第4話 二度目の宣告
翌朝、見張り台の下の詰所の前に、新人騎士が六人、一列に並んでいた。
全員、顔が青かった。朝の海風が冷たいせい、ではなさそうだった。
「ニコさん。皆さん、本当に怖がっているように見えるんですけど」
「本当に怖がってるんです」
ニコさんは、小声で言った。
「医者に胸を叩かれて、変な筒を当てられるって話したら、本気にしちゃって。昨夜、一人は遺書を書いてました」
「……遺書」
「嘘から出たまこと、ってやつです」
「……使い方が、少し違うと思います」
ニコさんは、なぜか誇らしげだった。
私とピップは、詰所の裏手に積まれた空の樽の陰に隠れていた。樽の上に乗れば、詰所の小窓から中が見える。見えるけれど、ピップが乗ると樽がぐらつく。
「姉ちゃん、押さないで」
「押してないわ。あなたが揺れてるのよ」
「揺れてるのは樽だよ」
詰所の中では、セオさんが机の上に道具を並べていた。木の筒。小さな木槌。帳面。手が震えて、木槌を二回落とした。
足音がした。
カイル様が、詰所の入り口に立っていた。
*
「おはようございます!」
セオさんが、勢いよく立ち上がった。椅子が倒れた。
「たまたま港に用があって!」
カイル様は、まだ何も聞いていなかった。
樽の上で、ピップが額を押さえた。私は、目を閉じた。練習の成果が、一番悪い形で出た。
カイル様は、倒れた椅子を黙って起こして、セオさんの前に置いた。
「そうか」
それだけだった。
「新人の見本だと聞いた。何をすればいい」
「あ、は、はい。上を、脱いでいただいて、そこに座っていただければ」
カイル様は、制服の上着を脱いで、シャツのボタンを外した。
詰所の入り口から覗いていた新人たちが、息をのんだ。
カイル様の胸と肩には、古い傷跡がいくつもあった。刃物の跡。何かに打たれた跡。縫い合わせた跡。
古傷は、本当にあったのだ。
だからこの人は、胸が痛むたびに、古傷だと言えたのだ。
「……副団長、かっこいい」
新人の誰かが、小声で言った。ニコさんが、なぜか泣きそうな顔で頷いていた。
*
セオさんが、カイル様の胸に指を当てた。
もう片方の手の指で、その指の上を、とん、と軽く叩く。
とん。とん。
場所を変えて、また叩く。右の胸。真ん中。左の胸。
とん、とん。
とん。
左の胸の、心臓の少し上で、音が変わった。小窓ごしにも、それが分かった。乾いた木を叩くような音が、そこだけ、湿った土を叩くような、鈍い音になった。
セオさんの指が、一度止まった。
それから、もう一度、同じ場所を叩いた。
とん。
同じ音だった。
セオさんは、木の筒を取り上げて、広がった口をカイル様の胸に当て、反対の端に耳をつけた。
詰所の中が、静かになった。新人たちも、息を止めていた。
長い時間だった。
樽の上で、ピップが、私の袖をぎゅっと握った。
「……姉ちゃん」
「静かに」
「樽が、傾いてる」
がたん、と音がした。
次の瞬間、私とピップは、樽ごと地面に転がっていた。
*
詰所の入り口から、新人たちが一斉に顔を出した。
ニコさんが、両手で頭を抱えた。セオさんは、筒を耳に当てたまま固まっていた。
カイル様だけが、まったく動かなかった。
シャツをはだけたまま、椅子に座ったまま、小窓のほうを見もしないで、言った。
「ピップ。怪我はないか」
「……ない」
「フローラは」
「……ありません」
カイル様は、小さく息をついた。
「なら、いい。続けてくれ、先生」
新人たちが、そろってこちらを振り返った。私は地面に座りこんだまま、顔から火が出そうだった。ピップは樽の陰で、小さく丸くなっていた。
「……副団長、知ってたんですか」
ニコさんが、震える声で聞いた。
「お前の顔に、全部書いてあった」
ニコさんは、その場にしゃがみこんだ。
セオさんは、もう一度カイル様の胸に筒を当てた。今度は、さっきよりも長く。それから黙って帳面に何かを書きつけ、カイル様に、少し待っていてくださいと頭を下げた。
それから、新人たちの診察が始まった。
一番に名乗り出たのは、しゃがみこんでいたはずのニコさんだった。
「副団長に見本を見せていただいたので、次は俺が、新人の見本になります!」
セオさんが筒を当てて、すぐに離した。
「……心臓の音が、うるさいです」
「副団長の見本を見たので、興奮してます!」
「落ち着いてから、もう一度聞きます」
新人たちが、初めて笑った。
遺書を書いた一人は、筒を胸に当てられた瞬間に、白目をむいて倒れかけた。セオさんは慌てて、筒を放り出して彼の胸に直接耳をつけ、大真面目な顔で言った。
「生きています」
新人たちが、また笑った。倒れかけた本人も、少しだけ笑った。
樽を立て直しながら、私は、カイル様がその笑い声のほうを見ているのに気づいた。新人たちを見る目は、いつもと同じに静かで、少しだけ、遠くを見ていた。
