第2話 全部話す朝
一睡もできなかった。
かもめ亭の二階の窓から、夜の海が少しずつ白んでいくのを、私は膝を抱えて見ていた。
言う言葉を、ひと晩じゅう考えていた。
『カイル様。落ち着いて聞いてください』
──落ち着いていないのは私のほうだ。
『実は、大事なお話があります』
──大事な話の前置きを聞いた人が、落ち着いていられるわけがない。
『あなたの余命は、あと半年です』
──それは、言葉ではなく、刃物だ。
どの言い方を思い浮かべても、最後には、昨夜のカイル様の顔が出てくる。
誤診でした、私、死なないそうです。そう告げたとき、くしゃりと崩れた顔。声を出して笑った顔。自分のことみたいに、よかった、本当によかった、と言った顔。
あの笑顔を、今日、私が壊す。
窓の外で、一番の漁船が港を出ていった。
*
「ひどい顔だねえ」
朝食の皿を置きながら、マーサさんが言った。
「目の下が真っ黒だよ。昨夜、遅くに帰ってきたと思ったら、一晩中ごそごそして。死なないって分かったってのに、祝い酒でも飲みすぎたのかい」
誤診のことは、昨夜のうちに話してあった。マーサさんは私を抱きしめて、背中を三回叩いて、「だから魚を一匹多くしてやったんだよ」と、意味の分からないことを言って泣いた。
「……マーサさん。人に、とても悪い知らせを伝えなくちゃいけないとき、どうしますか」
マーサさんは、私の向かいの椅子を引いて、どっかりと座った。
「あたしの亭主が海で死んだときはね、知らせに来た漁師の頭が、戸口で一時間うろうろしてたよ」
「……一時間」
「あたしが痺れを切らして、『早く言いな』って怒鳴ったら、やっと言った。ありゃあ、あたしのほうが気の毒になったね」
マーサさんは、私の皿の魚を、フォークで半分に割った。
「悪い知らせってのはね、言うほうが一時間迷ったって、聞くほうの痛さは一つも減らないんだよ。減るのは、言うほうの気が楽になるまでの時間だけさ」
私は、割られた魚を見下ろした。
「食べな。それで、言いに行きな」
*
カイル様は、毎朝、港の見回りのあとでピップの屋台に寄る。
焼き林檎を、蜂蜜多めで。それが、この半年で知ったカイル様の朝だった。
屋台の前に立っていると、ピップが私の顔を見て、串を返す手を止めた。
「姉ちゃん、昨日もそういう顔してたよ。王都から帰ってきたとき」
「……そういう顔?」
「誰かに叱られに行く前の顔」
十歳の子に見抜かれるくらいなのだから、カイル様には、もっと見抜かれる。
「兄ちゃんなら、もうすぐ来るよ。……ねえ、姉ちゃん。死なないんでしょ。マーサのおばちゃんが言いふらしてた」
「ええ。死なないそうよ」
「じゃあ、なんでそんな顔なの」
答えられなかった。
港の向こうから、騎士団の制服が歩いてくるのが見えた。
*
「桟橋の端まで、付き合っていただけますか」
焼き林檎を受け取ったカイル様に、私はそう言った。
カイル様は、私の顔を見て、何も聞かずに頷いた。
桟橋の端。夏の終わりに、二人で朝から夕方まで何もしなかった場所だ。リストの六番目を叶えた場所。
並んで座ると、海は、あの日よりずっと灰色だった。
「昨夜、明日話すと言っていたな」
「……顔に、書いてありましたか」
「書いてあった。今朝も書いてある」
カイル様は、焼き林檎をひと口かじって、それから膝の上に置いた。
「待つのは得意だ。だが、君がそういう顔をしているのを待つのは、得意じゃない」
マーサさんの声が、耳の奥でした。早く言いな。
私は、息を吸った。
「カイル様。春に、王都の施療院で、診察を受けましたね」
カイル様の手が、わずかに止まった。
「……なぜ、それを」
「私も、あの日、同じ施療院にいました。同じ時刻に」
それから、私は全部を話した。
バーナビー先生が、眼鏡を探しながら二通の診断書を書いたこと。封をするとき、入れ違えたこと。私が受け取った「余命一年」は、本当は私のものではなかったこと。セオさんが握っていた控えの端に、騎士団副団長、カイル・ヴェインと書いてあったこと。
あなたが受け取った「健康」は、本当は、私のものだったこと。
途中で、何度も声が震えた。途中で、何度も止まりそうになった。止まったら、二度と言えなくなる気がして、最後まで、ひと息に言った。
「あなたの残りは、あと半年です」
言い終えると、波の音だけが残った。
カイル様は、しばらく何も言わなかった。
膝の上の焼き林檎から、蜂蜜が一滴、板の上に落ちた。
「……そうか」
それが最初の言葉だった。昨夜、私が「死なない」と言ったときと、同じ言葉だった。けれど今朝のそれは、少しも崩れていなかった。
「その施療院は、君にも、余命一年と言ったんだろう」
「……はい」
「そして、それは間違いだった」
