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第3話 見習い医師セオ

セオさんが港町に着いたのは、翌日の昼前だった。


王都からの乗合馬車が広場に止まり、降りてきた乗客の最後の一人が、地面に足をつけた途端、膝から崩れ落ちた。


「セオさん!」


駆け寄ると、セオさんは青い顔で、大きな革の鞄を胸に抱えたまま、片手を上げた。


「だ、大丈夫です……馬車に、二日、揺られていただけで……」

「全然、大丈夫な顔じゃありません」

「医者が、乗り物酔いで倒れるわけには……」


言い終わる前に、セオさんは道端の溝に向かって、静かに顔を伏せた。


マーサさんが見ていたら、きっと魚を三匹乗せたと思う。


*


かもめ亭の食堂で、薄い粥を半分ほど食べてから、セオさんはようやく人間の顔色に戻った。


「すみません。お見苦しいところを」

「いいえ。来てくださって、ありがとうございます。……バーナビー先生は?」

「先生も、ご自分で行くと言い張られたんですが」


セオさんは、少しだけ遠い目をした。


「出発の朝に、眼鏡を三回なくされまして。三回目に、額の上にあるとお教えしたら、そのまま書斎にこもって、出てこられなくなりました」

「……落ちこんで?」

「ええ。四十年、医者をやってきて、こんな間違いは初めてだと。ご自分を責めておられます。ですから、私が代わりに」


セオさんは、鞄の中から、一枚の紙を取り出した。


あの日、診察室でセオさんが握りしめていた、診断書の控えだった。端に、騎士団副団長、カイル・ヴェインの名がある。


「改めて、ご説明します」


セオさんは、背筋を伸ばした。乗り物酔いの青年ではなく、医者の顔になっていた。


「石心病、という病です。胸の奥が、少しずつ硬くなっていきます。初めのうちは、ほとんど何も起きません。たまに胸が痛む程度で、本人は打ち身か古傷だと思うことが多い。それが半年ほどで、痛みの間が詰まってきて、息が切れやすくなります」


古傷だ。


カイル様の声が、頭の中で聞こえた。


「宣告から、およそ一年。王都の施療院では、これまで治った例がありません」


膝の上で、両手を握った。


「でも、セオさん。カイル様は、信じていません。その施療院は君にも余命一年と言っただろう、と」

「当然です」


セオさんは、あっさりと言った。


「私が副団長でも、信じません。一度間違えた医者の、二度目の宣告ですから」

「……では、どうすれば」

「だから、来たんです」


セオさんは、控えを鞄に戻して、代わりに、木でできた細い筒を取り出した。片方の口が、少し広がっている。


「胸の音を聞く道具です。石心病の胸は、指で叩くと、硬いところだけ音が鈍くなる。この筒を当てると、心臓の音に、かすかな雑音が混じる。それを、私が自分の耳で確かめます。紙ではなく、副団長ご本人の胸で」


セオさんは、筒を握りしめた。


「間違いだったら、私が責任を持って、そうお伝えします。二度目の宣告は、紙一枚では、絶対にしません」


私は、この若い見習い医師の手が、少しだけ震えているのを見た。


この人も、怖いのだ。


*


午後、港の見張り台の下で、カイル様をつかまえた。


正確には、つかまえようとした。


「副団長、カイル・ヴェイン様ですね。王都の施療院から参りました、見習い医師のセオと申します。先日の診断の件で、ほんの少しだけ、お時間を──」

「断る」


カイル様は、海から目を離さなかった。


「海賊の季節だ。昨日も、沖の島影に船が二隻見えた。見張りを減らすわけにはいかない」

「お時間は取らせません。胸の音を、少し聞くだけで」

「王都に戻ったら、受ける」

「それは、いつですか」

「海賊の季節が終わったら。春だ」


セオさんが、言葉に詰まった。


春では、遅い。


「カイル様」


思わず、口を挟んでいた。


カイル様が、ようやくこちらを見た。昨日の桟橋と同じ、静かな目だった。


「……君は、そういう顔をする」


それだけ言って、カイル様は見張り台の梯子に手をかけた。上から呼ぶ部下の声に返事をして、そのまま登っていってしまった。


見張り台の下に、私とセオさんだけが残された。


「副団長は、いつも、ああなんですか」

「いつも、ああです」


セオさんは、筒を握ったまま、長いため息をついた。


*


「つまりさ、兄ちゃんを、診察台に乗せればいいんでしょ」


夕方、屋台を片付けながら、ピップが言った。


私とセオさんは、屋台の脇の木箱に並んで座っていた。二人そろって、作戦の一つも思いつかないまま。


「乗せられないから、困っているのよ」

「乗せる方法なら、あるよ」


ピップは、通りの向こうに手を振った。


「ニコの兄ちゃん! ちょっと来て!」


騎士団の制服を着た、ひょろりと背の高い少年が、こちらを振り向いた。手には串焼きが三本。両手がふさがっているせいで、振り向いた拍子に、一本落とした。


「ああっ」


落ちた串を拾いながら、少年は駆けてきた。


「ピップ、呼んだ? あ、お客さんか。どうも、新人騎士のニコです。十七です。串焼きは、副団長の分と、俺の分と、俺のおかわりの分です」


聞いてもいないことまで、全部言った。


「ニコの兄ちゃんたち、新人だから、健康診断ってやつ、受けなきゃいけないんでしょ」

「ああ、うん。本当は、王都を出る前に受けるはずだったんだけど、医者の都合がつかなくて。港に着いたら受けろって言われてるのに、この港、医者がいないんだよ。もう二か月、宙ぶらりん」