*
カイル様は、新人六人の診察が終わるまで、詰所の隅で、黙って座っていた。そのあいだ一度も、セオさんの顔を見なかった。セオさんの手が、また少し震えていたからだと思う。
昼前に、診察は終わった。六人とも、どこも悪くなかった。
新人たちが出ていったあとの詰所には、セオさんとカイル様と、私だけが残った。
ピップは、屋台に戻ると言って走っていった。たぶん、ここにいたくなかったのだと思う。
セオさんは、帳面を閉じて、両手を膝の上に置いた。
さっきまで椅子を倒し、木槌を落としていた人とは、別人の顔だった。
「副団長」
「ああ」
「確かめました」
セオさんは、まっすぐカイル様を見た。
「左の胸の、手のひらほどの広さが、硬くなっています。叩くと音が鈍い。筒で聞くと、心臓の音に、かすかに擦れるような雑音が混じります。半年前に先生が書いた診断書の控えと、同じです」
カイル様は、黙っていた。
「石心病です」
セオさんの声は、震えていなかった。
「二度目の宣告を、紙ではなく、私の耳でします。……あなたの残りは、およそ半年です」
詰所の窓から、波の音が聞こえた。
カイル様は、しばらく、自分の胸の傷跡を見下ろしていた。それから、ゆっくりとシャツのボタンを留め始めた。一つずつ、いつもの見張りの支度をするときと同じ速さで。
最後のボタンを留めてから、カイル様は顔を上げた。
「先生」
「はい」
「礼を言う」
セオさんが、目を見開いた。
「紙一枚じゃなく、自分の耳で確かめに来てくれた。……二日も馬車に揺られてまで来る医者は、そういない」
「……二日、吐き通しでした」
「そうか」
カイル様は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それから、私のほうを向いた。
「フローラ」
「……はい」
「君の言うとおりだった」
声が、出なかった。
当たってほしくなかった。間違いだったら、私が一番に笑う。一昨日、桟橋でそう言ったのは私だ。
笑う理由は、どこにもなかった。
気がつくと、懐に手を入れて、くたびれたリストの紙を握りしめていた。裏に書かれた一行目の『来年の春に』が、ちょうど指の下にある気がした。
「残りは、いくつだ」
カイル様が聞いた。
私は、リストを握ったまま答えた。昨夜、かもめ亭の部屋で、灯りを消したあとに数えた数だった。
「百七十九日です」
カイル様は、少しだけ目を見開いた。
「数えていたのか」
「数えると、言いました」
「……そうだったな」
カイル様は、上着を取って、肩にかけた。
「なら、急がないといけないな」
それだけ言って、詰所を出ていった。
いつもの見回りに行くときと、同じ足取りだった。
扉が閉まると、セオさんが、机に両手をついた。
肩が、小さく震えていた。
「……セオさん」
「すみません。紙に書くときは、こんなふうにはならなかったんです」
セオさんは、顔を上げなかった。
「名前と、病名と、残りの月を書いて、封をするだけでした。……耳で聞くと、違いますね。あの音は、たぶん一生、忘れません」
私は何も言えずに、セオさんの背中に手を置いた。手のひらの下で、若い医者の背中が、何度か大きく上下した。
「フローラ様。王都の医学では、治せません」
セオさんは、ようやく顔を上げた。目が赤かった。
「でも、もう少しだけ、この港にいさせてください。王都に帰る前に、毎朝、副団長の胸の音を聞かせてもらいます。……聞いたからには、最後まで聞きたいんです」
*
その日、私は一日、カイル様の様子を遠くから見ていた。
見ていれば、何かが分かると思った。分かったところで、何ができるわけでもないのに。
午後、見張り台の梯子を登るカイル様が、途中で一度だけ止まった。三つ数えるくらいのあいだ、手すりをつかんだまま動かなかった。それから何事もなかったように登りきって、沖を見た。
下で見ていた私のほうは、一度も見なかった。見られていると、分かっていたはずなのに。
浜で稽古をつけているときも、同じだった。転んだニコさんに手を貸して、一番怖がっていた新人に、誰よりも長く剣の握り方を教えていた。いつもの、誰かの後ろを守る人の背中だった。
日が傾くころ、カイル様はピップの屋台で焼き林檎を買って、桟橋の端に座った。蜂蜜多め。最後のひと口を、いつものように、海鳥にやった。
一昨日の朝は、やらなかったひと口だった。
いつもと、何も変わらなかった。
ただ、一つだけ違った。
その日、カイル様は一度も、「古傷だ」と言わなかった。
セオ(20)。見習い医師。乗り物に弱い。耳は、いい。
次回、焼き林檎を、店の分ぜんぶ。
期限まで あと179日