「はい」
「なら、今度のが間違いでないと、なぜ言える」
カイル様の声は、静かだった。怒っても、怯えてもいなかった。いつもの、見張りの報告をするときの声だった。
「眼鏡を額に乗せたまま探している医者が、一度目を間違えた。二度目は正しい、と言われて、信じる理由がどこにある」
「でも、カイル様は胸を」
「古傷だ」
すぐに、返ってきた。
「海賊とやり合えば、胸くらい打つ。半年前に診てもらったのも、そのせいだ。医者は、健康だと言った」
「それが、本当は私の診断書だったんです」
「かもしれない。そうでないかもしれない」
カイル様は、海を見ていた。私のほうを、見なかった。
「君は、紙切れ一枚で、半年を決められた。死ぬと言われて、全部燃やして、ここまで来た。それが間違いだった。……今度は俺が、同じ紙切れ一枚で、残りを決められるのか」
言い返す言葉が、見つからなかった。
この人の言うことは、正しかった。私は、紙一枚に半年を振り回された。それを一番よく知っているのは、私だ。
けれど。
「冷たい海に入った朝」
自分の声が、思ったより大きく出た。
「浜に上がったとき、カイル様は胸を押さえました。桟橋で私が眠ってしまった日も、夕方に、また押さえていました。古傷だと言って」
カイル様が、初めてこちらを向いた。
「……見ていたのか」
「見ていました。半年、ずっと」
私は、膝の上で手を握りしめた。
「この半年、カイル様は、私の残りを数えていたんでしょう。昨夜、そういう顔をしていました」
カイル様の目が、わずかに揺れた。
「だから、今度は、私が数えます。あなたの残りを。間違いだったら、それでいいんです。間違いだったら、私が一番に笑います。でも、確かめもしないで、古傷だで済ませるのは、嫌です」
言い終えたとき、指先が冷たくなっていた。冷たい海に入った朝みたいに。
カイル様は、長いこと、私の顔を見ていた。
それから、膝の上の焼き林檎を、ゆっくりと持ち上げた。かじらずに、ただ見ていた。
「……セオという医者は、どうすると言っていた」
「確かめに来る、と。先生の許しをもらって、三日のうちに、この港へ」
「三日」
「はい」
カイル様は、焼き林檎を、ひと口かじった。
「海賊の季節だ。医者に付き合っている暇はない」
「カイル様」
「だが」
蜂蜜で汚れた指を、カイル様は、じっと見下ろした。
「君がそういう顔をするのは、もう見たくない」
それ以上は、何も言わなかった。
立ち上がって、焼き林檎の最後のひと口を口に放りこんで、カイル様は桟橋を戻っていった。見回りの続きがある、と言って。
一度も、振り返らなかった。
桟橋の付け根で、屋台を片付けていたピップが、カイル様の背中と私を見比べていた。
「兄ちゃん、怒ってた?」
「……いいえ。怒ってはいなかった」
「ふうん」
ピップは、串を束ねながら、ぽつりと言った。
「兄ちゃんさ、焼き林檎の最後のひと口、いつも海鳥にやるんだよ。半年、毎朝。今日は、全部自分で食べてた」
私は、桟橋の先を振り返った。
板の上に、蜂蜜の染みが一つ残っているだけだった。いつもそこに降りてくる海鳥が、何もない板の上を、首をかしげて歩いていた。
それから昼まで、私は桟橋の端に座ったまま、その海鳥を見ていた。
*
昼過ぎ、かもめ亭に戻ると、マーサさんが戸口で待っていた。
「言えたかい」
「……言えました」
「そうかい」
それだけ言って、マーサさんは私の皿に、今度は魚を二匹乗せた。
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
信じてもらえなかった。けれど、聞いてはもらえた。
部屋に戻って、懐から、くたびれたリストの紙を出した。
表には、私の七つの項目。七番目だけ、まだ線が引かれていない。
裏には、昨夜カイル様が書いた一行。
『一、この灯台の灯りを、フローラと見る。来年の春に』
灯台は、春にしか灯らない。
春は、まだ半年先だ。
*
〈カイル〉
宿舎の机の上に、手帳を開いた。
栞にした紺色のリボンの頁に、昨夜書いた一行がある。
『二、灯りの下で、好きだと言う』
春まで、あと半年。急ぐことはない。昨夜、そう思った。
指で、その一行をなぞった。
この半年、毎晩、彼女の残りを数えていた。宿舎の窓から灯台を見るたびに、春が来なければいいと思った。春が来たら、彼女はいなくなるのだと思っていたから。
今度は、彼女が数えると言った。
俺の残りを。
胸の奥が、痛んだ。昨夜より、少しだけ強く。
古傷だ、と言いかけて、今夜は、言えなかった。
マーサ。かもめ亭の女将。落ちこんだ客には、魚を一匹多く乗せる。
次回、見習い医師セオ。
期限まで あと181日




