、気づけば港じゅうに配られていた。この人は、自分のために書いた一行でさえ、最後には誰かに分けてしまう。
それでも、今日のこれは、ちゃんと叶ったのだと思う。
「カイル様」
「なんだ」
「三行目、線を引いてもいいですか」
カイル様は、蜂蜜のついた指を見下ろして、少し考えてから、頷いた。
私はペンを取って、三行目に、まっすぐ線を一本引いた。
カイル様は、引かれた線を、しばらく黙って見ていた。
「……線を引かれると、少し惜しいな」
「惜しい、ですか」
「叶ったら、そこで終わる」
海鳥が一羽、桟橋の先に降りてきた。カイル様は、手の中の林檎の最後のひと口を、そっちへ放った。
私は、リストの紙を膝の上に置いて、言った。
「なら、書き足してください。線を引くのが追いつかないくらい」
カイル様は、少しだけ目を見開いて、それから、海のほうを向いた。
「……考えておく」
それは、たぶん、この人なりの「はい」だった。
*
夕方、私は一人で灯台まで歩いた。
白くて古い灯台は、今日も灯りが消えたままだった。
扉の前で、白髪の老人が、油の缶と布を手に座っていた。灯台の鉄の手すりを、一本ずつ磨いている。
「灯台守の方ですか」
「ああ。オルグってもんだ。あんた、副団長さんとよく一緒にいる人だな」
港の人は、みんな私たちを見ているらしい。
「灯りの手入れは、春だけではないんですね」
オルグさんは、布で手すりをこすりながら言った。
「灯すのは春だけさ。だが、錆びるのは一年じゅうだ」
「春漁の始まりを知らせる灯りで、ひと月だけ灯ると聞きました」
「ああ。鰊が沖に来るころに灯して、ひと月、毎晩ともす」
「その、春というのは」
私は、懐のリストの紙を、服の上から押さえた。
「いつからですか」
オルグさんは、手を止めずに答えた。
「五月の一日からだよ。毎年、決まってる」
オルグさんは、磨いた手すりに油を一滴落とした。
「漁師はな、春の沖でどれだけ遠くまで出ても、この灯りが見えるうちは帰ってこられる。だから、ひと月のあいだ、一晩も欠かさずともすんだ。わしの親父も、そのまた親父も、そうしてきた」
五月。
灯台は春にしか灯らないと、あの人は言った。五月も、たしかに春だ。嘘は、どこにもない。
私は、その場に立ったまま、指を折って数えていた。
宣告の日は、春の日だった。私とカイル様が、同じ施療院で、同じ時刻に、二枚の診断書を受け取った日。
あの日を、私は忘れない。
四月の、十日。
あの人の一年は、そこで終わる。
灯台が灯るのは、それから二十一日あとだった。
オルグ。灯台守。灯すのは春だけ、磨くのは一年じゅう。
次回、期限の外。
期限まで あと178日