セオさんが、ゆっくりと顔を上げた。


「新人の、健康診断……」

「この兄ちゃん、王都のお医者さんなんだよ」


ピップが、セオさんを指さした。ニコさんの目が、まんまるになった。


「えっ、本当ですか! 助かります! 団長からも、早く受けさせろって、手紙で毎回叱られてて」

「それで、ニコの兄ちゃん。副団長ってさ、新人がやることは、必ず自分が先にやって見せるんでしょ」

「そうだよ。剣の稽古も、夜の見張りも、夜の海に入る訓練も。副団長は、俺たちにやらせることは、全部、自分が一番にやるんだ。それが副団長の──」


ニコさんは、そこで言葉を止めた。


ピップと、セオさんと、私の顔を、順番に見た。


「……あれ? 俺、今、何か大事なことを言いました?」


ピップが、にやりと笑った。


*


作戦は、こうだった。


明日の朝、見張り台の下の詰所で、セオさんが新人騎士たちの健康診断をする。ニコさんが、新人を代表して副団長に頼みに行く。新人たちが怖がっているので、副団長に、最初に見本を見せてほしい、と。


「副団長は、絶対に断らない」


ニコさんは、胸を張った。


「新人のために、と言われたら、副団長は断ったことがないんです。先月の、夜の海に入る訓練のときも、新人が怖がって入れなかったら、副団長が先に、首まで浸かって見せてくれました」


私は、初夏の朝を思い出した。


制服のまま、腰まで冷たい海に浸かって、黙って沖を見張っていた人。溺れたら困る、と言った人。


あの人は、ずっとそういう人だったのだ。


「ただ、問題が一つ」


セオさんが、真面目な顔で手を挙げた。


「私は、嘘が下手です」

「俺もです!」


ニコさんが、元気よく手を挙げた。


ピップが、二人を見上げて、それから私を見た。


「……姉ちゃん。本当に、この人たちで大丈夫?」


答えられなかった。


念のため、ピップが練習をさせた。


「じゃあ、お医者の兄ちゃん。兄ちゃんに『なんで港に来た』って聞かれたら?」

「たまたま、港に、用があって……」

「目が泳いでる。もう一回」

「たまたま港に用があって」

「今度は早口すぎる。ニコの兄ちゃんは?」

「副団長! 新人一同、怖がっております!」

「声がでかい。あと、怖がってる人の顔じゃない」


十歳の子に、二十歳と十七歳が、夕暮れの屋台の前で叱られていた。


私は、少しだけ笑ってしまった。笑ったのは、王都から戻って、初めてだった。


*


〈カイル〉


夜の見張りの交代のとき、ニコが、詰所の入り口で直立していた。


いつもより背筋が伸びている。いつもより声が大きい。いつもより、額に汗をかいている。


「ふ、副団長! お願いがあります! 明日の朝、王都からお医者様がいらっしゃって、新人の健康診断をしてくださることになりました! つきましては、新人一同、怖がっておりますので、副団長に、み、見本を!」


最後の「見本を」で、声が裏返った。


俺は、ニコの顔を見た。汗が、顎から一滴落ちた。


王都からの医者。


昼前に、乗合馬車の広場で倒れていた、青い顔の青年の姿が浮かんだ。午後に見張り台の下で、木の筒を握りしめていた手も。


それから、その隣に立っていた、彼女の顔も。


「……医者は、どこの者だ」

「お、王都の施療院の、見習いの方で、たまたま港に、ご用が、あって!」


たまたま。


港の向こうに、かもめ亭の二階の窓が見えた。灯りがついている。まだ起きているのだろう。今夜も、たぶん眠れずに。


──君がそういう顔をするのは、もう見たくない。


昨日、桟橋で自分が言った言葉を、思い出した。


「……分かった」


ニコが、ぽかんと口を開けた。


「えっ」

「見本だろう。明日の朝、一番に受ける」


ニコは三秒ほど固まってから、勢いよく頭を下げて、詰所を飛び出していった。走りながら、「やった」と叫んでいるのが聞こえた。


隠す気があるのか、ないのか。


俺は見張り台に登って、沖を見た。島影に、船の灯りはなかった。


胸の奥が、また痛んだ。


明日、あの青年の筒が、それに名前をつける。


ニコ(17)。新人騎士。串焼きは、いつも三本買う。

次回、二度目の宣告。

期限まで あと180日


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